伊丹市立ミュージアム

 

伊丹市立ミュージアム

※伊丹市立ミュージアム・・・令和4年に開館した新しい博物館です(入館無料)ウインク

 

ミュージアム敷地内に、国指定重文岡田家住宅、県指定有文石橋家住宅があります真顔

 

特に岡田家住宅は、江戸初期に建てられた商家(造り酒屋)で、非常に価値のある建築物ですちゅー

 

駐車した場所の近くにありましたので、荒木村重の墓の聞き込み、資料などがあったら、もらおうかと軽い気持ちで入りましたが、展示内容も古代から近世までの発掘遺物も展示してあり、上記の住宅も無料で見学できますデレデレ

 

ミュージアムの方に「荒木村重の墓がある、すみぞめでら(墨染寺)に行きたいんですけど、資料とかあります?」と僕が聞いたところ、職員の方は少し怪訝そうな顔をされていました滝汗

 

ちょっと不安になりましたが、「ああ!ぼくせんじ(墨染寺)ね!ここから東に向かって歩いて、少し歩いたら分かると思います」とパンフレットを持ってこられ、地図で説明してくださいましたニヤニヤ

 

 

 

 

 

荒木村重公の墓1️⃣

 

 

 

  戦国武将の墓・供養塔シリーズ

 

戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。

 

 

1️⃣戦国時代

応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)

 

2️⃣安土・桃山時代

織田政権(天正元年1573年〜天正13年)豊臣政権(秀吉関白宣下天正13年〜慶長8年1603年)

 

3️⃣江戸時代

徳川政権(家康征夷大将軍宣下慶長8年1603年〜大坂の陣豊臣家滅亡、慶長20年1615年)※慶応3年1867年大政奉還で、江戸時代は幕を閉じます

 

この3時代に活躍した大名、武将の墓、供養塔を調べ、訪問した記録を残したいと思い、このシリーズを立ち上げます。

 

 

  「生きること」「茶道具」に執着した「戦国武将 荒木村重」の生涯1️⃣

 

 

荒木摂津守村重・・・1535年(天文4年)〜1586年(天正14年)

 

 

 

 兵庫県伊丹市にある墨染寺に荒木村重公の墓(供養塔)があります。

 

他に(伝)荒木村重公の墓は、同じ伊丹市の荒村寺に位牌、堺市の南宗寺に本墓がありましたが、現在は無いようです。

 

他にも、大阪府池田市、熊本市に供養塔があるようです。

 

 

 

 

荒木村重は、戦国時代を生きた大名・武将のなかでは、異色の「生」にとことん執着した人物と言えます。

 

なぜ、そこまで「生きること」に執着したのか?疑問に思いましたので、「荒木村重」とはどんな大名・武将だったのか知りたくなり、調べました。

 

 

それでは、波乱万丈の「荒木村重」の生涯を辿ってみたいと思います。

 

 

伊丹市パンフレット

※伊丹市立ミュージアムから頂いたパンフレット・・・時間がなく、有岡城と墨染寺のみ行くこととなりましたが、伊丹市には、他にも多くの名所・旧跡の見どころがたくさんありますウインク

 

伊丹を代表する歴史人物が「可愛く」描かれていますちゅー

 

お坊さん・・・奈良時代に活躍した行基上人です。伊丹に来て、水が湧いている場所を発見し、昆陽池という巨大なため池を造ったことで、伊丹の稲作が発展しましたポーン

 

また、山陽道に面する伊丹の地に「昆陽布施屋(旅人の簡易宿泊施設=のちに寺院(昆陽寺)になります)」を造り、伊丹を往来する人を増やしましたウインク

 

髭の武将・・・荒木村重です笑い泣き

 

商人風の男性・・・上島鬼貫という江戸時代を代表する「松尾芭蕉」に並ぶ俳人として有名(だそうです。僕は知りませんでした)笑い泣き

 

伊丹の造り酒屋に生まれ、伊丹を中心に全国を周ったと言われています真顔

 

 

  ①荒木村重の供養塔〜墨染寺

 

 

荒木村重公墓所「墨染寺」は伊丹市内にあります。

 

 

かつて、有岡城の「総構」の一角に「上臈塚砦」という防御施設(砦)があり、その跡地に墨染寺は建っています。

 

前回の有岡城の投稿にも書きましたが、有岡城の跡地はほとんど「市街地化」され、ごく一部の「遺構」が史跡公園となり残っているだけですので、かつて有岡城がどれくらいの「規模」だったのか想像するのは、難しいと思います。

 

しかし、現在の墨染寺の位置から有岡城跡公園まではだいぶ距離がありますので、有岡城の規模はかなり広大だったと思われます。

 

現在の墨染寺は、「上臈塚砦跡」に建っていると言いましたが、なぜ「上臈塚」と呼ばれているのか?

 

 

現在の墨染寺には、その「痕跡」として「女郎塚」という女郎(=上臈)を葬ったとされる「塚=墓」が残っています。

 

 

伊丹の地は、豪族伊丹氏が支配していた中世より酒造業が始まったと言われ、商人たちが集まる町であったため、城下町や港湾都市に多く存在した「花街」があったようです。

 

「花街」とは、女性が多くいる街の意味で、いわゆる現代で言うところの「歓楽街(居酒屋などの飲食店、クラブ、ラウンジ、スナック、バー、風俗店などが集まる街)」です。

 

伊丹の地は、古来より「花街」があったようで、当地で亡くなった「女郎=遊女」を葬った塚があったところ(おそらく、墨染寺の前身の寺院があったと思われます)が「上(女)臈塚」と呼ばれていました。

 

 

また、処刑された荒木村重一族の女性たち(女中=上臈)を供養したことから、のちに「上臈塚」と呼ばれた「説」もあります。

 

 

荒木は、有岡城内に建てた荒村寺を菩提寺とし、荒村寺は、場所を移され現在も存続しています。

 

 

荒木は、もうひとつの菩提寺として、墨染寺の前身の寺院を「上臈塚砦」に造ったとされています。

 

 

「墨染寺の伝・荒木村重九重石塔」は、村重および有岡城の戦いで非業の死を遂げた荒木一族を供養するために建てられた供養塔です。

 

 

九重石塔は、もとは有岡城跡にあったとされています。

 

 

九重石塔は、伊丹市の指定文化財には、「正式に」なっていませんが、「墨染寺の石造物」として、市指定史跡に認定されています。

 

 

九重石塔がなぜ、「伝・荒木村重の供養塔」とされているかについてですが、荒木村重が有岡城を居城とする際に、「荒木家の累代墓」を摂津池田から移したという伝承が残っていたそうです。

 

その累代墓が、「鵯塚」と呼ばれ、旧有岡城跡地に残っていたのを、江戸後期に墨染寺の住職が寺に移したそうです。

 

 

伊丹市が、九重石塔(伝・荒木村重供養塔)を調査したところ、元は「十三重石塔」であったのを補修して「九重石塔」に「改変」したことが分かりました。

 

 

基底部の台石に、「正和ニ年(1313)」の紀年銘文が残っていることが分かっています。

 

 

おそらくですが、「鵯塚」に建っていた十三重石塔は、年月とともに荒れ果て、倒壊し、それを嘆いた墨染寺の当時の住職が残欠の石材を拾い集めて、修復しようとしたのではないか?と思われます。

 

台石の上の基礎部分と石塔の塔身部分は、新しい石材を用いて補修された痕跡が残っており、石塔本体は、「繫ぎ合わせた」形跡が残っていることが判明しています。

 

これも、想像ですが、荒木村重は有岡城主時代に、豊富な水を利用した伊丹の酒造業、稲作の推奨を進めた「名君」として、町人たちからも尊敬されていたと思われます。

 

 

残欠を拾い集めて修復するという作業は、新しく墓(供養塔)を作るより、遥かに「時間」と「カネ」のかかる「作業」です。

 

 

現在まで石塔が残ったのは、決して荒木村重が、「愚かな人物」ではなかった「証拠」だと思えるのです。

 

 

墨染寺

 

墨染寺

※荒木村重の墓がある墨染寺・・・村重一族の菩提を弔うため、かつての有岡城総構えの「上臈塚砦」の跡地に建てられたと言われています真顔

 

 

  ②荒木村重の生涯〜出自「荒木氏」

 

 

荒木氏は元々、丹波波多野氏の一族で、丹波国荒木村にいたため、「荒木氏」を称していました。

 

 

荒木氏は、源範頼(頼朝の弟、義経の兄)の子孫を「自称」していたようです。

 

 

経緯は定かではありませんが、室町中期に村重の祖父荒木定氏が、摂津池田家の当主池田貞正に仕え、丹波から摂津へ移りました。

 

 

摂津池田氏は、源頼政の子孫「摂津源氏」の一族で、平安末期から記録が確認できる「名門」です。

 

 

荒木定氏は武勇の誉れ高く、池田家中で頭角を現していきますが、大物崩れ(細川晴元VS高国の争い)で主君池田貞正とともに戦い、討ち死にしました。

 

 

定氏の息子義村は、池田貞正の跡を継いだ長正の重臣筆頭になります。

 

 

荒木村重は、義村の長男として、天文4年(1535)に生まれました。

 

 

村重は、幼名を十二郎と言い、幼いころから「大飯食らい」で、大柄な体格だったと言われています。

 

 

元服と同時に、主君池田長正の娘を妻にしました。

 

 

村重は、摂津池田家の重臣筆頭兼一門衆筆頭になります。

 

 

しかし、世の中は、「下剋上」の戦国時代になっており、村重は、「池田家の重臣」に満足することはありませんでした。

 

 

  ③荒木村重の生涯〜摂津池田家乗っ取り

 

 

 

村重は、「戦国大名」としての「独立、下剋上」を目指します。

 

 

村重は、長正から家督を継いだ摂津池田家の当主勝正に対して不満を持っていた、池田知正(長正の次男)に、勝正は無能だから追放しようと知正を「焚き付け」ます。

 

 

当時、池田家は代々服従を余儀なくされてきた細川家、三好家から独立するため、15代室町将軍足利義昭とともに上洛してきた織田信長に臣従します。

 

 

村重は、池田家を乗っ取り、三好から独立し、やがては織田からも独立しようと「野望」を抱いていました。

 

 

村重は、義弟(のち、娘婿)である知正とともに、勝正を追放、知正を傀儡の当主に据え、「摂津池田家」を乗っ取ることに成功します。

 

 

「摂津池田家」を事実上乗っ取った村重でしたが、三好家から織田家に急速に勢力が変わっていく畿内の状況を冷静に分析、信長の「力」を利用して「領地拡大」を目指すと決めました。

 

 

村重は知正とともに、信長に「臣従」します。

 

その後、信長と義昭の仲が険悪になり、「反信長包囲網」が作られ、信長がピンチに陥ったとき、村重は、一族を挙げて「織田軍」として戦っています。

 

 

村重の働きは、目覚ましく、信長は大いに気に入り、池田家の領地を村重にすべて与えます。

 

 

このとき、村重は、正式に池田家乗っ取り=下剋上を達成しますが、「かつての主君」池田知正を殺したり、追放したりはしませんでした。

 

 

 通常の「下剋上」ならば、かつての主君は殺されるか、追放されるかの「二者択一」が殆どです。

 

村重にとっての「池田知正」は、かつての主君であると同時に、「義弟」且つ「娘婿」でしたので、むやみに殺したり、追放することなく、「配下の一門衆且つ重臣」にしたのです。

 

池田知正自身、ただの「バカ殿」ではなく、時勢をみて名家「摂津池田家」を残すため、義兄、義父である村重に従い、名前も「荒木久左衛門」に改めています。

 

 

村重は、摂津有馬家を滅ぼし、三好、細川残党を討伐、摂津北部及び西部を領有し、摂津一国の「大名」を目指し、戦っていくことになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません🙇

 

 続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

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