※境野1号墳に建つ「明智光秀本陣跡」の石碑と案内板…境野1号墳は明智光秀が「山崎の戦い」で布陣した本陣跡と言われています
境野1号墳は、サントリー京都工場内にあるため、フェンスに囲まれ「立ち入り禁止」になっています
サントリー京都工場は、見学可能ですが、以前バスツアーで行ったときも、工場内に「光秀本陣跡」があることは全く知らず、ビールを飲みまくって終わりました
境野1号墳は、従来まで光秀本陣跡「御坊塚」とほぼ「断定」されていましたが、ここから徒歩数分の所にある「巨大古墳・恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという「説」が最近では、有力視されています
山崎古戦場5️⃣境野1号墳、恵解山古墳
山崎古戦場には、今回初めて行きました。
山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。
行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅
しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。
※国指定史跡「恵解山古墳」…全長128mある巨大な「首長墓クラスの古墳」です
古墳が「城郭」や「陣城」に「転用」されるケースは非常に多く、いずれも「巨大古墳」が利用されています
近年の発掘調査で、恵解山古墳周辺に大規模な空堀遺構が発見されており、光秀本隊6千を収容する「本陣」として「御坊塚=恵解山古墳」が有力視されています(明智光秀ゆかりの地をアピールする横断幕もありました)
実際見てみるとかなり巨大な古墳で、周濠は水が無く、一部道路化していますが、ほぼ完存しています
山崎古戦場跡5️⃣境野1号墳、恵解山古墳
山崎古戦場跡は、京都府大山崎町にあります。
山崎古戦場周辺には、「大山崎町歴史資料館」、秀吉本陣「宝積寺」、秀吉により建てられた現存する数少ない城趾「山崎城」があります。
また、光秀本陣「境野1号墳」があります(現在は、サントリー工場敷地内にあり、立ち入りできません)。
近年の研究により、近くにある巨大前方後円墳「恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという説が、有力視されています。
恵解山古墳は、巨大な前方後円墳で、陣城に利用するには、十分な規模があります。
また、光秀が逗留し、出陣したとされる細川藤孝の城、勝竜寺城があります。
以上の遺構とともに、秀吉VS光秀双方の「天下分け目の戦い」の足跡を辿りましたので、紹介させて頂きます🙇
今回は、明智光秀本陣とされている境野1号墳、恵解山古墳を紹介させて頂きます🙇
①光秀本陣〜境野1号墳
明智光秀は、山崎の戦いにおいて、羽柴軍を大山崎で迎え討つため、勝龍寺城を出撃、「御坊塚」を本陣と定めたと言われています。
この「御坊塚」が「境野1号墳」ではないかとの「説」があります。
「境野1号墳」は、現在、サントリー京都ビール工場敷地内にあり、見学はビール工場に入らないとできません。
フェンス越しに見るだけでしたが、「明智光秀本陣跡」の標柱と案内板があり、わかり易いです。
境野1号墳は、全長58mの前方後円墳で、後円部は近世に墓地にされてしまっています。
発掘調査で、空堀跡や鉄砲玉の出土遺物があることが、「本陣跡」の根拠となっているようですが・・・
果たして、全長50mほどの「前方後円墳」に光秀の大部隊(約6千)が駐留していたのか?、できたのか?と思うと甚だ疑問に思います・・・
※国指定史跡「恵解山古墳」前方部…「葺石」の痕跡が残っており、築造当初は全体に葺石が敷かれ、遠くからみたら「光っている」ように見えたそうです
※国指定史跡「恵解山古墳」前方部からみた周濠、造出…周濠は水が無いですがかなり広いことが分かります
こどもたちがボールで遊んでました
造出とは、祭祀用に造った場所です。ここで被葬者を称え、祭祀を行っていました
※国指定史跡「恵解山古墳」後円部出土鉄剣と案内板…発掘調査において、後円部(埋葬部分)から、大量の鉄剣、甲冑などの遺物が発見されています
有力な豪族の首長墓と考えられます
恵解山古墳は前方部、後円部とも「削平痕」が確認されており、陣城構築の痕跡が残っています
お子様が後円部(墳頂部)でボールを蹴って遊んでおられましたので、「ここはな、偉い人のお墓やからボール蹴って、遊んだらあかんで!」と「諭し」ました(私自身大人げないと思いましたが)
すると、コワモテの父ちゃんらしき人物が「すんまへん、降りるで」と子供と降りていきました・・・(余談です、光秀と全く関係ありません)
②光秀本陣〜恵解山古墳
山崎の戦いでの光秀本陣「御坊塚」として、近年の研究で有力視されているのが、「恵解山古墳」です。
従来、境野1号墳が光秀本陣でないかとの「説」が有力視されていましたが、光秀本隊は約6千人であり、全長58mほどの「境野1号墳」では「本陣」として、大人数の兵が駐屯できないと思われます。
境野から徒歩数分のところにある「恵解山古墳」は、境野の倍の全長128mの規模を誇る「巨大古墳」で、「本陣」としてより機能すると考えるのが妥当ではないかという「説」は、従来よりありました。
近年の発掘調査の進展により、「恵解山古墳」周辺に幾重にも連なった空堀跡が発見されており、古墳上部(特に後円部)に大規模な後世の削平痕が確認されています。
よって近年では「恵解山古墳」が光秀本陣の「御坊塚」だったのではないかとの「説」が有力となっています。
「巨大な古墳」が城郭や陣城に「転用」された例は非常に多いのです。
「前方後円墳」は、被葬者の埋葬場所が後円部で前方部の造出にて祭祀を行っていました。
必然的に後円部は、高くなっており、「本丸部分」が容易に造成可能となります。
前方部は、細長いですが、二の丸の役割を果たすことができます。
古墳には、古墳を取り囲む「周濠(水堀)」があり、「巨大古墳」は、「防御施設」「兵隊駐屯施設」として大規模な普請工事の必要が少ない「要塞」にすることができるのです。
城郭、陣城に「転用された巨大古墳」の例は「恵解山古墳」だけでなく、全国的に有名な世界遺産「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」など特に古墳が多い大阪府に見られます。
残念ながら、全国にある「天皇陵」は調査が出来ないので全容を知ることができません。
恵解山古墳は、陵墓指定されていないため、史跡公園となっており、周濠に水はありませんが、大規模な古墳で「城郭」としては「最適」ではないかと個人的には思います。
長くなり申し訳ありません😓
続きます🙇
最後まで読んでいただきありがとうございます🙇