松本城天守群小天守

 

松本城天守群小天守

※国宝松本城天守群小天守…何で?2枚同じ構図?と思われるでしょうが、個人的には、北東側から写した松本城小天守が好きですねデレデレ

 

松本城小天守は小笠原貞慶が建てたとされる「深志城天守」の古材を用いて、石川数正が「突貫工事」で建てた天守ですゲロー

 

戦国期に登場した「プロトタイプの天守」に近い「黒い武骨な天守」で最上階(三層部分)に「華頭窓」(わかりにくいですが真ん中にあります)があしらわれた、おそらく数正が建てた当時は、「望楼型(犬山城天守のようなタイプ・古式)」であったと思われます笑い泣き

 

小天守は、かつての城の天守がそのまま使用されるパターンが多いのですが、小天守の現存建築物は極めて少ないですポーン

 

松本城小天守自体、天守クラスの巨大な建築物で、石川数正の松本城は現在の小天守が「天守」であったと考えられます。


当初石川(数正)自身は小天守を「天守」とし、渡櫓を「小天守」として考えていたのではないかと思われます。


石川父子は豊臣家からの「要請」を受けたうえで、豊臣家の「莫大な資金援助」を得て、大天守建造に着手できたのではないかと、個人的には思ってますウインク

 

松本城乾小天守は、姫路城乾小天守、西小天守と同じく、天守クラスの「巨大な」小天守ですニヤニヤ

 

 

 

 

松本城3️⃣  100名城No.29

 

 

松本城には、今回初めて行きました。

 

松本城は、平城に属します。

 

「現存12天守」のうち、「国宝」は、松本城含めわずか5天守しかなく、そのうち5層の天守は、姫路城と松本城のみです。

 

また、松本城は「関ヶ原(1600年)」以前築城がはっきりと判明している天守としては、犬山城に次ぐ「最古」の建物です。

 

松本城は、徳川家康の譜代筆頭家老で、のち謎の「出奔」を遂げた石川数正・康長親子が建てた城です😯

 

 

松本城現存建築物は大天守含め5棟あります。

 

石川父子が建てた大天守小天守渡櫓松平直政が建てた辰巳付櫓月見櫓の計5棟が「国宝」に指定されています。

 

 

北東方面松本城天守群

※国宝松本城天守群…北東方面から乾小天守、大天守、辰巳附櫓…素晴らしい!この構図、個人的には好きです真顔

 

南側松本城天守群

※国宝松本城天守群…南側からみた大天守、辰巳附櫓、月見櫓(工事中・この姿もある意味貴重と前向きにとらえてます)ちゅー

 

 

  松本城(松本城公園) 日本100名城 No.29

 

松本城(松本城公園)は、JR松本駅から徒歩約20分のところにあります。

 

松本城には、市営開智駐車場他、何か所か駐車場があります(有料)🚗

 

松本城入城料はおとな700円、小中学校300円です。

 

平日にも関わらず、日本人のみならず、欧米人、中国人、韓国人、東南アジア系など多くの観光客がいました

 

では、松本城の主な遺構をご紹介させて頂きます🙇

 

南西方面松本城天守群

※国宝松本城天守群…南西側からみた乾小天守、大天守、辰巳附櫓、月見櫓(工事中)素晴らしい!ちゅー

 

西側から見た小天守、大天守

※国宝松本城天守群…西側からみた小天守、渡櫓、大天守

 

大天守を完成させた石川数正の息子康長の時代は、まだ桃山期城郭(望楼型)最盛期であり、小天守、大天守とも望楼型→層塔型へ江戸期に「改変」されたんじゃないかと個人的には思ってますゲロー

 

 

  ⑥松本城の遺構〜在りし日の松本城

 

 

松本城天守群は、東向きに建っており、石川数正父子が築城した当初(豊臣時代…天正末期〜文禄〜慶長初期)は「関東の徳川家」を警戒対象とした「縄張り」になっていることがわかります。

 

現在、松本城の遺構として現存する建築物は天守群のみです。

 

二の丸太鼓門枡形、本丸黒門が木造復元され、内堀および本丸、二の丸石垣は完存しています。

 

二の丸は松本城公園となり、ほぼ完存しています。

 

北外堀、東外堀はほぼ完存(一部道路化)。

 

南、西外堀、三の丸、大手門、総構の総堀、東西南北計五ヶ所の馬出しは市街地化され消滅しています。

 

建物についてですが、二の丸の北門、北東(坤)二重櫓、二の丸御殿及び表門、南東(乾)二重櫓、南二重櫓、南西(艮)平櫓、北西(巽)三重櫓、二の丸倉庫、若宮八幡宮、土塀は消滅。

 

本丸御殿、北東隅櫓、北門、土塀は消滅。

 

 

  ⑦松本城の遺構〜二の丸太鼓門枡形

 

 

二の丸太鼓門枡形は、高麗門(二ノ門)櫓門(一ノ門)で枡形を構成した堅固な構えとなっています。

 

明治期に取り壊されましたが、礎石が良好に残っており、古写真はありませんが、江戸期の絵図に基づいて、平成11年、忠実に木造復元されました。

 

  ⑧松本城の遺構〜二の丸御殿跡

 

 

江戸中期に本丸御殿が焼失してからは、藩主が居住し、政務を行う建物でした。

 

廃城令後、筑摩県庁舎になり、取り壊しを免れていましたが、明治9年に焼失しました。

 

二の丸御殿の礎石は良好に残っており、かなり大規模な御殿であったことが分かります。

 

松本城パンフレット、入場券

※国宝松本城入場券、パンフレット…入場券売り場でもらいましたウインク

 

改めて、この写真をみると姫路城と並ぶ城郭建築だなと思います笑い泣き

 

 

 

 

  ⑨松本城の遺構〜黒門枡形

 

 

黒門枡形は本丸の正門として、二の丸から本丸へ通ずる橋(南側)を守っていました。

 

一ノ門と二ノ門の構成で二の丸太鼓門と同じく、枡形を形成していました。

 

黒門枡形は、絵図に基づき、平成2年に木造復元され、櫓門には金の桐紋(豊臣の紋)があしらわれ、数正築城当初の門は、「豊臣家からの資金援助を受けた証跡」として、桐紋をあしらった豪壮な桃山建築だったんだろうと想像させてくれます。

 

門を入ってすぐのところに、松本城を現在に残した市川量造と小林有也の石碑が、建っています。

 

※国宝松本城本丸売店で購入したマグネット…犬山城と一緒の温度計付きタイプですニヤニヤ

 

 

  ⑩松本城の遺構〜天守群 国宝大天守、小天守、渡櫓

 

 

松本城国宝天守群は、本丸の南西隅部分に建っています。

 

東側からみて、向かって右から乾小天守、連結渡櫓、大天守、左端に辰巳付櫓、月見櫓が建っています。

 

松本城国宝大天守に向かう手前(北東方面)に乾小天守、連結渡櫓が建っています。

 

乾小天守は、松本城国宝天守群の中で、最も古い現存建築物であり、石川数正が建てたものと断定出来る建築物です。

 

乾小天守は、石川数正が、松本城主となった天正19年(1591)、一年足らずの短期間の工期で、建てられたと考えられます。

 

短期間で三層の高層建築物を建てることができた根拠として、小天守修復工事の際、天正19年より古い木材(古材)が大量に使用されていることが判明しています。


おそらく、前城主小笠原貞慶、秀政父子時代(深志城から松本城に改名)には、既に天守相当の建築物があり、数正はそれを解体し、転用したのではないかと考えられます。

 

 

 

石川数正は、大天守(2階部分まで、小天守、渡櫓を3年ほど(天正19年〜文禄3年 1591〜1594)の短期間で完成させたと言われており、一から造るとなると、これだけ大規模な建物を建てる工期としては、豊臣家からの資金援助を考慮しても、あまりにも短すぎます。


よって、石川数正は、短期間で天守を完成させるため、小笠原時代に既にあった天守相当の建築物などの木材、瓦を大量に転用したと考えられます。

 

 

桃山(豊臣)時代〜江戸(徳川)初期(天正末期、文禄、慶長初期)は、城郭、寺社の「建築ラッシュ」で自ずと建築技術が、最高水準に達していた頃です。

 

よって短期間で築城することを目標とするならば、資材(木材、石材、瓦材)を有効活用するしかありません。

 

 

 

短期間で大型建築物を建てるには、「元々城内にあった建物をそのまま利用する、近くにある城や寺社の建物を解体し利用する」のが、最も有効な手段であると言えます。

 

 

 

築城ラッシュの時期(天正末期、文禄、慶長初期)に建てられた現存する城郭建築物は、とかく学者さんの間でいろんな説が唱えられますが…(墨書きや棟札がないので断定できないetc…)

 

一から木材を切り出す、一から石材を切り出す、一から瓦を焼かせる…築城ラッシュなのにそんなことをしていたら、いつまで経っても大規模な天守のような建築物は建ちません!

 

石川数正から息子康長に引き継がれた、大天守完成(残り3階部分)が、文禄3年(1593)とすれば、大天守も間違いなく古材を転用して建てられたと言えます。

 

大天守、小天守とも江戸期に幾度かの改修を受けており、個人的には「元々大天守、小天守とも望楼型だったのが、江戸期に層塔型天守に改変された」「桃山期豊臣風」から「江戸期徳川風」に改修されていると考えるのが妥当かと思います。

 

黒漆塗り下見板張りの大天守、小天守は豊臣大阪城に代表される「桃山時代」に流行した城郭建築で、現存12天守のうち、関ヶ原以前に建てられた城郭建築物は、松本城しか存在していない、大変貴重な建築物なのです。

 

 

※国宝松本城100名城スタンプ…本丸内に設置してあります真顔

 

 

  ⑪松本城の遺構〜天守群 国宝辰巳付櫓、月見櫓

 

 

3代将軍家光は、寛永11年(1634)に上洛し、江戸への帰りの道中に善光寺詣でをすることが決まり、道中の宿として、松本城を指名しました。

 

家光が松本城に立ち寄ることを知った、ときの松本藩主松平直政(結城秀康の次男、福井松平家祖)は、家光をもてなすべく、辰巳付櫓、月見櫓の増設を考え、寛永10年(1633)に、一年未満の突貫工事(おそらく周辺の寺社あるいは城郭建築物などの、古材を利用したと思われます)にて建てられています。

 

最終的に将軍家光は、善光寺詣でを中止したため、松本城に立ち寄ることはありませんでしたが、月見櫓が天守と連立しているケースは、松本城しかなく、「家光の無茶振りのおかげ」で辰巳付櫓、月見櫓が建ったと言っても過言ではありません。

 

辰巳付櫓および月見櫓は、いくさの無くなった「泰平の世」の優雅さも垣間見ることが出来る貴重な建築物を後世に残したと言えます。

 

 

 

松本城天守群は、桃山期の豪壮且つ武骨で戦闘的な大天守、小天守、渡櫓及び泰平の世となった江戸期の優雅さを兼ね備えた辰巳附櫓、月見櫓と築造年代の違う建築物が融合した、全国的にも類例のない貴重な、まさに「国宝」と呼べる城郭建築ですね!

 

 

 

最後に、天守見学後、降りてきたときに年配の女性や欧米人の「黄色い歓声」が聞こえました。

 

「おもてなし武将隊」の石川数正公がいらっしゃり、僕も一緒に写真を撮ってもらいました。

 

今、城へ行くと、その城にゆかりのある「おもてなし武将隊」の方々がいらっしゃいます。

 

これも、オッサンながらミーハー(死語?)な僕には最高の体験でした✨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

終わります🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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