※天王山歴史マップと山崎城跡案内板…天王山はハイキングコースになっています(山崎城に登るのはちょっとキツイですが・・・)
山崎古戦場3️⃣山崎城①
山崎古戦場には、今回初めて行きました。
山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。
行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅
しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。
※山崎城跡天王山ハイキングコース中にある「秀吉の道」…歴史ファンなら誰もが御存知の「秀吉の天下取り~中国大返し、山崎の戦い、大坂築城」を故堺屋太一氏の文、京都芸大名誉教授の絵で分かりやすく、鮮明な絵で説明されています
平成8年の大河ドラマ「秀吉」に合わせて作られたのか、後になって作られたのか分かりませんが、岩井先生の」絵は、圧倒的な迫力があります
ついつい見入ってしまい、興味のない奥さんにおいていかれました・・・
山崎古戦場跡3️⃣山崎城
山崎古戦場跡は、京都府大山崎町にあります。
山崎古戦場周辺には、「大山崎町歴史資料館」、秀吉本陣「宝積寺」、秀吉により建てられた現存する数少ない城趾「山崎城」があります。
また、光秀本陣「境野1号墳」があります(現在は、サントリー工場敷地内にあり、立ち入りできません)。
近年の研究により、近くにある巨大前方後円墳「恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという説が、有力視されています。
恵解山古墳は、巨大な前方後円墳で、陣城に利用するには、十分な規模があります。
また、光秀が逗留し、出陣したとされる細川藤孝の城、勝竜寺城があります。
以上の遺構とともに、秀吉VS光秀双方の「天下分け目の戦い」の足跡を辿りましたので、紹介させて頂きます🙇
今回は、秀吉が建てた現存する数少ない城郭遺構、山崎城を紹介させて頂きます🙇
※山崎城跡天王山ハイキングコース中にある「十七烈士の墓」と案内板…幕末、明治に関してはよくわかりません
真木保臣率いる長州藩士たちが、大山崎に陣を敷いて戦ったようです
幕末、明治ファンの方必見!?
①山崎城の歴史〜古代からの要衝地「大山崎」
山崎城は、標高270mの天王山山頂にあります。
大山崎の地は、宇治川、木津川、桂川の合流地点であり、対岸の男山と「山崎地峡」を形成、京都の南西玄関口として古来より「天然の要衝地」でした。
山麓には、8世紀頃から山陽道の関所が設置されており、中世には山陽道が西国街道になります。
油販売で巨万の富を得た大山崎の地は「商都」として栄えていました。
山崎城は、中世より存在しており、南北朝期に、林真弘という赤松家(北朝側)の武将が築城したのが始まりとされています。
戦国時代の始まりとされる応仁の乱(1467〜1477)において、大山崎の地は、京都に物資を運ぶための拠点として東西両軍の争奪戦の場となり、戦火により京都と同様に荒廃しました。
戦国期には、細川京兆家の争いに巻き込まれますが、大山崎の地は京都の要衝地であったことから、油商人たちの財力により復興します。
※山崎城跡天王山ハイキングコース中にある旗立松展望台と山崎合戦案内板…「天下分け目の戦い」山崎の戦いが、大山崎の地にて始まりました
明智1万6千VS羽柴・織田連合軍4万がぶつかり、約2時間で羽柴・織田軍の圧勝に終わり、明智は敗走中に討ち死にします
まさに、大山崎の地は「歴史の転換点」の舞台となりました
旗立松展望台は、開けたところにあり休憩がてら、景色を見るのに最高の場所です!
②山崎城の歴史〜羽柴秀吉「天下取り」の舞台
天正10年(1582)の「山崎の戦い」にて明智光秀に勝利した羽柴秀吉は、その後の清須会議で主導権を握ります。
京都周辺を手中に収めた秀吉は、「陣城」であった「山崎城」を「居城」とすべく大改修を行い、麓の宝積寺を含めた巨大な要塞を築きます。
同時に、秀吉は「商都」として復興しつつあった大山崎の町を手厚く保護しました。
大山崎町には、千利休が建てた現存する数少ない国宝「茶室待庵」があります。
利休は茶人であると同時に大商人でもあり、堺から頻繁に大山崎に行き来しています。
利休は、この頃から秀吉と交流を深め、同じく堺の茶人で大商人であった今井宗久、津田宗及を紹介しました。
秀吉は「茶道」のみならず、「大商人の支持」も得て「経済基盤」を一層強化し、「天下人」へ地盤固めをしていきます。
天正11年(1583)羽柴秀吉は、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を攻め滅ぼし、実質的な「織田政権の最高実力者」となります。
賤ヶ岳の戦いに勝利したことで、「織田政権の簒奪→自身の天下取り」を目指す秀吉にとって「山崎城」の必要性は無くなりました。
秀吉は、新たな居城「大坂城」の築城のため、山崎城を「廃城」とし、天守などの建造物は取り壊され、大坂城に移されたと言われており、ここに城郭としての山崎城の歴史は、終了します。
※山崎城跡天王山ハイキングコース中にある旗立松と案内板…秀吉が本陣をこの辺りに置き、松に「千成瓢箪」、「織田木瓜」の旗を掲げ、それを見た味方は大いに士気が上がった「伝説」があります
現在の松は、何代目かになるようです
③山崎城の縄張り
山崎城は、数少ない「秀吉の築城遺構」のひとつです。
当時は、麓の宝積寺を含めた大城郭でしたが、寺院自体、後世に大規模な改修を受けており、痕跡は残っていません。
現状、確認できるのは山頂部の城郭遺構で、主郭を中心とする曲輪群は、ほぼ完存しています。
当時山頂部は、総石垣造りと言われていましたが、石垣の大部分は廃城時に大坂築城に転用されており、一部の石垣が残っているのみとなっています。
山頂の主郭Ⅰ(本丸相当)、西側に大規模な井戸跡のある曲輪Ⅱ(二の丸相当)、東側に土塁と空堀で隔てられた曲輪Ⅲ、Ⅳがあり、南東側に曲輪Ⅴがあり、主郭併せて5つの曲輪が階段状に築かれています。
主郭には、天守などの総瓦葺きの建物が建っていたと考えられ、主郭発掘調査において、大量の軒丸瓦、平瓦が出土し、同じ秀吉が建てた聚楽第に使用されていた瓦と同一であることが確認されています。
また、石灯籠や五輪塔、宝篋印塔台座などの転用石が大量に確認されており、短期間での築城だった事がわかります。
2つ折れの虎口も確認されており、築城技術が飛躍的に発展していく織豊系城郭の初期段階の遺構が残っています。
山崎城は、信長の安土城、岐阜城のような家臣団の屋敷跡は確認されておらず、天守も城下町からは見えにくい位置にあることから、「秀吉の一時的な居城」と認識できると言えるでしょう。
次回は、僕が見てきた山崎城跡に残る主な遺構を紹介させて頂きます🙇
長くなり申し訳ありません😓
続きます🙇
最後まで読んでいただきありがとうございます🙇