和意谷池田家墓所巨大鳥居

 

和意谷池田家墓所案内板※和意谷池田家墓所入口に建つ巨大な石鳥居と国指定史跡「和意谷池田家墓所」案内板・・・岡山藩主初代池田光政公により2年間の歳月をかけ和意谷敦土山に池田宗家本墓所を築きました真顔

 

平成10年(1998)菩提寺岡山曹源寺とともに国指定史跡となっていますニヤニヤ

 

 

 

 

和意谷池田家墓所

 

 

 

 

 

和意谷池田家墓所配置図

※和意谷池田家墓所配置図案内板・・・この案内板を写真に撮って、パンフレットと見比べてまわりましたが、ほぼ「登山」でフラフラになりました(一から六のお山までしか行けませんでした)チーン

 

しかし、輝政公墓所(一のお山)など、どの墓所もすごい規模で、当時の大名の権力、資金力、石工技術、墓制を知るうえで大変貴重な「文化財」であると言えますウインク

 

 

 

 

 

 

 

 

  和意谷池田家墓所

 

国指定史跡「岡山藩主和意谷池田家墓所」は、無料の拝観者用駐車場があり、そこに駐車可能です。

 

まったく人はいませんでした😔

 

和意谷池田家墓所は、「国宝閑谷学校」の北にあります。

 

道を聞きに、閑谷学校に行って、売店の方にパンフレットを頂きました。

 

「急に道が狭くなって、危ないから気を付けてね」と言われました。

 

車で和意谷池田家墓所まで行きましたが、閑谷学校までの道は、広く走りやすいのですが、途中で急に狭くなり、ダム(湖)沿いに車1台通れるのがやっとで、湖沿いの道は、ガードレールもなく、「対向車来たらどないしよ…」とビビリながら走りました。

 

めちゃくちゃ怖かったです…😭😭😭

 

車に慣れていない方には、オススメしかねます…

 

 

では、和意谷池田家墓所の歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

 

国指定史跡「和意谷池田家墓所石碑

※和意谷池田家墓所入口に建つ国指定史跡「和意谷池田家墓所」石碑・・・平成10年、国指定史跡認定に伴い建てられたものです真顔

 

 

 

  ①和意谷池田家墓所の歴史〜池田光政による墓所造営

 

 

岡山藩池田宗家初代藩主池田光政は、池田家菩提寺の京都妙心寺塔頭護国院が、全焼したことを聞き、祖父輝政、父利隆の墓所を移すことを決意します。

 

寛文5年(1665)、光政は、家臣の津田永忠に墓所造営に適した土地を探すよう命じます。

 

津田は、約1年かけて領内を見聞し、光政にいくつかの候補地を案内しました。

 

光政は、いくつかの候補地の中から、和気郡脇谷村の山に決め、この山を「敦土山」と名付けました。

 

光政は、熟慮した上で敦土山を和意谷と名付け、転封となった場合でも、池田家墓所を守れるよう、自身の私費を投じて山及び付近の田畑を買収し、田畑、山を所有していた名主(庄屋)に墓所の整備に「墓守」を置くよう頼みました。

 

名主は、墓守用の村「和意谷新田村」を作ります。

 

村は、年貢を免除され、年間50石(約300万円)を「墓守」「永代供養料」として、岡山藩より支給されたそうです。

 

和意谷池田家墓所は、寛文7年(1667)から、光政の祖父家祖輝政、父藩祖利隆墓所の造営から始まり、寛文9年(1669)に完成し、毎年3月に藩主及び一族により、儒教式の祭祀が行なわれるようになりました。

 

平成10年、岡山市内にある菩提寺「曹源寺」とともに「岡山藩主池田家墓所」として国指定史跡認定されています。

 

 

 

和意谷池田家墓所パンフレット

※和意谷池田家墓所パンフレット・・・国宝閑谷学校に立ち寄り、和意谷の行き方を聞いたときに頂きましたウインク

 

パンフレットは地図も付いており、分かりやすいと思いますニヒヒ

 

閑谷学校の方に、「急に道狭くなるから、気い付けよ」と言われ、ほんとに車1台しか通れない、湖沿いのガードレールもない道を通って行きましたチーン

 

正直、怖かったです・・・ゲッソリ

 

 

 

 

  ②和意谷池田家墓所〜墓所の構成

 

 

和意谷池田家墓所は、敦土山山頂に点在しています。

 

儒教式の墓所で、埋葬施設の円墳(お山)の前に櫛形墓が建っており、故人の業績を称えた笠形の板碑がとなりに建っています。

 

墓所は、1基ごとに石製の玉垣で囲まれ、石扉が付いています(一部破損)。

 

大型の亀趺(きふ)(亀型の神獣)が台石になっている墓(輝政公など)があり、岡山藩31万5千石にふさわしい「大名墓」となっています。

 

 

 

墓所は、輝政公墓「一のお山」から「七のお山」まであり、代々の藩主及び夫人、一族墓があります。

 

 

 

参道は、石製の大鳥居から約2千個の敷石が約1kmに亘って敷かれ、墓所の他に藩主茶屋跡、墓守住居、倉庫跡があります。

 

 

 

 

 

  ③和意谷池田家墓所の詳細〜一のお山〜七のお山

 

 

湖沿いの道をビビリながら走り、ようやく和意谷池田家墓所に着きました。

 

車を4、5台ほど止められる駐車場があります。

 

和意谷池田家墓所は、計7つの墓所があり、「お山」と呼ばれています。

 

閑谷学校で頂いたパンフレットを見て、一番近そうな「三のお山」→「五のお山」→「四のお山」→「ニのお山」→「一のお山」→「六のお山」→「七のお山」に行くことにしました(勘違いして七のお山に辿り着くことが出来ませんでした😭)。

 

個人的には、霊とかお化けとかあまり信じてないですが…(長年の会社員生活、過去の日本や現在でも、世界で起こる戦争、紛争、事件などを見てたら「生きている人間が一番怖い」と思うからです)。

 

和意谷池田家墓所は、とても静かで賑わうことは、ほぼないだろうと思いましたが、「儒教式の珍しい大名墓所」としては、「貴重な文化財」ですので、車の運転に自信のある方は、行ってみてください!(車の運転に自信の無い方は、オススメしかねます😅)

 

一のお山〜七のお山までの被葬者の内容は、

 

一のお山…岡山藩池田家家祖池田輝政公

 

ニのお山…岡山藩池田家藩祖池田利隆公、正室鶴姫

 

三のお山…岡山藩池田家初代池田光政公、正室勝姫

 

四のお山…岡山藩池田家8代池田慶政公、正室宇多子

 

五のお山…岡山藩池田家9代池田茂政公、正室萬寿子

 

六のお山…輝政六男輝興(赤穂藩2代)、岡山藩2代綱政長男輝尹、天城池田家(輝政兄元助系)旗本池田政美、岡山藩8代慶政四女鋭子、岡山藩藩祖利隆次男恒元(山崎藩初代)、山崎藩初代恒元長男政周(政元、山崎藩2代)

 

七のお山…輝政四男利政(岡山藩池田家家老)、輝政次男政虎(岡山藩池田家家老)、輝政長男利隆の三男政貞、岡山藩初代光政の娘六姫(六姫は高野山にも墓があります)

 

 

尚、各人の生涯については、「大名・武将の墓シリーズ」でご紹介させて頂きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

終わります🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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