信玄vs謙信銅像

※川中島古戦場跡八幡社境内内に建つ巨大な「武田信玄VS上杉謙信銅像」…「法体姿」の謙信が自慢の大太刀を振るい、信玄に斬りかかる、「諏訪法性院鎧兜姿」の信玄が鉄製の軍配で太刀を受ける、有名な「三太刀七太刀」が題材になっています ポーン

 

多くの観光客の「撮影スポット」となっています ニヤニヤ

 

 

 

 

川中島古戦場史跡公園2️⃣ 

 

 

川中島古戦場には、今回初めて行きました。

 

 

 

日本合戦史に残る有名な合戦である「川中島の戦い」は、要衝地である「川中島」の争奪戦です。

 

 

 

「川中島の戦い」は、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで、通算5回、約11年もの長期間にわたり、繰り広げられた、日本合戦史上類例を見ない「合戦」です。

 

 

風林火山の旗案内板

 

信玄銅像

※川中島古戦場跡八幡社境内内に建つ「軍配で謙信の太刀を受ける信玄銅像」と「風林火山」案内板…「風林火山」は孫子の兵法の一説で、信玄は山本勘助の進言もあり、合戦のたびに「武田軍の旗」として、使用されました 真顔

 

謙信が斬りかかった際、信玄は床几に座ったまま、微動だにせず、謙信の太刀を鉄製の軍配で受けたと言われています ポーン

 

 

 

  川中島古戦場史跡公園

 

「川中島古戦場史跡公園」は、従来は「八幡原史跡公園」と呼ばれていましたが、国、長野市の緑地公園事業の一環で平成29年「都市公園」に認定されています。

 

広大な公園内には、武田信玄本陣跡「八幡社」、長野市立博物館などがあります。

 

川中島古戦場史跡公園には、広い公園駐車場があります(無料)🚗

 

平日にも関わらず、多くの人がいました

 

では、引き続き川中島の戦いの歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

毘、龍の旗案内板

放生月毛にまたがる謙信銅像

※川中島古戦場跡八幡社境内内に建つ「名馬放生月毛にまたがり、馬上から大太刀小豆長光を振り下ろす謙信銅像」と「毘」、「龍」案内板…政虎(謙信)は、ドラマによく出てくる「白の法体姿」で白い馬「放生月毛」にまたがり、「単騎駆け」で信玄の命を狙い、本陣へ突入、信玄に向かって大太刀「小豆長光」で斬りつけたと言われていますポーン

 

「毘」の旗は、いくさの神「毘沙門天」の化身と信じていた謙信により使用された「上杉軍の軍旗」ですムキー

 

「龍」の旗は、「毘」の旗同様「上杉軍の軍旗」として使用された「最強上杉軍」の象徴でしたウインク

 

 

 

 

  ④川中島の戦い〜第四次〜信玄(晴信)VS謙信(政虎)最大の激戦「龍虎一騎打ち」

 

 

 

第四次川中島合戦は、「八幡原の戦い」と呼ばれ、武田軍VS上杉軍による「最大の激戦」と呼ばれています⚔️

 

時は、若干遡りますが、当時の関東管領「山内上杉憲政」が、北条氏康に敗れ、越後春日山に亡命し、憲政は景虎に「関東管領山内上杉家」の家督を譲ると言いました😔

 

永禄2年(1559)、長尾景虎は、2度目の上洛を果たし、足利義輝に関東管領就任の了承を取り付けます。

 

「大義名分」を得た景虎は、「関東管領」として10万の大軍を率いて、「北条討伐」に向かいました🐴

 

対する北条氏康は、難攻不落の居城「小田原城」に籠城、上杉軍に包囲されますが、なかなか攻め落とすことが出来ませんでした🤔

 

永禄4年(1561)、氏康の要請を受けた武田晴信は、呼応して再び北信濃へ向け、甲府を出陣します🐴

 

晴信は、川中島に「海津城」を築き、高坂昌信に命じ、北信濃の残存勢力排除に動きます🐴

 

景虎は、小田原城攻略を断念、源氏の氏神「鶴岡八幡宮」に自身と将軍義輝、上杉憲政が擁立した関東(古河)公方「足利藤氏」を伴い、上杉姓、関東管領の相続の儀式を行いました🤩

 

長尾景虎は、姓名を「上杉政虎」と改め、越後へ帰国後、すぐに1万8千を率いて出陣し、5千を後詰で善光寺に残し、自身は1万3千を率いて、川中島妻女山に布陣します🐴

 

高坂より、信玄(永禄2年に出家)へ上杉軍来襲の急報が届きました😡

 

信玄は、即座に2万の大軍を率いて、甲府を出陣、海津城近くの茶臼山に布陣します🐴

 

再び、双方「にらみ合い」が続きましたが、「今度こそ長尾と決着をつける」と決意し、海津城に本陣を移し、武田信繁、山本勘助、馬場信春、高坂昌信らと軍議を重ねました。

 

余談になりますが、信玄は、謙信の名を生涯「上杉」と呼ばず「長尾」と呼び続けたようです😯

 

武田信玄は、甲斐源氏の名門、戦国大名武田家として事実上「独立国」になっているのですが、表面上は、室町幕府に任命された「甲斐守」甲斐の「守護大名」なのです🤔

 

あくまで、武田家は、「室町幕府の臣下」ですので、頂点を将軍とすると、①将軍家(足利家)②関東公方家(足利家)③管領家(斯波、畠山、細川)④関東管領家(山内、扇谷上杉)⑤四職家(山名、一色、京極、赤松)⑥守護大名家となるわけです🤔

 

 

 

武田家より下の、たかが「越後の守護代」の長尾家ごときが「関東管領上杉家」を名乗るなど、絶対に認めん!!と信玄は、思っていたのです!!!

 

このエピソードには、武田信玄の上杉政虎(謙信)に対する「軽蔑」以上の強烈な「ライバル心」が見えます!

 

対する上杉政虎も、のちに不識庵謙信と名乗るようになったあと、「関東管領」として、「武田信玄を呪詛し、必ず討伐する願文」を春日山の神社に奉納しているほどです!!!

 

 

 

話を、「川中島」に戻しますが、軍師山本勘助と家老馬場信春は、軍を二手に分け、まず別働隊に、明け方頃、妻女山上杉陣を急襲させます。

 

不意を突かれ、混乱しながら、妻女山を降りてきた上杉軍を信玄本隊が「はさみ撃ち」にする、啄木鳥が狩りをする方法に因んだ「啄木鳥戦法」を信玄に提案しました

 

同年9月9日深夜、信玄は意を決し「啄木鳥戦法」を採用、軍を二手に分け、別働隊1万2千を馬場、高坂に預け、妻女山後方に向かわせます🐴

 

信玄は、「八幡原」に布陣、妻女山を降りてくる上杉軍を待ち受けていました🤬

 

戦国大名の殆どは、「下剋上の世」でまさに「本能のまま」自身の領土拡張、金儲け、何人もの女性を側室(彼女)にするetc…

 

戦国時代は「欲望」をむき出しにし、常に「戦い」に明け暮れる「非人道的」な時代でした😫

 

「義の武将」として有名な、上杉政虎(謙信)は、「戦国時代の当たり前」が通用しない武将です😍

 

領土、金、女性などには一切興味がなく、自らを「毘沙門天の化身」と信じ込んでいるある意味「変な人」です😓

 

政虎(謙信)はことのほかいくさに対しては、信玄を遥かに凌駕する「天才」だったと言えます😄

 

謙信に関しては、春日山と米沢に必ず行こうと思ってますので、そのときに詳しく説明させていただきます🙇

 

話を「川中島の戦い」に戻します。 

 

いくさの「天才」政虎(謙信)は、武田軍の「啄木鳥戦法」を見破って、明け方には自陣の妻女山を降りていたのです!!!

 

そうとも知らず信玄率いる本隊は、八幡原にて「鶴翼の陣形」で待ち受けていました。

 

明け方奇襲を仕掛けるつもりの、馬場、高坂隊は妻女山に到着するや、「もぬけの殻」になっていた上杉本陣を目の当たりにし、馬場、高坂は、

 

「上杉にしてやられた!戦法を見破られておる!!早馬でお屋形様に知らせよ!!!」

 

と妻女山から狼煙を挙げ、使者を八幡原の信玄本陣に向かわせました🐴

 

しかし、時すでに遅し…八幡原の武田軍は、前方が濃霧で全く見えず、濃霧が晴れ、視界が広がった頃には上杉軍が「魚鱗の陣」上杉軍得意の「車懸りの陣」で、突進してくるではありませんか!!!

 

武田軍は、上杉軍の長槍隊(上杉軍は「長槍」を中心とする部隊が殆どを占め、雑兵に至るまで「長槍」を持っていたと言われます)の強烈な「槍ぶすま」にあっという間に突き崩されます😱

 

短期間で勝負を決しようと考えていた政虎(謙信)は、僅かな供回りを連れ、単身「一騎駆け」を行い、信玄本陣を目指しました⚔️

 

 

 

政虎(謙信)に本陣を突き崩された武田軍は、総崩れになり、戦国史に残る名場面謙信が馬上から信玄に向かって斬りつけ、信玄が軍配でそれを受け止める「三太刀七刀」………

 

信玄VS謙信の「一騎打ち」が行われましたが、側近たちの必死の防戦により、信玄は難を逃れましたが、山本勘助の進言により、信玄は一旦退却しました😰

 

 

 

乱戦の中、山本勘助、諸角虎定が討ち死に…😭

 

信玄の身代わりとなり、実弟で副将の典厩信繁も討ち死にします😭

 

ようやく、妻女山を降りてきた馬場、高坂の別働隊が合流し、反転攻勢に出た武田軍に、形勢不利と判断した上杉軍は退却し、こうして「最大の激戦、第4次川中島の戦い」は終わりました⚔️

 

実弟信繁、軍師山本勘助、猛将諸角虎定といった大将クラスの武将を多く失った武田軍は、後半に反撃に転じたものの、「実質的な敗戦」となりました😓

 

 

執念の石

※川中島古戦場跡八幡社境内内の「執念の石」…政虎(謙信)が信玄本陣に突撃した際、信玄近習の原大隅が主君信玄を守るため、とっさに槍をとり、謙信めがけて突いたところ、槍が謙信の愛馬「放生月毛」に刺さり、馬が暴れたため、謙信は退却、信玄は窮地を逃れましたチーン

 

原大隅は、主君が無事だったことの安堵感もありましたが、謙信を討ち果たせなかった悔しさのあまり「この石」を槍で貫いたそうですゲロー

 

 

八幡社

※川中島古戦場跡八幡社と案内板…創建は平安時代の源顕清が信濃に流されたときに、源氏の守り神として小さな祠が建てられたと言われています真顔

 

信玄公の本陣跡として、松代藩真田家が代々保護しましたニヤニヤ

 

 

 

 

 

 

 

  ⑤川中島の戦い〜第五次〜信玄(晴信)VS謙信(輝虎)5度目の激突「二ヶ月間のにらみ合い」

 

 

第4次合戦の3年後、永禄7年(1564)、上杉輝虎(政虎から改名)は、飛騨に侵攻した武田軍を牽制するため、再び川中島へ出陣、武田軍も川中島に向かいました🐴

 

両軍は、犀川を挟んで再び「対峙」し、二ヶ月にわたる「にらみ合い」の末、冬が近くなり両軍は撤退、本格的な合戦は行われませんでした🤔

 

 

逆槐案内板

土塁跡

※川中島古戦場跡八幡社境内内「逆槐」案内板と信玄本陣土塁跡…信玄は、本陣を八幡社に決めた際、周囲に土塁を築き、現在も神社周辺には、土塁の「痕跡」が残っています真顔

 

土塁を築く際、近くにあった槐の木を引き抜き、杭代わりに打ち込んでいましたが、その後、杭から芽が出て槐の巨木に成長したと言われていますポーン

 

  ⑥川中島の戦い〜その後の武田家VS上杉家

 

 

武田信玄は、上杉輝虎を敵視していたものの、上杉家を刺激しない方針へ転換します。

 

信玄は、永禄11年(1568)今川義元亡き後、急速に弱体化した今川家に対し、一方的に同盟を破棄した上で、駿河へ侵攻し今川家を滅亡に追い込みました🔥

 

「関東管領」として、関東の北条氏と戦っていた上杉輝虎は、武田の駿河侵攻に際し、北条氏と和睦しました😅

 

輝虎は、その後出家し「不識庵謙信」と名乗りますが、依然として武田家を「敵視」していました😡

 

しかし、謙信自身も信玄との「直接対決」を避け、越中一向一揆の鎮圧などに、精力的に活動しています🐴

 

その後は、信玄の死後も、武田家VS上杉家の戦いは起こりませんでした🤔

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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