酒解神社

酒解神社酒解神社神輿庫

※天王山ハイキングコース山頂付近にある酒解神社大鳥居、案内板、神輿庫…酒解神社は中世期に現在位置に移りました神輿庫は鎌倉時代建立の建物で、国内最古の神輿庫建造物です

 

 

 

 

山崎古戦場4️⃣山崎城②

 

 

 

山崎古戦場には、今回初めて行きました。

 

山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。

 

行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅

 

しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。

 

 

山崎城天守台

 

山崎城本丸天守台

 

天王山山頂

 

天王山のぼり

※天王山ハイキングコース山頂山崎城本丸(主郭)天守台、山頂標柱、天王山のぼり…山頂部分が山崎城本丸(主郭)となります

 

パット見よくわかりませんが、よく見てみると本丸(主郭)内に一段高くなっている場所があり、石垣や礎石らしきものが確認できます

 

 

 

  山崎古戦場跡4️⃣山崎城②

 

山崎古戦場跡は、京都府大山崎町にあります。

 

山崎古戦場周辺には、「大山崎町歴史資料館」、秀吉本陣「宝積寺」、秀吉により建てられた現存する数少ない城趾「山崎城」があります。

 

また、光秀本陣「境野1号墳」があります(現在は、サントリー工場敷地内にあり、立ち入りできません)。

 

近年の研究により、近くにある巨大前方後円墳「恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという説が、有力視されています。

 

恵解山古墳は、巨大な前方後円墳で、陣城に利用するには、十分な規模があります。

 

また、光秀が逗留し、出陣したとされる細川藤孝の城、勝竜寺城があります。

 

以上の遺構とともに、秀吉VS光秀双方の「天下分け目の戦い」の足跡を辿りましたので、紹介させて頂きます🙇

 

今回は、秀吉が建てた現存する数少ない城郭遺構、山崎城を紹介させて頂きます🙇

 

 

山崎城副郭井戸

 

山崎城副郭

 

※天王山ハイキングコース山頂山崎城二の丸(副郭)、井戸跡…副郭は主郭より広い削平地となっており、ところどころ石垣の残骸?ぽいのがあります

 

井戸跡はかなり巨大で、かつては二階建ての台所櫓が建っていたようです

 

 

  ④山崎城の遺構〜天王山ハイキングコース

 

 

山崎城は、標高270mの天王山山頂にあります。

 

麓にある宝積寺を拝観して、宝積寺から登山口があり、登りました。

 

はじめはなだらかでしたが、徐々にキツくなり、ヒイヒイ言いながら登りました。

 

中腹に着くと、開けた削平地がありました。

 

 

山崎城主郭

※山崎城副郭から見た本丸(主郭)…左手に天守台が見えます

 

瓦片

※山崎城副郭瓦片…主郭、副郭あちこちに瓦片が散乱しています

 

幕末期、昭和期に改変された形跡があり、散乱する瓦片はいつのものか特定できませんが、発掘調査により、大型の軒丸瓦などが発見されており、山崎城主郭、副郭部分は総石垣、総瓦ぶき建物が建っていたことが判明しています

 

 

  ⑤山崎城の遺構〜中腹

 

 

1.大河ドラマ「秀吉」

「秀吉の道」看板

 

中腹まで登ってくると、削平地があり、平成8年(1996)に放送された大河ドラマ「秀吉」に因んで制作された「秀吉の道」のどデカい看板がありました。

 

大河ドラマ原作者の故堺屋太一氏の文、京都市立芸術大学名誉教授岩井弘氏の絵が描かれた「秀吉の天下取り」のストーリーで、大山崎町が作成されています。

 

巨大看板が登山道各所においてあります。

 

休憩がてらに読んでいくと、歴史好きの僕にとっては楽しく、小休憩になりました✨

 

看板内容は、中国大返し→山崎の戦い→光秀の最期までが描かれており、故堺屋先生の文、岩井先生の絵による「秀吉の天下取り」は「中国大返し」→「山崎の戦い」から始まったことがよくわかります!

 

2.史跡「禁門の変」十七烈士の墓

 

看板を過ぎ、登っていくと、「禁門の変」で活躍した真木保臣ら十七烈士の墓があります。

 

幕末〜明治期はよくわからないので、割愛させて頂きます。

 

いずれまた、詳しく調べてみたいとは思いますが…

 

3.旗立松展望台

 

秀吉が本陣を敷いた天王山の中腹にある松に、羽柴軍旗「千成瓢箪」、信孝軍旗「織田木瓜」の旗を掲げ、「信長の弔い合戦」をキャッチフレーズにして、味方を鼓舞し、羽柴・織田軍の士気は旺盛で、明智軍を約2時間足らずで撃破した「伝説」が残っています。

 

旗立松展望台は、山崎古戦場一帯を見下ろせる場所にあり、秀吉はここで合戦の様子を見ていたのかなと想像させてくれる場所です。

 

4.酒解神社(自玉手祭来酒解神社)

 

旗立松を過ぎ、石造鳥居が見えてきました。

 

酒解神社は、元は「天王社」と呼ばれ、油売り発祥の「離宮八幡宮」境内内にありましたが、宝積寺がある「山崎山」山頂付近に中世期に移されたと言われています。

 

山崎山は、のちに神社に因み、「天王山」と呼ばれるようになりました。

 

現在まで、鎌倉時代建立の神輿庫が国指定重要文化財となっており、神社が移転した当初から存在した建物で、2基ある神輿も室町期以前に制作されたものであると判明しています。

 

酒解神社の祭祀の記録は、残っていませんが、中世より大切に扱われていたのは間違いないと思われます。

 

余談になりますが、「戦国三大梟雄」のひとり「斎藤道三(利政)」は、大山崎の「一介の油売り」から「美濃一国の大名」になった「戦国下剋上の代表選手」として有名ですよね。

 

これは、故司馬遼太郎先生の「国盗り物語」による「フィクション」であり、実際、油売り商人から美濃土岐家の武将、重臣に「のし上がった」のは、道三(利政)の父山崎屋松波庄五郎(のち西村勘九郎→長井新左衛門)であることは、最近の研究で明らかになっています。

 

しかし、必ずしも故司馬遼太郎先生の「国盗り物語」が「フィクション」とは言い切れないのは、確かです。

 

斎藤道三(利政)自身、油売り商人「山崎屋」の息子であり、父とともに「油売りの行商」に少年の頃から出かけていたことは、間違いないと思います。

 

「一文銭の穴に油を通す」ようなエピソードは、「フィクション」のひとつだとしても、当時、油は貴重品であり、「油」によって、大山崎が大都市になったことは確かで、大山崎の商人たちは「大金持ち」でした。

 

道三の父、松波庄五郎は、油販売の大企業「山崎屋」の「娘婿」でいわゆる「次期社長」でした。

 

松波は、商売の才能があったようで、山崎屋を一層繁栄させたことからも「カネ」=相当の経済力を有していたと思われます。

 

松波は、大商人の地位を利用して、「美濃土岐家」に入り込んだのではないか(以前から土岐家と「油」を通して取引があったと考えられます)。

 

松波は、美濃土岐家の家督争いによる「弱体化」を見抜き、当時商人や寺社は大名たちに「金貸し」も行っていましたので、土岐家に「多額のカネ」を貸し、美濃土岐家重臣の名跡「西村」「長井」を担保に取り、「土岐家重臣」になったのではないかと思います。

 

「山崎屋の財力」は、息子長井新九郎(道三)に受け継がれ、「斎藤」の名跡を買い、とうとう「美濃一国の大名」に成り上がったのです。

 

明智光秀は、大河ドラマでは「道三の家臣、弟子」のように描かれていますが、道三のことを生涯、美濃守護代家「斎藤」でなく、「長井」と呼んでいたようです。

 

話が余談になり、スミマセンでした😓

 

斎藤道三(利政)の生涯、光秀との関係については、岐阜県の墓所訪問の際に、再度説明させて頂きます。

 

 

 

  ⑥山崎城の遺構〜山頂(本丸ほか)

 

 

神社到着でほぼ終わりやろと思っていましたが、まだ山頂までは距離があり、ヒイヒイ言って登りました。

 

奥さんにも、置いていかれ、喋りながら登ってきた地元民ぽいおばちゃんにも抜かれ、つくづく体力の無さを痛感しました😢

 

山頂には、削平された曲輪群があります。

 

ようやく主郭(本丸)に辿りつきました。

 

主郭を登ってくる途中、石垣残ってるんかなと探しましたが、あまり残っていませんでした。

 

秀吉の建てた山頂の主郭(本丸)、副郭(二の丸)は、総石垣造りと言われていましたので、現実に見てみるとほぼ「土塁の城」ぽくなっていました。

 

あとで調べてみると、確かに山崎城の主郭、副郭は総石垣造りでしたが、秀吉の「大坂築城」により、山崎城の存在意味は無くなり、石垣や建物は解体され、麓の宝積寺や大坂築城の資材に転用されたようです。

 

山崎城鳥観図

※往時の山崎城想像復元図…酒解神社を出丸とし、山頂部分に総石垣造り、天守を伴った総瓦ぶき建物が建つ「巨大な要塞」だったことが分かります

(転載元:ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城 株式会社ワン・パブリッシング P113~114)

 

 

  ⑦山崎城の遺構〜天守はあったのか?

 

 

主郭部分北に一段高い「段」があり、「天守台」と標柱が建っていました。

 

当時のものか、後世(幕末期)のものか分かりませんが、瓦片も散乱し、礎石もありました。

 

僕の個人的な愛読書「ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」(香川元太郎先生作画 株式会社ワン・パブリッシング)」に載っている「山崎城鳥瞰図」では、山崎城の縄張りは、主郭を頂点とした5段構成になっています。

 

主郭を頂点とした5段目は「酒解神社」があり、出丸として活用したものと思われます。

 

4段目は、兵が駐屯する削平地です。

 

3段目から大手門虎口となり、城域であったと推定され、諸将の居館(信孝・丹羽用か)として機能していたと思われます。

 

2段目は、一段高い方形の曲輪があり、秀吉の居館があったと思われます。

 

1段目は、城の中枢部分となりますが、主郭(天守曲輪)含め副郭など合計5つの曲輪群があったと思われます。

 

副郭(二の丸相当)には、巨大な台所櫓があり、遺構として巨大な井戸跡が残っています。

 

主郭(本丸)には一段高い場所があり、天守台と推定されています。

 

 

 

主郭(天守曲輪)は、不等辺六角形で、北部分に長大な多聞櫓を二辺に建て、その上に二階建て望楼を載せた、いわゆる「三層三階櫓・天守」であったようで、織田時代の天守を模倣した「初期の豊臣天守」であると考えられます。

 

 

 

のちの豊臣天守に見られる桃山時代の「ド派手さ」はなく、比較的簡素な戦闘を重視した造りになっています。

 

秀吉自身、明智との戦いは、「短期戦」で勝負をつけたかったと思いますが、仮に長期戦になっても、大量の兵糧、武器、馬などを運び込め、且つ大量の兵隊が駐屯できる「要塞」を造ったのでしょう。

 

 

 

秀吉の明智を上回る「根回し、用意周到さ」が伺えます。

 

 

 

山崎城には、ぱっと見、遺構らしい遺構はあまり残っていませんが、「秀吉の短期間での野戦築城技術」を知る上で重要な遺構であると言え、のちの、「石垣山城」「名護屋城」に繋がっていくのではないかと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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