勝龍寺城勝龍寺城

勝龍寺城

勝龍寺城

※勝龍寺城模擬天守風資料館、模擬塀、模擬隅櫓、南水堀…かつて、勝龍寺城には天守(殿主、守)が存在し、南西隅に巨大な三重の望楼型の櫓(殿主)が建っていましたポーン

 

水堀は、かつては東西南北にありましたが、市街地化により、消滅、現在は南、東水堀が残っていますニヤニヤ

 

水堀幅は、現在でも10m以上あり、昭和初期ごろまでは倍以上あったようです滝汗

 

城址は、平成4年(1992)に「勝龍寺城公園」として整備され、模擬建物が建てられ、市民の憩いの場となっていますウインク

 

 

 

 

山崎古戦場6️⃣勝龍寺城①

 

 

 

山崎古戦場には、今回初めて行きました。

 

山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。

 

行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅

 

しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。

 

 

勝龍寺城公園石碑

お玉輿入れの地石碑

※勝龍寺城公園石碑、明智光秀三女玉輿入れの地石碑…勝龍寺城は、名族細川和泉上家出身で、室町幕府滅亡時に織田家臣となった、元室町幕府相伴衆筆頭細川藤孝(幽斎)の居城で、嫡男忠興と結婚した明智玉(明智光秀三女お玉、のちの細川ガラシャ)輿入れの地として有名ですニヤニヤ

 

 

 

  山崎古戦場跡6️⃣勝龍寺城①

 

山崎古戦場跡は、京都府大山崎町にあります。

 

山崎古戦場周辺には、「大山崎町歴史資料館」、秀吉本陣「宝積寺」、秀吉により建てられた現存する数少ない城趾「山崎城」があります。

 

また、光秀本陣「境野1号墳」があります(現在は、サントリー工場敷地内にあり、立ち入りできません)。

 

近年の研究により、近くにある巨大前方後円墳「恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという説が、有力視されています。

 

恵解山古墳は、巨大な前方後円墳で、陣城に利用するには、十分な規模があります。

 

また、光秀が逗留し、出陣したとされる細川藤孝の城、勝竜寺城があります。

 

以上の遺構とともに、秀吉VS光秀双方の「天下分け目の戦い」の足跡を辿りましたので、紹介させて頂きます🙇

 

今回は、安土城に先駆けた石垣、天守(天主、殿主)を備えた数少ない城郭遺構の原点、勝龍寺城を紹介させて頂きます🙇

 

 

勝龍寺城案内板

※勝龍寺城公園入口にある案内板…勝龍寺城は中世から、大山崎と並ぶ京都の南西玄関口として、巨大寺院「勝龍寺」がありましたポーン

 

応仁の乱での、拠点総奪戦の場、三好三人衆の拠点の一つとなり、荒廃しましたが、細川藤孝により、復興、整備されました真顔

 

かつては、寺院と城下町を取り囲む「総構え」を形成していましたが、江戸時代になると、必要性が薄れていき、廃城となりますチーン

 

 

  ①勝龍寺城の歴史〜山﨑に並ぶ京都南の玄関口、要衝地「勝龍寺」

 

 

勝龍寺城は、中世から始まったとされる方形の居館タイプの城郭(平城)です。

 

勝龍寺の地は小畑川、犬川が合流する桂川に位置し、京都の南西玄関口として古来より山崎の地と並ぶ「天然の要衝地」でした。

 

よって中世(南北朝期)より、畿内大名たちによる勢力圏の「争奪戦の地」となっています。

 

勝龍寺城の築城は、戦国時代の原因のひとつである「応仁の乱」を引き起こした当事者のひとり「畠山義就」が居館を築いたのが始まりと言われています。

 

戦国時代には、畿内を制覇した三好長慶の勢力圏となり、長慶死後は三好三人衆、松永久秀の支城となっていたようです。

 

 

勝龍寺城本丸案内板

※勝龍寺城公園本丸(主郭)跡案内板…案内板の奥の石垣は「模擬」ですゲロー

 

門は「桝形虎口」を形成し、防御を固めていましたウインク

 

 

 

  ②勝龍寺城の歴史〜織田VS三好の戦い〜織田支配の城

 

 

戦国後期永禄11年(1568)、近江六角氏を駆逐し、将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、畿内を勢力圏とする三好氏と本格的に戦うことになります。

 

約5万の兵を動員した信長は、勝龍寺城に立て籠もる、三好三人衆のひとり「岩成友通」を攻め、岩成はあっさりと信長に降伏しました。

 

その後、三好の勢力を駆逐した信長は、畿内をほぼ掌握し、実質的な「天下人」になります。

 

 

  ③勝龍寺城の歴史〜細川藤孝(幽斎)による大改修→京都玄関口を守る「巨大要塞」となる

 

 

永禄12年(1569)、元幕府相伴衆筆頭格のひとりでのち、信長家臣となった名族細川和泉上家「細川藤孝(幽斎)」の居城となります。

 

藤孝は、勝龍寺城の大改修を行い、南にあった大寺院「勝龍寺」を含めた二重の堀を持つ、巨大な要塞を築き、南山城支配の拠点城郭とします。

 

 

 

藤孝は同時に城の南西隅に、3層の楼閣建築物「殿主(天守)」を築いたと言われています。

 

 

 

勝龍寺城は、藤孝嫡男の忠興と明智光秀娘の玉(のちの細川ガラシャ)の婚姻の場としても有名です。

 

 

 

  ④勝龍寺城の歴史〜本能寺の変〜山崎の戦い〜廃城

 

細川藤孝は、信長による足利義昭追放に伴い、姓を「長岡」に改め、正式に織田家臣となり、藤孝は、明智光秀の与力となります。

 

藤孝にとっては「屈辱」以外の何者でもなかったでしょう。

 

与力は正式な家臣ではないものの、実質的には明智の「部下」であり、細川京兆家の流れを組む細川和泉上家の出身である藤孝にとっては、「屈辱」であったと思います。

 

しかし、藤孝は明智の与力であることに「屈辱」を感じながらも、「納得」していたのではないかと思います。

 

流浪の身で越前にいた明智の能力を見抜き、将軍義昭に推薦したのは、他ならぬ藤孝自身であり、のち織田家中で「一番出世」した光秀を快く思っていなかった面もあるにせよ、光秀自身は藤孝の上役(上司)であったにも関わらず、藤孝と会うときは、必ず「対面(向かい合って座った)」したと言われています。

 

ふたりは上下関係を超えた「盟友」であった気がします。

 

細川藤孝の生涯に関しては、墓所訪問の際に改めて説明させて頂きます。

 

藤孝には、「明智の与力」以上の更なる「屈辱」が待っていました。

 

天正9年(1581)、信長から明智光秀の与力として、丹波・丹後攻略に貢献した「褒美」として、丹後12万石を与えられ、慣れ親しんだ「京都」、手塩にかけて築いた「勝龍寺城」から転封(飛ば)されてしまたのです。

 

丹後国は、未だ守護大名「一色家」が健在で、頑強に抵抗を続けており、藤孝は、赴任早々に明智の力を借りてようやく平定し、「自力で領地を手にした」のです。

 

藤孝転封後の勝龍寺城は、織田直轄地となっていましたが、天正10年(1582)の「本能寺の変」にて信長を討った明智光秀の勢力圏となり、その後の羽柴秀吉との「山崎の戦い」における明智軍の拠点となります。

 

 

 

明智は、盟友細川(長岡)藤孝に加勢を頼みますが、藤孝は出家し「幽斎」と名乗り信長に「弔意」を示すとして「中立」の立場をとりました。

 

 

 

「山崎の戦い」で敗北した光秀は、夜中に勝龍寺城を脱出し、坂本(亀山説あり)へ逃走中、討ち死にします😭

 

 

 

本丸内東辺石垣、井戸案内板

※勝龍寺城公園本丸(主郭)跡の東辺石垣、土塁案内板…かつて、勝龍寺城主郭は石垣造りでしたが、秀吉の時代に茶々(淀殿)の「淀城」を建設する際、建物、石垣の多くは持ち去られました笑い泣き

 

のち、江戸時代に城主となった永井直清が修復しましたが、永井は高槻へ転封、廃城となりましたチーン

 

 

  ⑤勝龍寺城の歴史〜廃城〜現在

 

 

勝龍寺城は、湿地帯が多いことから羽柴(豊臣)秀吉には重要視されず、側室茶々のための城、淀城建設のための資材として建物、石垣とも移され、廃城となりました。

 

江戸時代に山城長岡藩主となった永井直清により、一部修繕されましたが、永井の高槻転封により、完全に廃城となり城は荒廃したようです。

 

勝龍寺城周辺は、市街地化され、かつて勝龍寺を取り込んだ「総構」の遺構は完全に消滅してしまいました。

 

しかし、主郭(本丸部分)と沼田丸は、畑と豚小屋、鶏小屋になり、南側の水堀(一部残存、残りは道路化)は、ドブ川になっていて埋め立てられてしまったそうです(地元ボランティアガイドの方から聞き取りしました)。

 

ボランティアガイドの方が子供の頃、自分の祖父に聞いた話では、堀はドブ池になっていたが、東西南北すべて残っていたそうで、堀の前に土塁が広がっていたそうです。

 

また、本丸の畑を耕したり、ドブさらいをしていたら、石仏や茶碗、瓦片が出てきたそうです。

 

昭和になって、城の付近も市街地化し、住宅街になってしまい、堀(ドブ池)や土塁も埋められ、壊されてしまったそうです。

 

今は近くの神社に一部土塁が残っていると説明してくださいました。

 

 

 

次回は、僕が見てきた勝龍寺城跡に残る主な遺構を紹介させて頂きます🙇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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