※勝龍寺城公園主郭跡内にある細川忠興・ガラシャ銅像…勝龍寺城は明智玉(ガラシャ)が輿入れした「細川ガラシャゆかりの地」です
毎年11月には「細川ガラシャまつり」が開催され、武者行列、ガラシャ輿入れ行列が練り歩き、多くのひとでにぎわいます
山崎古戦場7️⃣勝龍寺城②
山崎古戦場には、今回初めて行きました。
山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。
行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅
しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。
※勝龍寺城公園主郭跡内北東模擬隅櫓と階段、石垣遺構…発掘調査で、当時の遺構である階段および石垣遺構が発見されました
山崎古戦場跡7️⃣勝龍寺城②
山崎古戦場跡は、京都府大山崎町にあります。
山崎古戦場周辺には、「大山崎町歴史資料館」、秀吉本陣「宝積寺」、秀吉により建てられた現存する数少ない城趾「山崎城」があります。
また、光秀本陣「境野1号墳」があります(現在は、サントリー工場敷地内にあり、立ち入りできません)。
近年の研究により、近くにある巨大前方後円墳「恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという説が、有力視されています。
恵解山古墳は、巨大な前方後円墳で、陣城に利用するには、十分な規模があります。
また、光秀が逗留し、出陣したとされる細川藤孝の城、勝竜寺城があります。
以上の遺構とともに、秀吉VS光秀双方の「天下分け目の戦い」の足跡を辿りましたので、紹介させて頂きます🙇
今回は、安土城に先駆けた石垣、天守(天主、殿主)を備えた数少ない城郭遺構の原点、勝龍寺城の遺構を紹介させて頂きます🙇
※勝龍寺城公園主郭跡内石垣転用石群…ボランティアガイドさんの話によれば、昔周辺はお寺と田畑しかなく、堀の水は農業用水にも使われていたようです
戦後の急速な周辺の「市街地化」により、田畑は消滅、城の堀や土塁も埋められ、壊され、「道路」や「住宅」になっていったそうです
勝龍寺城址も主郭(本丸)は、畑と鶏、豚小屋になっていたようで、畑を耕したり、堀のドブさらいをしていたら、お地蔵さんや墓石が出てきていたそうです
見つかったものを現在の位置に置いて、お祀りしていたようです
のちに、畑や豚小屋は市に買い取られ、「勝龍寺城公園」になりました
資料館などを建てるため、発掘調査したところ、より多くの「転用石」が見つかりました
刻銘がはっきり確認できるものもあり、非常に貴重な文化財と言えます
※勝龍寺城公園主郭跡内石垣…北門脇にあった石垣が、発掘調査にて発見され、ほぼ当時の状態で完存しています
石垣や転用石の発見によって、文献でしか確認できなかった「石垣造りの先駆的城郭」であったことが証明されました
天守(殿主)を備えた「織豊系城郭遺構のさきがけ」として勝龍寺城は、大変重要な遺構と言えます
①勝龍寺城の遺構〜南水堀
前回の投稿で、ボランティアガイドさんの話の中で、水堀は今の倍くらいあって付近も田畑だらけで、子供の頃は、よく遊んでいたとおっしゃっていました。
本丸は畑と豚小屋、鶏小屋があり堀もドブ川みたいになっていたと話されていました。
以前から、石仏や瓦片、陶磁器片が堀や畑から発見されており、昭和54年(1979)から昭和63年(1988)まで、断続的に発掘調査が行われています。
※勝龍寺城公園主郭跡内西土塁遺構…3m以上ある土塁遺構がほぼ完存しています
②勝龍寺城の遺構〜主郭(本丸)
勝龍寺城の主郭(本丸)相当部分は、上記の畑や家畜小屋になって市街地化を免れたため、ほぼ完存しています。
堀は、北側、西側は消滅しています。
発掘調査終了後、本丸には模擬南門、模擬隅櫓、模擬塀、模擬天守風の資料館が建てられて、平成4年「勝龍寺城公園」として、市民の憩いの場となっています。
模擬天守風資料館は、細川藤孝、忠興、ガラシャ、明智光秀関連の資料が展示されています。
本丸には模擬建物の他、細川忠興、ガラシャ銅像が建っています。
また、東側土塁、石垣、井戸跡、階段遺構、石仏、五輪塔、宝篋印塔、板碑などの「転用石」、北門跡周辺に残っていた石垣、礎石、西側土塁、北側堀、帯曲輪など発掘調査により発見された遺構が見学できます。
特に、転用石に関しては、大永2年(1522)刻銘のある板碑、永禄12年(1569)刻銘のある一石五輪塔など貴重な石造物が発見されています。
細川藤孝の勝龍寺城主であった期間が、永禄11年(1568)から天正9年(1581)とすると、転用石が主郭部分だけで50基以上発見されていることから考えても、藤孝が信長の命によって、大改修を短期間で行ったことがよく分かります。
おそらく藤孝は、勝龍寺周辺の寺などから、大量の墓石や供養塔、石仏を押収し、石垣に「転用」したことがよく分かります。
これら転用石を多用しているのは、織豊系城郭に多いです。
築城ラッシュの安土桃山時代〜江戸時代初期は、木材、瓦、石材不足であったことから、多くの墓石や寺院の石塔類が石垣に「転用」されています。
こうした「転用石」の存在は、当時の城郭建設の状況や背景を知る上で、欠かせない「重要な資料、証拠」であると言えます。
※勝龍寺城北堀と帯曲輪遺構案内板…発掘調査で確認された遺構です
主郭と沼田丸、北曲輪(消滅)を囲む堀が巡らされ、細長い曲輪(帯曲輪)を造り、防御力を高めています
※勝龍寺城沼田丸と案内板…主郭の西側にあった大規模な曲輪で、藤孝の妻沼田氏の名に因み、「沼田丸」と呼ばれていました
陶磁器片などの遺物も発見されており、沼田氏の居館があったと推定されています
現在は公園となり、子供たちの遊び場となっています
③勝龍寺城の遺構〜沼田丸
勝龍寺城の西側には「沼田丸」とよばれる副郭(二の丸)の曲輪が残っています。
沼田丸は、藤孝の正室麝香の縁者沼田氏に因んで名付けられ、往時は蔵が建っていました。
沼田丸の北側にも曲輪(沼田屋敷)があったようですが、現在は消滅しています。
沼田丸跡は、現在公園となり、子供たちの遊び場になっています。
※勝龍寺城細川時代の想像図…少しわかりにくいかもしれませんが、
手前(東側)の小畑川を天然の「外堀」、
左側(南)に「勝龍寺」を中心とした「寺町」、
中央に三層の望楼型天守(殿主)、二重櫓、桝形門を持つ「主郭」、
中央上部(西)左が「沼田丸」
中央上部(西)右が沼田屋敷(北曲輪)、
その間を細長い「帯曲輪」、
右側(北)に家臣団屋敷を配した初期の「総構え」の城郭になっていることがよくわかります
(転載元:ワイド&パノラマ 復元鳥瞰イラスト 日本の城 イラスト香川元太郎氏 株式会社ワン・パブリッシング P149~150)
細川藤孝は、当時の戦国武将の中ではピカイチの「文化人」で、「高層楼閣建築物が建っていた室町第」を参考に、最初に天守(殿主)を城の「シンボル」として建てたのではないかと言われています
最近の研究では、勝龍寺城を見た明智光秀が「坂本城天主」を造り、細川と明智の城を見た織田信長が「安土城天主」を造ったのではないかという「説」が有力となっています
④勝龍寺城天守(殿主・殿守)
勝龍寺城には「天守」があったと言われています。
南西隅に巨大な三階櫓(殿主、守)(二階建ての御殿建築物の上に望楼建築物を載せた「望楼型天守…犬山城タイプ」)を藤孝が建てていました。
「天守、主」の初見は、信長の「安土城」と言われていますが、安土城以前に、既に「天守、主」は登場しており、御殿建築物の上に楼閣を載せた高層建築物「殿主、守」と呼ばれ、城郭の「シンボル」として存在したようです。
信長は、安土城築城以前に、小牧山城、岐阜城で「天守(主)」風建築物を建てています。
信長が建てた小牧山城、岐阜城や京都の金閣(鹿苑寺舎利殿)、銀閣(慈照寺観音殿)、室町第の高層楼閣(現存せず)を見ていた「明智光秀」が「坂本城」を、「松永久秀」が「多聞山城」を、荒木村重が「有岡城」を、細川藤孝が「勝龍寺城」を建てたと思われます。
また、それらの城の「殿主、守」を見た信長がそれらをモデルとし、より巨大な高層建築物安土城「天守、主」を建てたと言われています(諸説あり)。
勝龍寺城天守(殿主、守)は、現存していませんが、天守建築の「起源」として位置づけられています。
⑤細川ガラシャ祭り
毎年11月には、明智玉(ガラシャ)が細川家(勝龍寺城)に輿入れしたのに因み「長岡京ガラシャ祭り」が開催されます。
細川忠興、明智玉(ガラシャ)夫妻の他、明智光秀、妻煕子、光秀の甥弥平次(秀満)、マリア(玉の侍女)、細川藤孝、妻麝香、家老松井康之役の方が出演し、「武者行列」「花嫁輿入れ行列」を模した盛大なパレードが行なわれます。
尚、当日を含めた一週間を「ガラシャウィーク」と題して様々なイベントが行なわれ、長岡京市内全体がお祭りで賑わいます。
以上を持ちまして、「山崎の戦い」の主な史跡などをご紹介させて頂きましたが、この他にも「山崎の戦い」関連の史跡は、大山崎町や長岡京市に点在しています。
僕は、時間の都合上、多くを見て回れませんでしたが、機会を見つけてまた、「山崎古戦場史跡巡り」をしてみたいと思います😊
興味のある方は、是非、大山崎町、長岡京市に足をお運びください!
長くなり申し訳ありません😓
終わります🙇
最後まで読んでいただきありがとうございます🙇