宝積寺山門※山崎宝積寺山門…仁王門とも呼ばれる江戸時代初期建立の巨大な門ですポーン

 

府登録有文指定されていますニヤニヤ

 

 

 

 

山崎古戦場2️⃣宝積寺

 

 

 

山崎古戦場には、今回初めて行きました。

 

山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。

 

行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅

 

しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。

 

 

 

宝積寺金剛力士案内板…

 

金剛力士阿像

 

金剛力士吽像

※山崎宝積寺山門内金剛力士阿吽像と案内板…鎌倉時代制作と言えば、東大寺南大門の運慶作と伝わる金剛力士像が有名ですが、宝積寺の金剛力士阿吽像も3mを超える巨大な像ですポーン

 

多くの戦乱や火災を免れ、現代まで伝わる国重文の貴重な金剛力士像ですニヤニヤ

 

 

 

  山崎古戦場跡2️⃣(大山崎町歴史資料館、宝積寺)

 

山崎古戦場跡は、京都府大山崎町にあります。

 

山崎古戦場周辺には、「大山崎町歴史資料館」、秀吉本陣「宝積寺」、秀吉により建てられた現存する数少ない城趾「山崎城」があります。

 

また、光秀本陣「境野1号墳」があります(現在は、サントリー工場敷地内にあり、立ち入りできません)。

 

近年の研究により、近くにある巨大前方後円墳「恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという説が、有力視されています。

 

恵解山古墳は、巨大な前方後円墳で、陣城に利用するには、十分な規模があります。

 

また、光秀が逗留し、出陣したとされる細川藤孝の城、勝竜寺城があります。

 

以上の遺構とともに、秀吉VS光秀双方の「天下分け目の戦い」の足跡を辿りましたので、紹介させて頂きます🙇

 

今回は、秀吉本陣跡宝積寺を紹介させて頂きます🙇

 

 

 

宝積寺案内板

※山崎宝積寺「乙訓景観十条案内板」…三重塔など多くの文化財が残されています真顔

 

 

  ①大山崎町歴史資料館

 

 

まず、山崎古戦場跡「天王山夢ほたる公園」から大山崎歴史資料館に聞き込みに行きました。

 

大山崎町歴史資料館は、入館料おとな200円、小中学校無料です。

 

駐車場はありません(となりコインパーキング)。

 

歴史資料館展示内容は、大山崎町の歴史が中心で、古代〜中世〜近世を通じて「京都の玄関口」として発展してきた「大山崎」の歴史が理解できます。

 

「山崎の戦い関連展示」「大山崎町が誇る国宝茶室待庵模型展示」を見れます。

 

資料館には、年配の係員さんがおられ、宝積寺、山崎城に行きたいんですといったら、大山崎町の案内マップをくださいました😊

 

 

 

宝積寺一夜塔案内板

 

宝積寺三重塔案内板

 

宝積寺三重塔

※山崎宝積寺三重塔と案内板、一夜之塔…現在残る三重塔は、慶長9年(1604)に建立されている「2代目の塔」ですので、厳密に言えば、「秀吉一夜之塔」ではありません

 

「一夜之塔」という「伝説」が残っているくらいですので、初代の塔は、秀吉が山崎合戦の勝利の祝いの一環として、近隣の寺院から移築したものと考えられます真顔

 

初代の塔は、相輪に金箔を施した「ど派手な塔」だったと言われていますが、火災等の理由で失われ、2代目の塔を「豊臣家(秀頼)」が建立したものと考えられますデレデレ

 

現在残る三重塔は、金剛力士像と同じく、幾多の戦乱、火災等を免れ、桃山期の建築様式を現在まで伝えている国重文の貴重な建築物ですニヤニヤ

 

 

  ②宝積寺の歴史

 

 

宝積寺は、天王山の山麓にあり、「山崎の戦い」では、秀吉本隊及び信孝・丹羽軍約2万が本陣を構えました。

 

当時の宝積寺は、現在とは比べものにならないほど、巨大な寺院でしたので、大軍を収容できる山頂の山崎城とセットになった「巨大な寺院城郭」でした。

 

宝積寺は、別名「宝寺」と呼ばれ、創建は奈良時代の神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により、行基上人が建立したと言われています。

 

一時、衰退しましたが、平安時代に寂昭上人が再興しました。

 

鎌倉時代に火災で全焼しましたが、南北朝〜室町期には塔頭64を数える大寺院に発展します。

 

山崎の戦いを経て、豊臣家の保護を受け、江戸時代には、西国街道有数の宿場町大山崎の中心地として、大きく栄えました。

 

幕末の元治元年(1864)に、長州藩VS幕府による「禁門の変」が起こります。

 

真木保臣率いる長州藩士たちが、天王山に陣取り、幕府軍と戦ったため、寺は火災により多くの堂宇を焼失しました。

 

また明治期の廃仏毀釈により一層荒廃し、寺域を大きく減らしましたが、鎌倉、室町、桃山、江戸期の文化財を多く残しています。

 

 

宝積寺閻魔堂

 

宝積寺閻魔堂

※山崎宝積寺閻魔堂…現在の閻魔堂は、「収蔵庫(宝物館)」になっており、たくさんの寺宝とともに「閻魔大王像」も見れるようです(要予約みたいです)滝汗

 

閻魔大王と眷属像5体の仏像は、鎌倉期制作の「コワモテの大王と部下たち」で、閻魔大王と眷属が揃っている例は少なく、国重文の貴重な仏像です真顔

 

 

大山崎町案内板

※山崎宝積寺にある大山崎町観光案内板…景勝地としてハイキングコースになっているようですウインク

 

  ③宝積寺の文化財建築物など

 

 

1.府登録有文仁王門…江戸初期建立の巨大な山門です。

 

 

2.重文金剛力士立像…阿形、吽形金剛力士立像は約3mある巨大な金剛力士立像で鎌倉時代に造られました。

 

 

 

阿吽金剛力士像は、見るものを圧倒させる迫力があります!

 

 

 

3.府登録有文本堂…慶長11年(1605)建立、内陣の厨子に御本尊である、重文十一面観世音菩薩立像が安置されています。

 

 

4.閻魔堂…お堂は、最近建てられたようですが、堂内には重文で鎌倉時代作成の閻魔大王と眷属(部下)像5基が安置されています。

 

 

5.重文三重塔…慶長9年(1604)に建立された桃山期特有の三重塔です。

 

 

 

「太閤一夜塔」と言われていますが、現在残る塔が建立された時期では、既に秀吉は亡くなっています。

 

おそらく、秀吉自身が建てた塔は存在していたが、何かの理由で失われ、秀頼(豊臣家)が再建したのではないかと考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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