南曲輪案内板

※国指定史跡高遠城南曲輪案内板…本丸のとなりに位置し、本丸を守る大きな曲輪ですゲッソリ

 

 

 

 

高遠城2️⃣  100名城No.30

 

 

高遠城には、今回初めて行きました。

 

高遠城は、山城に見えますが、平山城に属します。

 

高遠城は、「高遠城址公園さくらまつり」が毎年3月末頃の咲き始めから4月中旬〜下旬頃まで行われます。

 

5分咲きの4月初旬、満開の4月中旬には、多くの観光客で賑わいます。

 

高遠城の建物は、明治期に取り壊されましたが、土塁、空堀の遺構がほぼ完存する城で、江戸時代に大改修されているものの、縄張りはほぼ踏襲されており、武田時代(戦国期)の甲州流築城術を知ることができます😃

 

 

本丸跡

※国指定史跡高遠城本丸…かつてはこのあたりに本丸御殿、南東隅に巨大な二重櫓「辰巳櫓」が建っていましたちゅー

 

 

  高遠城 日本100名城 No.30

 

高遠城(高遠城址公園、新城藤原神社)は、現在本丸には、江戸期に創建された「新城藤原神社」が建っています⛩️

 

高遠城には、高遠町歴史博物館駐車場があります(無料)🚗

 

高遠城入城料は基本無料ですが、「高遠城址公園さくらまつり」期間中(開花宣言翌日〜散り終わり)は入城料が、発生します。

 

駐車場に関しても、多くの観光客で賑わうため、大規模な規制がかかり、有料となります(詳しくは、伊那市ホームページに記載されています)。

 

僕は、城跡が見たかっただけなので、9月に行きました。

 

人はまばらでした。

 

では、引き続き高遠城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

太鼓櫓案内板

 

太鼓櫓

※国指定史跡高遠城太鼓櫓(模擬)…太鼓櫓は搦め手口にあり、門脇の櫓内にて時を告げる太鼓を打ち鳴らしていたようですポーン

 

このような中世~戦国期にみられる楼閣タイプの櫓だったのかどうかは分かりません笑い泣き

 

 

 

  ④高遠城の歴史〜江戸時代(鳥居家→内藤家)

 

 

 

高遠藩は、保科正之転封後、家康家臣鳥居元忠の孫、忠春が3万石で藩主となりました。

 

「鳥居家」は、徳川譜代大名として、一時は山形24万石を領する大名でしたが、当時の当主忠常に子が無く、改易となってしまいました。

 

しかし、家祖元忠の勲功(関ヶ原合戦の前哨戦伏見城の戦いで討ち死に)に免じて、忠常弟の忠春に相続が認められたいきさつがありました。

 

忠春は、「鳥居本家」のかつての威光を取り戻そうとし、増税などの「圧政」で、領民を苦しめ「暴君化」していきます。

 

忠春のあとを継いだ忠則も「バカ殿」だったようで、必然的に「バカ」な家臣が多く、バカな家臣のひとりが「風呂を覗いていた」ことで捕まり、忠則は幕府に呼ばれ、家臣の「管理不行き届き」により、再び「鳥居家」は「改易」されてしまいました。

 

しかし、「家祖鳥居元忠」の功績により、鳥居家は「再々興」します。

 

忠則の弟、忠英が「鳥居本家」相続を許され、能登下村1万石の「大名」となりました。

 

鳥居忠則改易後、高遠藩主となったのが、譜代大名「内藤家」です。

 

「内藤家」は、家康の小姓内藤清成を祖とする「岡崎譜代」の家で、内藤清牧の代で京都所司代から高遠3万3千石に転封となりました。

 

以降、内藤氏8代が「高遠藩主」として、幕末を迎えます。

 

 

新城・藤原神社案内板

 

新城・藤原神社

 

新城・藤原神社

※国指定史跡高遠城本丸内新城・藤原神社と案内板…幕末まで続いた高遠藩内藤家の先祖「藤原鎌足」と武田時代の城主「仁科盛信」を合祀し、本丸内に「新城・藤原神社」を建てていましたデレデレ

 

この神社の位置は、変わっていないかと思われます真顔

 

 

  ⑤高遠城の歴史〜江戸時代Ⅲ〜絵島生島事件(絵島囲み屋敷)

 

 

高遠歴史博物館内には、江戸時代の大事件「絵島生島事件」の当事者大奥御年寄(大奥を取り仕切る奥女中の事実上のトップ)「絵島」が高遠に「流罪」となった際の住居「囲み屋敷」が再現されています。

 

絵島の墓所は、高遠町の蓮華寺にあり、事件の詳細については絵島の生涯とともに投稿させて頂きます🙇

 

「絵島囲み屋敷」は時間の都合で見学することが出来ませんでした😭

 

高遠町に再度行く機会をつくり、訪問したいです。

 

 

 

問屋門案内板

 

問屋門付近石垣

※国指定史跡高遠城本丸内問屋門と案内板…写真の門は「問屋門」と言う移築された門で、城内にあった門ではありませんゲロー

 

本丸は巨大な空堀が巡らされ、北側に二の丸を配置し、防備を固めていましたニヤニヤ

 

二の丸から本丸に繋がる橋の手前、本丸北口(問屋門の位置)、石垣のあたりに巨大な櫓門を設け、「桝形」を形成していましたウインク

 

櫓門が建っていたと想定される場所には、石垣が残っていますが、崩されたと思われますチーン

 

 

 

  ⑥高遠城の歴史〜明治時代〜現在

 

 

高遠城は、明治6年(1873)の廃城令により、残っていた建物(ニ重辰巳櫓、御殿、櫓門など)はすべて取り壊されました。

 

しかし、高遠城は開発されておらず、縄張りはほぼ完存しており、中世(武田時代)の城郭の遺構が随所に見られます。

 

本丸門、冠木門は、個人宅に移築され、現存。

 

二の丸門は、部材が伊那市により保管されています。

 

搦手門は、岡谷市久保寺に移築され、現存。

 

大手門は、高遠高校の正門とされて、大きく改変を受けていますが、元々の位置に移築されています。

 

万延元年(1860)に建てられた藩校「進徳館」は現存しています。

 

 

 

次回は、僕が見てきた高遠城の遺構をご紹介させて頂きます✨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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