松本城案内板

※「国宝松本城」東外堀跡道路に建つ松本城案内図…現在、北外堀、東外堀は、ほぼ完存していますが、一部は道路化され埋め立てられていますゲッソリ

 

北外堀、東外堀はまだマシな方で、南外堀は一部を残し市街地化、西外堀に至っては完全に消滅、三の丸は完全に消滅、城域(城下町含む)を取り囲むように造られた「総堀」も消滅していますチーン

 

現在、松本城は二の丸、本丸部分を残すのみとなっています笑い泣き

 

 

 

 

松本城1️⃣  100名城No.29

 

 

松本城には、今回初めて行きました。

 

松本城は、平城に属します。

 

「現存12天守」のうち、「国宝」は、松本城含めわずか5天守しかなく、そのうち5層の天守は、姫路城と松本城のみです。

 

また、松本城は「関ヶ原(1600年)」以前築城がはっきりと判明している天守としては、犬山城に次ぐ「最古」の建物です。

 

松本城は、徳川家康の譜代筆頭家老で、のち謎の「出奔」を遂げた石川数正・康長親子が建てた城です😯

 

石川数正は、大天守建造中に亡くなり、完成させたのは、息子康長です。

 

松本城現存建築物は大天守含め5棟あります。

 

石川父子が建てた大天守小天守渡櫓松平直政が建てた辰巳付櫓月見櫓の計5棟が「国宝」に指定されています。

 

現在、松本城は松本市、彦根市、犬山市とともに「世界文化遺産」登録の運動を行っています。

 

個人的にも、松本城は姫路城に匹敵する5層の大天守及び連立天守を擁しており、しかも姫路城と同じく城郭建築技術が最も発達した頃の、数少ない建築遺構ですので、「世界文化遺産」にふさわしいと思います😊

 

 

北東隅櫓台

※「国宝松本城」東外堀からみた北東(坤櫓)櫓台…土塁づくりの櫓台です真顔

 

武田滅亡後、小笠原貞慶が城主となったときに造られたと思われますウインク

 

 

  松本城(松本城公園) 日本100名城 No.29

 

松本城(松本城公園)は、JR松本駅から徒歩約20分のところにあります。

 

松本城には、市営開智駐車場他、何か所か駐車場があります(有料)🚗

 

松本城入城料はおとな700円、小中学校300円です。

 

平日にも関わらず、日本人のみならず、欧米人、中国人、韓国人、東南アジア系など多くの観光客がいました

 

では、松本城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

太鼓門桝形

 

太鼓門櫓門

 

太鼓門櫓門

※「国宝松本城」太鼓門桝形…二の丸の入口を守る門で一の門(高麗門)と二の門(櫓門)で「桝形」を構成しています真顔

 

平成11年(1999)当時の絵図に基づき忠実に木造復元されていますウインク

 

大手門に次ぐ巨大な門と言われていました(大手門桝形は市街地化により消滅)ムキー

 

太鼓門礎石

※「国宝松本城」太鼓門礎石と案内板…巨大な「礎石」です!デレデレ

 

 

  ①松本城の歴史〜戦国時代(武田家の支配、滅亡→本能寺の変→天正壬午の乱→名門小笠原氏の復活)

 

 

松本城は、「深志城」と呼ばれ、信濃守護大名小笠原長時の居城林城を守る支城のひとつでした。

 

天文19年(1550)、甲斐の戦国大名武田信玄(晴信)の信濃侵攻により、小笠原長時は逃亡、名門「小笠原家」は、一旦「滅亡」します。

 

深志城は、湿地帯に囲まれた平城ながら「天然の要害」であり、そこに目をつけた信玄(晴信)は、北信濃攻略の拠点とすべく、側近の家老馬場信春に命じ、深志城を改修し、城域を拡張しました。

 

戦国最強を誇った「甲斐源氏武田家」が天正10年(1582)織田・徳川連合軍の「甲州征伐」によりあっけなく「滅亡」します😭

 

深志城主馬場信春は、長篠で討ち死にし、息子昌房が守っていましたが、甲州征伐時、織田軍に明け渡しました。

 

深志城は、武田裏切り者トリオのひとり「木曽義昌」に与えられました。

 

武田家滅亡2ヶ月後、「本能寺の変」が起こり、信長を失った織田軍は大混乱します😨

 

信濃守護大名小笠原長時は、流浪の末、会津で死去します。

 

弟の洞雪斎(貞種)は、越後の上杉景勝の支援を得て、武田旧臣による「天正壬午の乱」に乗じ、深志城を奪取し、木曽義昌を追出しました。

 

武田家臣となり、武田滅亡後は、信濃各地に潜伏していた小笠原旧臣たちは、洞雪斎(=上杉)の支配に納得せず、長時の嫡男で徳川家康の客将となっていた小笠原貞慶を擁立すべく徳川家康を頼みました。

 

貞慶は、名門小笠原氏再興のため、家康の支援を受けて深志城を攻めます。

 

洞雪斎は、城を明け渡し逃亡、貞慶は名門小笠原家を再興し、深志城を「松本城」に改名します。

 

 

二の丸御殿案内板…

 

二の丸御殿跡

※「国宝松本城」二の丸御殿絵図看板、御殿跡地…かなり広大な御殿跡ですポーン

 

本丸御殿が江戸中期に火災で焼失したあとは、藩主の居住空間および政務の場所として利用されました真顔

 

天守群とともに、明治の廃城令後も「筑摩県庁」の建物として利用されていましたが、明治期の火災により焼失しましたチーン

 

古写真は、残念ながら残っていないものの、詳細な絵図面が残っていることから、復元計画があるようですウインク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ②松本城の歴史〜豊臣時代(石川数正の大改修)

 

小牧、長久手合戦後、徳川家康は羽柴(豊臣)秀吉に臣従しますが、翌年の天正13年(1585)、徳川家の筆頭家老「石川数正」が突如「謎の出奔」を遂げ、秀吉に臣従します。

 

石川数正の生涯については、墓所に訪問した際に、投稿させて頂きます🙇

 

天正18年(1590)、小田原征伐により、北条氏が滅亡、家康は関東移封となり、松本城主小笠原秀政(貞慶の息子)も関東下総古河へ移りました。

 

石川数正は、松本10万石に加増転封され、松本城を現在見られる姿に改修します。

 

松本城大天守、小天守の規模は、どう考えても「10万石の大名の居城」にしては、不釣り合いな気がします。

 

秀吉は「徳川家」を警戒しており、「徳川家の内情」をよく知る石川を中山道に近い商業都市「松本」へ移封し、家康を牽制したと思われます。

 

 

 

石川数正、康長父子が「10万石大名の居城」として、このような巨大な大天守、小天守を建てられたのは、「豊臣家の莫大な金銭支援」があったからこそであると思われます。

 

 

 

  ③松本城の歴史〜江戸時代(石川康長の改易→要衝地としての譜代大名配置)

 

 

関ヶ原合戦後、石川康長は東軍に属していたため、所領安堵されました。

 

しかし、慶長18年(1613)、大久保長安事件に連座した罪により、「謎の改易」にされ豊後へ流罪となりました。

 

石川康長の生涯については、大分県に墓所があるらしいので、行ったときに、投稿させて頂きます。

 

石川康長改易後は、徳川譜代大名が歴代城主となり、10万石以下の小藩でした(小笠原家8万石→戸田松平家7万石→雲州松平家7万石→堀田家10万石→水野家7万石→戸田松平家6万石)。

 

 

 

江戸時代を通じて、10万石以下の小藩により、これだけの大城郭を維持できたのは、幕府の関与があったことは間違いないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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