高遠城の戦い案内板…

※国指定史跡高遠城本丸内「高遠城の戦い」案内板…天正10年(1582)織田・徳川連合軍の「甲州征伐」により、武田家は滅亡しますチーン

 

信濃の要衝を任されていた武田一門衆、家臣たちは、武田家を見限り、織田軍に降伏、裏切り、逃亡するものが続出し、

織田軍総大将の織田信忠は、信濃を容易に進軍していきますムキー

 

しかし、織田軍に立ちはだかったのが、勝頼の弟、仁科五郎盛信でしたちゅー

 

盛信は、高遠城に籠城し、3千の兵にて5万を超える織田軍と戦い、壮絶な討ち死にを遂げましたゲッソリ

 

高遠城本丸は、武田時代から位置は変わっておらず、盛信は本丸で縦横無尽に戦ったと言われていますポーン

 

盛信はじめ、高遠城武田軍は主家武田家に最後まで忠誠を尽くした「忠義の士」として後世まで語り継がれていくこととなります笑い泣き

 

 

 

 

高遠城3️⃣  100名城No.30

 

 

高遠城には、今回初めて行きました。

 

高遠城は、山城に見えますが、平山城に属します。

 

高遠城は、「高遠城址公園さくらまつり」が毎年3月末頃の咲き始めから4月中旬〜下旬頃まで行われます。

 

5分咲きの4月初旬、満開の4月中旬には、多くの観光客で賑わいます。

 

高遠城の建物は、明治期に取り壊されましたが、土塁、空堀の遺構がほぼ完存する城で、江戸時代に大改修されているものの、縄張りはほぼ踏襲されており、武田時代(戦国期)の甲州流築城術を知ることができます😃

 

 

高遠城址公園案内板

※国指定史跡高遠城二の丸にある「高遠城址公園」案内板…高遠城址は遺構がほぼ完存しており、春には全国的にも有名な「桜の名所」になっており、お城に興味のない人でも楽しめる「花見スポット」となっていますデレデレ

 

「城郭ファン」としては、個人的感想ですが、「桜の木植えすぎ」で遺構全体が分かりづらくなっています真顔

 

 

 

  高遠城 日本100名城 No.30

 

高遠城(高遠城址公園、新城藤原神社)は、現在本丸には、江戸期に創建された「新城藤原神社」が建っています⛩️

 

高遠城には、高遠町歴史博物館駐車場があります(無料)🚗

 

高遠城入城料は基本無料ですが、「高遠城址公園さくらまつり」期間中(開花宣言翌日〜散り終わり)は入城料が、発生します。

 

駐車場に関しても、多くの観光客で賑わうため、大規模な規制がかかり、有料となります(詳しくは、伊那市ホームページに記載されています)。

 

僕は、城跡が見たかっただけなので、9月に行きました。

 

人はまばらでした。

 

では、今回、僕が見てきた高遠城の遺構をご紹介させて頂きます🙇

 

 

二の丸案内板

 

二の丸

※国指定史跡高遠城二の丸と案内板…本丸を取り囲む曲輪で、武器庫、厩が建っており、有事の際の出撃に備えていましたゲロー

 

 

 

  ⑦高遠城の遺構〜法幢院曲輪

 

 

法幢院曲輪は、高遠城の西側の守りを強固にするために築かれた曲輪で、三段構成になっています。

 

かつては、「法幢院」という寺院があり、武田時代には防御施設の役割を担っていたと考えられますが、江戸期に移転しています。

 

 

  ⑧高遠城の遺構〜白兎橋

 

 

法幢院曲輪と南曲輪の間には、巨大な空掘が造られており、間には橋が架かっています。

 

現在残る橋は「白兎橋」と呼ばれ、明治に造られた巨大な橋です。

 

 

  ⑨高遠城の遺構〜南曲輪

 

 

本丸南に位置する大規模な曲輪で、本丸を繋ぐ橋は、現在土橋となっていますが、当初は簡易的な木橋だったようです。

 

空堀

※国指定史跡高遠城二の丸から見た空堀…本丸と二の丸の間の空堀は、大規模で往時はもっと深かったと思われますニヤニヤ

 

 

  ⑩高遠城の遺構〜本丸

 

 

本丸は、武田時代からこの位置に存在していたようです。

 

本丸内には、御殿と天守相当の辰巳(北西)二階櫓、本丸一の門、二の門櫓門が建っていました。

 

現在は、あたりに顕彰碑が建っており、どのあたりに建っていたのか、草ぼうぼうであまり良く分かりませんでした。

 

太鼓櫓(太鼓楼)が本丸内に模擬櫓として建っており、本来は三の丸の搦手門付近にあったようで、同じ太鼓櫓が搦手門跡に建っています。

 

新城・藤原神社は、高遠藩主六代内藤頼以が祖先である藤原鎌足を祀った社を本丸内に建てていましたが、七代頼寧が五郎山の社から「仁科盛信」を勧請し、「新城神社」を建立しました。

 

現在は、合祀され「新城・藤原神社」となっています。

 

 

  ⑪高遠城の遺構〜問屋門、桜雲橋

 

かつて、二の丸から本丸入口には巨大な橋(桜雲橋)、一の門(高麗門)、二の門(櫓門)を建てて、石垣造りとし、守りを強固にしていました。

 

問屋門は、江戸時代にあった名主問屋役所門を、高遠城本丸一の門があった場所に移築されています。

 

 

高遠城址公園パンフレット

 

高遠城100名城スタンプ

※国指定史跡高遠城「高遠城址公園パンフレット」と100名城スタンプ…スタンプは「高遠町歴史博物館」入口に設置してありますウインク

 

パンフレットは、博物館の係員の方から頂きましたちゅー

 

歴史博物館内は、内藤家家宝や高遠城復元模型、復元「絵島囲み屋敷」などを展示していますムキー

 

 

  ⑫高遠城の遺構〜二の丸

 

 

二の丸は、武具蔵や厩が建てられており、有事の際は、二の丸から出撃する体制となっていたようです。

 

1936年(昭和11年)に休憩所として建てられている国登録有文「高遠閣」があります。

 

高遠城には、多くの桜が植えられ、春には絶好の景勝地となります。

 

時間の都合上、多くをみてまわれませんでしたが、巨大な空掘は見応えバツグンです!!!

 

高遠城に関しては、下調べが不十分だったので藩校遺構「進徳館」、改変されすぎて文化財指定はされていませんが、「大手門」を見に行けなかったことが残念でした。

 

下調べの大事さを、改めて思い知った「登城」でした………

 

高遠城は、日本100名城に指定されており、見応えのある「城」ですが、正直言うと「物足りなさ」を感じました(個人的意見でスミマセン😓)。

 

理由としては、高遠歴史博物館で「江戸期の模型」(撮影してません)を見ましたが、巨大な枡形門遺構や辰巳櫓跡、御殿跡の表示が現地では一切なく、御殿跡、櫓門跡に礎石の痕跡があるか確認しましたが、分かりませんでした。

 

辰巳櫓は、二階櫓ながらかなり大型の櫓であったと考えられますが、表示はなく、草ぼうぼうで顕彰碑だらけで近づくこともできず、少し残念でした。

 

城郭好きな人は、様々なタイプの人がいます。

 

「縄張り好き」「石垣好き」「土塁・空堀好き」「建物好き」etc…

 

僕は、松本城天守群に感動したように「建物好き」「文化財建築物好き」です。

 

後世にまで伝わった何百年も前に建てられた「人々の維持、管理の努力の結晶」の建物は、大きな感動を与えてくれます。

 

 

 

たとえ、失われた建物でも、復元、復興された「建物」を見ると、「人々の努力」が感じられますし、たとえ、「跡」しかなくても、表示だけで「かつてはどんな建物が建ってたんやろ?すごいのが建ってたんやろなぁ…せめて古写真が残ってたらなぁ…」と勝手に想像を膨らませる、自分で言うのも何ですが、「変な人」だと思います。

 

 

 

現在、高遠城には、巨大な空堀など、往時を感じさせる遺構は確かに存在しますが、完全に「桜の名所」となっているような気がします。

 

「市民の憩いの場」「観光(花見)名所」としては、「城郭」に興味がない方でも、気軽に楽しめる場所であることは確かなのですが…

 

 

 

しかし、高遠町には多くの歴史遺産があります。

 

仁科盛信公、小山田備中、大学、渡辺金太夫、諏訪はな、高遠将士が祀られている「五郎山」、保科正直、正光公、武田勝頼の母諏訪御料人の墓所のある「建福寺」、高遠で亡くなった信玄父の武田信虎公墓所のある「桂泉院」、絵島墓所「蓮華寺」など、行くべきところは多いので機会をつくり、行こうと思います。

 

今回は、長期の遠出は極力避けていた、僕の久しぶりの「長期旅行」でした。

 

年齢的にも体力的にも個人的にはキツかったですが、念願だった設楽原の武田武将の墓(一部)、武田神社、川中島古戦場、松本城に行くことができました✨

 

甲州、信州はまだまだ、武田関連の史跡が多く点在しているので、機会を作って再度行きたいと思っています。

 

今回は、あまり興味がない?のに付き合ってくれた?奥さんに感謝です😍

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

終わります🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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