※有岡城主郭部分案内板
※有岡城主郭部分から発掘された石垣・・・昭和50年から始まった有岡城主郭部分と推定される部分から、発見された石垣です
転用石(宝篋印塔の台石か)これ以外にも多数発見され、有岡城は、大部分が「総石垣造り」の城郭であったことが判明しています
有岡(伊丹)城跡
有岡(伊丹)城には、今回初めて行きました。
有岡城は、平城に属します。
有岡城は、戦国武将「荒木村重」の居城として、信長の安土城に先駆けて「天守」を導入した城として有名です。
有岡城は、荒木村重の謀反(有岡城の戦い)が起こり、落城してから4年後に廃城となりました。
江戸時代を通じて跡地は残っていたようですが、明治の鉄道施設により破壊されました。
現在、跡地はJR伊丹駅の敷地及び市街地化によって、消滅したものの昭和50年に始まった発掘調査により、当時の転用石を使用した石垣や大量の瓦片、陶器片などが発見されました。
発掘調査終了後の昭和54年、本丸推定地が国指定史跡となり、公園化され、現在は市民の憩いの場となっています。
※有岡城主「荒木村重」案内板と国指定史跡「有岡城跡」案内板・・・発掘調査において、多数の遺構が発見されたことにより、有岡城主郭部分は「国指定史跡」になっています
有岡(伊丹)城跡
有岡(伊丹)城(有岡城址公園)は、JR西日本福知山線伊丹駅前(南側)にあります。
有岡(伊丹)城跡は、駅前にあるため、駐車場はありません🚗
有岡城跡は史跡公園になっています。
公園内には、発掘調査で発見された推定本丸(主郭)部分にあった建物礎石、井戸跡、転用石を使用した石垣の一部があります。
では、有岡(伊丹)城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇
※有岡城の巨大な土塁(復元)と堀(空堀、水堀)遺構・・・発掘調査以前から一部土塁と堀は残っていたようです
廃城前は、主郭部分は、「総石垣造り」で、現状土塁ですが、ある程度石垣で覆われていたと考えられています
※有岡城北側(主郭北部分、伊丹駅前)空堀遺構・・・すべて道路となっていますが、かなり巨大な空堀であったことが確認できます
※有岡城南側(主郭南部分)空堀遺構・・・堀について詳細は判明していないものの、北(伊丹駅周辺)に巨大な空堀を設け、南は豊富な猪名川水系の河川から引いた水や豊富な地下水を利用した巨大な水堀があったとされています
①有岡(伊丹)城の歴史〜室町・戦国時代(伊丹家滅亡→荒木村重の有岡城築城)
有岡城は、別名伊丹城と言います。
現在の伊丹市周辺は、藤原氏の流れを組む「伊丹氏」が鎌倉後期に土着して、摂津西部を支配する有力国人として、勢力を誇っていました。
伊丹城は、南北朝期に伊丹氏の居城として築かれた平城ながら天然の要害でした。
伊丹氏は、応仁の乱から始まる戦国時代には、細川氏、畠山氏、三好氏との争いに巻き込まれるも、依然として伊丹周辺を勢力下に治めています。
戦国時代の当主伊丹親興(之親)は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したときに、摂津北東部を支配する国人領主池田勝正とともに、信長の配下となり、領地を安堵されました。
その後、伊丹は、池田勝正、元幕府相伴衆和田惟政とともに、信長から「摂津三守護(摂津西部伊丹、北部和田、東部池田)に任じられました。
しかし、伊丹氏は、信長によって実権を奪われた将軍足利義昭による「反信長包囲網」に義昭方として加わることになります。
伊丹城は、摂津池田家の実権を握って、信長の配下となっていた元池田家家老「荒木村重」に攻められます。
伊丹親興は、自刃(息子忠興とともに逃亡説あり)に追い込まれ、「摂津の戦国大名としての伊丹氏」は滅亡しました。
新たに伊丹城主となった荒木村重は、伊丹城を「有岡城」に改名し、城下町を整備、東に流れる大河川「猪名川」を利用した南北約2キロに亘る広大な「総構」を造りました。
現在、伊丹といえば、大阪じゃない「大阪国際空港(伊丹空港)」、「自衛隊伊丹駐屯地」がある大阪のベッドタウンとして有名です。
伊丹の地は、伊丹氏が支配していた中世から猪名川水系の豊富な河川の水、地下水を利用した「酒造業」、温暖な気候且つ豊富な水を利用した稲作、特に酒米の生産が盛んになっています。
荒木は、伊丹氏支配時代からあった、伊丹の酒造業を本格的に奨励し、江戸時代には有数の酒造業の町の基礎を造りました。
城に話を戻しますが、有岡城は、伊丹氏時代から「天守(天主、殿主、殿守)」を持っていた文献上に現れる「最古の城郭」と言われており、当初は簡素な造り(二階建て)の楼閣建築物(天守)を荒木は大改修し、三層の豪壮華麗な天守を造ったと言われています。
有岡城天守は、「天守建築の原点」と言える建造物ですが、残念ながら遺構は残っていません。
しかし、有岡城天守が端緒となり、明智光秀の「坂本城」、細川藤孝の「勝龍寺城」、松永久秀の「多聞山城、信貴山城」、そして織田信長の「安土城」が登場し、天守建築が全国的に普及していくことになったのです。
※有岡城沓脱石遺構と伊丹之親句碑・・・沓脱石は文字通り靴を脱いでおいておく石で、現在の玄関に相当します
発掘調査で発見され、伊丹氏時代の遺構と考えられています
有岡城跡は、明治期に大部分が破壊されており、明確な建物遺構は検出されませんでしたが、伊丹氏時代には既に城内に「御殿建築」風の建物が存在していたことが、判明しています
伊丹之親は、南北朝期から伊丹周辺を治めていた「名族」でしたが、荒木村重に敗北し、自刃(逃亡説あり)し、伊丹氏は滅亡しました
この句碑は、和歌山県の神社に奉納されていた「和歌」の一説で、之親の祖父が奉納したものです。
和歌山県の神社に奉納したこと=伊丹氏が酒造業、稲作を中心とした「財力」を基にし、畿内に影響力を持っていた「証拠」と言えます
②有岡(伊丹)城の歴史〜荒木村重の謎の謀反〜有岡城の戦い
天正6年(1578)、三木合戦(別所攻め)に羽柴秀吉の副将として参戦していた荒木村重は、突如撤退し、有岡城へ帰ってしまいました。
荒木は、有岡城に立てこもり、信長に反旗を翻します。
旧知の間柄である明智光秀、細川家家老の松井友閑が説得に行きますが、荒木は反抗の姿勢を崩しません。
羽柴秀吉の軍師、黒田官兵衛は、荒木と親しい仲だったため、秀吉の命を受け、荒木を説得に向かいますが、(荒木に捕らえられ、幽閉されます)戻ってきませんでした。
荒木の元へ行ったまま、官兵衛が戻ってこないと秀吉は、信長に報告します。
信長は、詰問のため、再度、荒木の縁戚(長女が村重の息子の正室)である明智光秀を使者として派遣しました。
明智光秀は、安土に来るよう、荒木を説得し、荒木は翻意して安土へ向かおうとしますが、家臣中川清秀に止められ、有岡城に戻ってしまいました。
怒った信長は、荒木征伐のため、5万の大軍で、有岡城を攻めに安土を出陣、こうして、「有岡城の戦い」がはじまります⚔️
荒木によって大改修された有岡城は、織田軍の猛攻撃に耐えますが、頼みにしていた毛利水軍が、木津川口の戦いで大敗を喫してしまいます。
同盟者の本願寺、毛利の支援が受けられなくなった荒木でしたが、有岡城の攻防戦は、約1年続きました。
しかし、織田軍の大量の物量作戦により、徐々に追い詰められた荒木は、妻子や家臣たちに内緒で、息子村次が籠城する大物(尼崎)城へ逃亡します。
城主荒木村重がわずかな共を連れて、茶道具一式を担ぎ、単身夜中に逃亡したことを聞いた、家臣たちの士気は下がり、その後有岡城は落城しました。
荒木は、息子村次とともに尼崎城、花隈城に移り、抵抗を続けますが、遂に城を捨て、毛利家の本拠地安芸、備後へ逃亡しました。
有岡城に残された妻、だしを始めとする荒木の妻子、一族、家臣たちは、信長によって皆殺しにされます。
摂津池田家の一家臣から、信長の家臣になり、大名にまでのし上がった荒木村重の「謀反=有岡城の戦い」は、明智光秀の「謀反=本能寺の変」と同じく「謎」が多いです。
詳細については、荒木の生涯(墓訪問)のときに説明させて頂きたいと思います。
※有岡城「官兵衛ゆかりの藤」・・・荒木が天正6年、信長に対して、「謎」の謀反を起こし、有岡城に籠城しました
黒田官兵衛と荒木は「旧知の仲」であったため、荒木を「説得」しに行きますが、捕らえられ、地下牢に約1年「幽閉」され右足が不自由になった「逸話」は、有名です
荒木は官兵衛を捕らえはしたものの、決して粗略に扱わぬよう、家臣たちに申し付けていたようです
官兵衛は、地下牢の窓から見える「藤棚」を見て、心を慰め、荒木が差し入れた「兵法書」を読み、軍略を練ったという「逸話」が残っています
※有岡城建物跡と井戸跡・・・主郭内に残る建物礎石と井戸遺構です
有岡城には、伊丹氏時代から二層あるいは三層の楼閣風建築物(天守、天主、殿主、殿守)があったとされ、荒木が豪壮華麗な建物に改修、「天守建築の起源」になったと言われています
残念ながら、この礎石建物遺構が「天守」とは断定できませんが、「大規模な建築物」が有岡城に建っていたことが分かりました
※有岡城南にある「伊丹郷町大溝跡」・・・伊丹の地は、「酒造業」の町として江戸期に最盛期を迎え、大いに発展しました
有岡城南堀は、水堀で常に清涼な水が湧き出ていたと言われ、伊丹の町民は、広大すぎる堀を埋め、堀の「水源」まで「大溝」を造り、「酒造り」に利用していました
豊富な「水」を利用し、荒木が「酒造業の町、伊丹」の基礎を作ったことは間違いありません
伊丹は、「空港や自衛隊の町」だけではなく、何百年と続く「商工業の町」なのです!!!
③有岡城の遺構
有岡城は、有岡城の戦いの4年後廃城となり、石垣や建物などは秀吉の大坂城築城などに利用されたと言われています。
有岡(伊丹)の地は、江戸時代に入り、本格的に酒造業が盛んになり、一大商工業地になります。
有岡城跡は、江戸時代の絵図に基づいて作られた伊丹の町の模型(伊丹市立ミュージアムに展示されています)があります。
江戸期にも城地(主郭部分)と堀が残っていたことが分かります。
明治に城地付近は、国鉄の鉄道敷設により、破壊され、遺構は消滅しましたが、昭和50年から約4年に及ぶ発掘調査が行われ、文献でしか確認出来なかった石垣、建物遺構が発見されました。
有岡(伊丹)城は、天守(主)を持った総石垣造りの城であったことが、発掘調査において証明されています。
有岡城は、平坦部あるいは丘陵に城を築き、その中心(本丸、主郭)にシンボルマーク兼権威の象徴である、高層の楼閣建築物(天守、主)を建て、その周辺(東西南北)に城下町を造り、全体を堀で囲む「総構」を施した「近世城郭」の「先駆」であると考えられます。
現在、有岡城は史跡公園となり、転用石を用いた石垣遺構などを見ることができます。
有岡城跡は、非常に価値のある史跡です。
興味ある方は、一度行ってみてください。
長くなり申し訳ありません😓
最後まで読んでいただきありがとうございます🙇