天王山夢ほたる公園案内板…

※天王山夢ほたる公園案内板…山崎古戦場跡は京都縦貫道造成工事、近年の学校建設、宅地開発、田畑化などにより、陣跡などは消滅、痕跡を窺い知ることは出来ません笑い泣き

 

現在は、推定激戦地付近の京都縦貫道高架下に「天王山夢ほたる公園」が造られ、市民の憩いの場となっていますウインク

 

 

 

 

山崎古戦場1️⃣

 

 

山崎古戦場には、今回初めて行きました。

 

山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。

 

行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅

 

しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。

 

 

山崎古戦場石碑

※山崎古戦場跡石碑…羽柴軍4万VS明智軍1万6千がぶつかり、約2時間で羽柴軍の圧勝に終わりましたムキー

 

 

 

  山崎古戦場跡1️⃣(天王山夢ほたる公園)

 

山崎古戦場跡は、京都府大山崎町にあります。

 

京都縦貫道の高架下に石碑が建っており、案内板などもあります。

 

天王山夢ほたる公園には、数台止められる駐車場があります(無料)🚗

 

古戦場跡は「跡」というべき陣跡などはなく、学校のグランドと化しています。

 

「古戦場公園」として整備されていますが、高速の高架下のコンクリートの上に「跡地」と表示されても、風情も何も…という気持ちになります。

 

しかし、山崎古戦場周辺には、「大山崎町歴史資料館」、秀吉本陣「宝積寺」、秀吉により建てられた現存する数少ない城趾「山崎城」があります。

 

また、光秀本陣「境野1号墳」があります(現在は、サントリー工場敷地内にあり、立ち入りできません)。

 

近年の研究により、近くにある巨大前方後円墳「恵解山古墳」が光秀本陣ではないかという説が、有力視されています。

 

恵解山古墳は、巨大な前方後円墳で、陣城に利用するには、十分な規模があります。

 

また、光秀が逗留し、出陣したとされる細川藤孝の城、勝竜寺城があります。

 

以上の遺構とともに、秀吉VS光秀双方の「天下分け目の戦い」の足跡を辿りましたので、紹介させて頂きます🙇

 

では、戦いの経緯、内容、結果、その後の歴史にどんな影響を及ぼしたのかを、ご紹介させて頂きます🙇

 

 

 

山崎合戦図屏風※山崎古戦場跡天王山夢ほたる公園内にある「山崎合戦」案内板と合戦図屏風…合戦図屏風は江戸中期から後期にかけて、大ベストセラーとなった「絵本太閤記」の挿絵を基に作られたようですデレデレ


依頼者は豊臣家にゆかりのある大名家が、絵師に描かせたものと言われていますちゅー

 

江戸初期はまだ「豊臣家関連」の本や絵などは「タブー」となっており、秀吉の出世物語を描いたものなど出版できない世の中でしたチーン


江戸中期から後期にかけ、安定した太平の世が続き「豊臣家」が滅亡して既に100年以上経っていることから、幕府も「黙認」していたものと思われますニヒヒ

 

 

  ①山崎の戦いの経緯〜本能寺の変〜秀吉中国大返し

 

 

天正10年(1582)、京都本能寺にて起こった「本能寺の変」で「戦国の革命児」「第六天魔王」織田信長は、家臣団No.2であった明智光秀の裏切りにより息子信忠とも討ち死にを遂げます😭

 

信長父子を討った光秀は、従弟秀満(弟説あり)、重臣且つ盟友であった斎藤利三に京都、安土を制圧させました。

 

「本能寺の変」当時、「織田政権」の有力武将たちは、明智以外、敵対勢力討伐のため、各地に滞在していました。

 

家臣団No.1北陸方面軍柴田勝家→越中にて上杉軍と対峙。

 

家臣団No.5関東方面軍滝川一益→上野にて北条軍と対峙。

 

家臣団No.3四国方面軍副将丹羽長秀、信長三男四国方面軍大将織田信孝→堺にて四国長宗我部軍討伐のため、渡航準備中。

 

家臣団No.4中国方面軍羽柴秀吉→備中にて毛利軍と対峙。

 

同盟者徳川家康→堺を堺商人たちの案内で見物したあと、三河へ帰る準備中。

 

以上により、中国羽柴秀吉軍の援軍目的(諸説あり)で、1万5千の大軍を率いていた家臣団No.2の明智光秀は、容易に本能寺にいた信長を襲うことができたのです。

 

羽柴秀吉は、備中高松城攻め中、本能寺の変の翌日、信長横死の急報を知ることになります。

 

秀吉は、大泣きして激しく取り乱したそうです(わざとそうした説あり)。

 

弟秀長、軍師黒田官兵衛、元兄貴分蜂須賀小六ら秀吉家臣団首脳陣は、意外と冷静に状況を把握、対策を練りました。

 

毛利と早急に和睦、居城姫路へ一日も早く帰還し、兵をまとめ京へ上り、「大逆賊明智」を討伐し、秀吉に「天下取り」をさせようと………。

 

黒田は、摂津、播磨、備前、備中地域に精通しており、有事に備え幅2m以上ある棒道(軍用道路…のち江戸期に西国街道の一部となります)をつくり、各所に補給所(宿場町に食料、馬などを準備)を造っていました(名目上、信長中国遠征のため)。

 

秀吉は、明智討伐を決意、世に言う超有名な秀吉の「中国大返し」が始まります。

 

「中国大返し」の詳細は、備中高松城、秀吉の生涯を投稿させて頂く機会に、紹介させて頂きたいと思います。

 

光秀は、秀吉が京都に向かって進軍中であるとの情報を聞きつけ、その速さに驚きながらも、いくさをして、雌雄を決する覚悟をしました。

 

明智軍VS秀吉連合軍がぶつかったのが、京都の南の玄関口「大山崎」だったのです。

 

 

※山崎古戦場跡遠望乙訓景観十条案内板…写真ではわかりにくい(わからない)ですが、手前には「円明寺川」といわれる「小川」が流れており、このあたりで秀吉方池田恒興軍と明智方津田信春軍が激しく戦った場所とされ、後方には秀吉本陣「天王山」が見えます真顔

 

 

  ②山崎の戦い〜開戦場所、布陣内容、結果

 

 

秀吉は、京都へ向け進軍中に、池田恒興、中川清秀、高山右近ら摂津衆を味方にします。

 

また、堺に滞陣していた織田信孝、丹羽長秀と合流しました。

 

軍議は秀吉が実質的に仕切り、「名目上の総大将」を信長三男信孝に決め、「信長公の弔い合戦」をキャッチフレーズにした「逆賊明智討伐羽柴・織田連合軍」は3万人以上となりました。

 

光秀は、秀吉軍の急激な増大に危機感を抱き、盟友の細川藤孝、筒井順慶に援軍を要請します。

 

しかし、細川、筒井とも「中立(実質的な日和見)」の意思を貫く姿勢を見せられ、光秀は、秀吉らの入京を阻止すべく急遽、明智軍のみでの出陣を決意し、勝竜寺城に入城しました。

 

 

 

細川、筒井両氏は明智の「与力大名且つ盟友」にもかかわらず、明智に協力しなかったことは、明智にとって「最大の誤算」だった…と思います。

 

 

 

斎藤利三、明智秀満ら明智首脳陣は、大山崎で合戦を行うならば、「大山崎の町家を利用した市街地戦」に持ち込めば、兵数で劣る明智軍に勝機ありと「市街地戦」を主張します。

 

当時「大山崎」は、「商業都市」で現在で言えば、「大都市」でした。

 

京都の南の玄関口「大山崎」は、西国からの文物の集積地で、人口密度が高く、多くの寺社、商家などの町家が多く建ち並んでいました。

 

斎藤利三は、元は稲葉一鉄の家臣で、出奔し明智の家臣(盟友関係だった説が近年では有力視されています)になりました。

 

斎藤は、「歴戦の猛将且つ軍略家」で斎藤が明智軍に加わってから明智軍は、非常に強くなったと言われます。

 

明智光秀自身、2020年の大河ドラマの「理想を追求する正義のひと」として、描かれていますが、非常に「謎」の多い人物で、有能さにおいては、織田家中No.1であることは、間違いないと思います。

 

大河ドラマは「主役」として描かれていますから信長、秀吉に次ぐ「残虐性」を持つ人物であったことは、さほど描かれていません。

 

しかし、明智の残虐性が分かる様々な資料や自身の書状が残っていますし、信長から暴力を受けていたとか、イジメられていたとかは、一部の資料にしか載っていません。

 

 

 

信長にとっての「家臣団お気に入りNo.1」は明智光秀であり、光秀を信頼していたからこそ、光秀は畿内で大量の兵力を持つことができたのです。

 

 

 

信長が光秀を、信頼しきっていたからこそ、「本能寺の変」は起こったと言えます(「本能寺の変」の詳細は、「本能寺」に行ったときに投稿させて頂きます)。

 

山崎の戦いに戻します。

 

斎藤が主張した「市街地戦」を明智は却下、「大山崎の市街地が焼け野原化すること」を避けた「野戦」で決着をつけることを決めます。

 

斎藤は、野戦では勝機なしと、市街地戦を主張し続けますが、光秀は頑として聞き入れず、最終的に野戦を受け入れました。

 

 先に「天王山」を押さえていた羽柴秀吉は、天王山麓「宝積寺」に本陣を構えます。

 

羽柴軍VS明智軍は円明寺川を挟んで対峙します。

 

主な参戦武将は、以下の通りです(単位=千人)

 

羽柴軍      明智軍

左翼       右翼

天王山      

黒田官兵衛3   松田政近1

羽柴秀長5    並河易家1

                        

中央先鋒     中央先鋒

中川清秀3    阿閉貞征など3

高山右近1    斎藤利三2

木村隼人1

中央後方     

堀秀政4

 

右翼先鋒     左翼先鋒

池田恒興4    津田信春など3

加藤光泰1

中村一氏1

右翼後方

丹羽長秀3

 

本陣       本陣

織田信孝4    明智光秀6

羽柴秀吉10

 

羽柴・総勢4万     明智・総勢1万6千

 

この兵力差を見るだけで、明智軍の圧倒的不利がわかります。

 

戦闘は、午後4時〜6時と約2時間で終わりました。

 

旧暦6月(現在では7月)に行われていますので、日没までに決着しています。

 

合戦途中までは、明智軍は強く、押し気味でしたが、左翼を任されていた津田信春が池田恒興、加藤光泰の側面攻撃を受け、総崩れとなりました。

 

後方で戦局を見ていた堀、丹羽、信孝、羽柴本隊も戦線に加わり、明智軍全体が総崩れとなります。

 

明智軍の勇将松田政近、伊勢貞興が殿を務め討ち死に、光秀自身は僅かな近習を連れ、勝竜寺城から丹波亀山城(坂本城説もあり)へ退却する途中、小栗栖(伏見区)で落武者狩りと戦い、討ち死にしました😭

 

 

天王山夢ほたる公園自販機

 

天王山夢ほたる公園自販機

 

天王山夢ほたる公園自販機

※山崎古戦場跡天王山夢ほたる公園内にある「山崎合戦の地 ここが天王山」自販機…地元企業サントリー様の自販機で「若すぎる光秀(当時67歳)」「若すぎる秀吉(当時45歳)が描かれていますポーン

 

光秀の横には「空き缶入れ」のごみ箱が、あふれ缶やペットボトルが散乱(散乱しているのは回収させていただきました)し、それだけ見ても「敗軍の将、裏切者の末路」の悲しさを感じます・・・滝汗

 

 

  ③山崎の戦い〜明智家滅亡〜秀吉「弔い合戦」に勝利、織田政権の主導権を握る

 

 

討ち死にした明智光秀の首と胴は、堀隊に回収され、首と胴を繋がれ、京都本能寺跡、次いで粟田口(三条大橋付近)で、磔のあと、晒し首になります(怖いですねぇ・・・)。

 

勢いを駆って、堀秀政、中川清秀、高山右近は、後詰めで坂本城から出陣してきた明智秀満を破り、坂本城まで追撃し、包囲しました。

 

秀満は、もはやこれまでと悟り、光秀が信長から賜った宝物類を、秀吉に渡すよう、堀に頼み一族とともに自害しました😭

 

丹波亀山城にいた嫡男十兵衛光慶も自害、ここに明智家は「滅亡」しました。

 

のち、秀吉は、斎藤利三など明智残党を捕らえ、処刑し「大逆賊明智一門討伐」を果たしました。

 

 

 

この「山崎の戦い」の勝利にて、秀吉は「織田政権家臣団の中で、実質的なNo.1」となり、やがて「織田政権の簒奪」→「天下一統事業」に動き出します。

 

 

 

  ④山崎合戦の「謎」〜数的圧倒的不利にもかかわらず、なぜ明智軍は戦ったのか?

 

 

「合戦=野戦」は、やはり「兵力差」が勝敗を決する最大の要因のひとつであると思います。

 

「数的に圧倒的に不利」な状況で、まともに正面からぶつかれば、「負ける」のは「当たり前」なのです。

 

「小が大を制す」…数的には圧倒的不利でも、合戦で勝利した例は、もちろんあります。

 

「川越夜戦」、「厳島の戦い」、「桶狭間の戦い」がそれに当たりますが、策を練りに練ったうえで「奇襲」を行う、ほぼ「騙し討ち」です。

 

「長篠・設楽原の戦い」で、当時、最強と呼ばれた武田軍1万5千VS織田・徳川連合軍3万8千と戦い大敗したのは有名ですね。

 

武田軍は戦いの最中、多くの「一騎当千」の猛将たちを失い、惨敗したように、数的不利の中、正攻法で正面からぶつかる野戦では圧倒的に負ける確率が高いのです。

 

少数で大軍と戦って勝つには、「奇襲で大将のみ狙う」、「籠城による長期戦で攻め手の士気を低下」、「謀略を駆使して裏切りを誘発、内部分裂を誘発」するしか「勝つ術」はありません。

 

明智光秀は、最近の研究により、再評価されていますので、光秀の生涯、人となりは、また詳しく述べさせて頂きますが、明智は決して「正義の人」ではありません!

 

 

 

明智光秀は、羽柴(豊臣)秀吉に優るとも劣らない「下剋上を体現した武将」なのです!!

 

なぜ、そのような人物が、「明らかに負けると分かっているいくさをしたのか?」疑問でしかありません………。

 

 

 

 

次回からは、僕がみてきた「山崎の戦い」関連史跡をご紹介させて頂きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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