川中島古戦場史蹟公園案内板

※川中島古戦場史跡公園案内板…平成29年に「都市公園化」され、広大な芝生公園となり、川中島古戦場跡(八幡社)、長野市立博物館などの施設があり、「市民の憩いの場」となっていますニヤニヤ

 

 

 

 

川中島古戦場史跡公園1️⃣ 

 

 

川中島古戦場には、今回初めて行きました。

 

川中島は、千曲川と犀川の合流地点にあたる、古来から交通の要衝地です。

 

また、河川が作り出した肥沃な土地が広かっていたため、源平の世から、この土地を奪い合う「合戦」が頻繁に起こっていました。

 

日本合戦史に残る有名な合戦である「川中島の戦い」は、要衝地である「川中島」の争奪戦です。

 

「川中島の戦い」は、信濃統一を目指す「甲斐の虎」甲斐の戦国大名で、鎌倉から続く甲斐源氏の名門「武田家」当主「武田信玄(晴信)」と、信濃にある先祖代々の土地を武田家に侵攻された戦国大名「村上家」や「高梨家」が「越後の龍」越後の戦国大名で、室町幕府関東管領「上杉家」当主「上杉謙信(長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎)」に支援を求められ、北信濃の要衝地「川中島」に進出し、両者が激突した場所です。

 

「川中島の戦い」は、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで、通算5回、約11年もの長期間にわたり、繰り広げられた、日本合戦史上類例を見ない「合戦」です。

 

 

八幡社参道

※川中島古戦場跡八幡社参道…駐車場から八幡社へ続く「参道」はきれいに整備されています真顔

 

早朝から多くの観光客でにぎわっていましたウインク

 

 

 

  川中島古戦場史跡公園

 

「川中島古戦場史跡公園」は、従来は「八幡原史跡公園」と呼ばれていましたが、国、長野市の緑地公園事業の一環で平成29年「都市公園」に認定されています。

 

広大な公園内には、武田信玄本陣跡「八幡社」、長野市立博物館などがあります。

 

川中島古戦場史跡公園には、広い公園駐車場があります(無料)🚗

 

平日にも関わらず、多くの人がいました

 

では、川中島の戦いの歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

首塚①案内板

首塚①

※川中島古戦場史跡公園駐車場隣にある「首塚」①と案内板…第4次川中島合戦で戦死した将兵を弔うため、武田家臣高坂弾正(昌信)が家臣、村人たちを集め、武田・上杉双方の戦死者を集め、埋葬しましたチーン

 

また、高坂は付近の寺の僧侶たちを集め、盛大な法要を行い、墳墓の頂上に石碑を建立したと言われています真顔

 

 

 

 

 

 

 

  ①川中島の戦い〜第一次〜信玄(晴信)VS謙信(景虎)初めての激突

 

 

甲斐の戦国大名武田晴信(信玄)は、信濃全土統一を目指していました。

 

第一次川中島合戦は、「布施の戦い」「更科八幡の戦い」と呼ばれています⚔️

 

天文22年(1553)、武田晴信は、北信濃の戦国大名村上義清や信濃守護大名小笠原長時らを追い詰めて、信濃全土をほぼ手中に収めようとしていました🐴

 

村上義清、高梨政頼、小笠原残党らは、越後の戦国大名「長尾景虎」のもとへ逃走、助けを求めます😰

 

長尾景虎は、村上らを保護し、村上は、約5千の兵を与えられ、北信濃の自身の居城「葛尾城」奪回に向かいました😡

 

村上軍は、「八幡の戦い」で武田軍に勝利し、「葛尾城」を奪い返しましたが、武田軍に再び「反撃」され、葛尾城から再び越後へ「逃走」します🤩

 

村上の要請を受け、長尾景虎自ら5千の兵を率いて越後春日山から出陣、川中島布施にて武田軍を撃破し、武田軍の諸城を次々と落城させました🏯

 

武田軍は、体制を立て直し、今福浄閑らが反撃、武田晴信が城に陣取り動かないため、これ以上戦線を拡大すれば、自軍の被害が拡大すると判断した景虎は、兵を越後に引き揚げました😔

 

こうして「第一次川中島の戦い」は、終わりました😁

 

村上の旧領復活とはならなかったものの、北信濃周辺の土豪たちは、長尾家の後押しを受け、武田家に反抗を続けました🤬

 

長尾景虎は、第一次合戦後、上洛し、後奈良天皇に拝謁、従五位下弾正少弼という官位に正式に任官(当時は、◯◯守など、官位を「自称」していた戦国大名が多かったようです)されています😊

 

長尾景虎は、当時21歳、武田晴信は当時30歳でした😯

 

 

 

これから、「川中島」をめぐる龍虎(謙信VS信玄)の11年に及ぶ長い戦いが幕を開けます。

 

 

 

長尾景虎(のち上杉政虎→輝虎→不識庵謙信)は、数ある戦国大名の中でも、「異質な戦国大名」です。

 

戦国大名は、守護大名から転身できた大名は、武田家はじめ数えるほどしかいません(今川家、佐竹家、大友家、島津家)。

 

守護大名の家老クラスの守護代から戦国大名になった者は、まだマシなほうで、守護代の家臣や素姓がはっきりしない土豪、素浪人、町人、農民出身まで、本当にバラエティーに富んでいるからこそ、「戦国時代」は面白いのかもしれません!!!

 

長尾景虎の「長尾家」は、関東管領上杉家の一族で越後の「守護代」から戦国大名化した家です

 

戦国大名の殆どは、「下剋上の世」でまさに「本能のまま」自身の領土拡張、金儲け、何人もの女性を側室にして、常に「戦い」に明け暮れていました😫

 

長尾景虎(上杉謙信)は、弱きを助け、強きをくじく・・・「義の武将」としてあまりにも有名ですね😍

 

景虎は、多くの戦国大名たちでは当たり前の「領土拡張、金もうけ、多くの美しい女性を側室(彼女)にする」などには一切関心がなく、自分は「神」で、戦いの「神」「毘沙門天の生まれ変わりだ」と信じ切っていたある意味「変な人」です😓

 

 

 

しかし、景虎(謙信)は、いくさに関しては、信玄を遥かに凌駕する「天才」だったと言えます😄

 

 

 

謙信に関しては、春日山と米沢に必ず行こうと思ってますので、そのときに詳しく説明させていただきます🙇

 

八幡社境内前案内板武田・上杉両軍一騎討ちの地八幡原石碑

※川中島古戦場跡八幡社境内前にある「八幡社」案内板と武田・上杉両雄一騎討ちの地 八幡原石碑…多くの観光の方が訪れることから、しっかりマナーを守って参拝してください旨の案内板が建てられていますムキー

 

八幡社が建つ「八幡原」は、第4次合戦の武田軍本陣になります真顔

 

 

 

川中島大合戦図

※川中島古戦場跡八幡社境内前にある「川中島大合戦図」看板…「第4次川中島の戦い」での、武田軍・上杉両軍の布陣図が、見やすく、分かりやすい看板ですウインク

 

 

 

  ②川中島の戦い〜第二次〜信玄(晴信)VS謙信(景虎)2度目の激突「200日間のにらみ合い」

 

 

武田晴信は、天文23年(1554)南信濃を完全に制圧、駿河の今川義元、関東の北条氏康と「甲相駿三国同盟」を締結しました。

 

晴信は、翌天文24年(1555)、後顧の憂いを絶ち、万全の態勢で北信濃制圧を目指し、甲府を出陣しました✨

 

晴信は、軍師山本勘助と調略術を用い、以前から長尾家の家臣で、恩賞に不満を持っていた、長尾家の猛将「北条高広」に反乱を起こさせます⚔️

 

その間に晴信は、信濃善光寺別当(実質的な領主)栗田永寿を臣従させ、善光寺以北の村上氏をはじめとする反抗的な土豪に圧力をかけます😱

 

長尾景虎は、北条高広を降伏させたあと、信濃善光寺へ向け、春日山を出陣、犀川と裾花川の合流地点にあたる山に「葛山城」を築き、布陣しました🐴

 

既に善光寺攻略に出陣していた晴信は、栗田永寿の居城「旭山城」を援護すべく川中島に布陣します🐴

 

景虎も、山を降りて犀川を挟んで両軍の「にらみ合い」が続きました😅

 

 

多少の小競り合いが、あったものの、両軍の「にらみ合い」は、約6ヶ月以上200日間も続きました😰

 

 

甲斐からの長期間にわたる遠征で、疲弊した武田家の雑兵たちの脱走が相次ぎ、武田軍の士気は著しく低下します😢

 

対する長尾軍も加賀の一向一揆勢力が、越中方面に進出の一報が入り、焦り始めていました😓

 

晴信は、駿河の今川義元の仲介を受け、長尾軍との和睦が成立、条件として、犀川以北の北信濃の地を、須田氏などの土豪たちに戻すこと、犀川以南は、武田家が領有することになりました😀

 

首塚②案内板

首塚②

※川中島古戦場跡八幡社境内内にある「首塚」②と案内板…駐車場隣にあった「首塚」と同じく高坂弾正昌信が建立しましたチーン

 

「首塚」は昭和初期まで、他に2基確認されていましたが、道路拡張や市街化で「消滅」していますゲッソリ

 

2基残った「首塚」は、戦国時代の戦争の悲惨さを伝える重要な遺構です真顔

 

大規模な「首塚」を私財を投じて(ある程度武田家の関与もあったと思われます)建立した武田家臣高坂弾正昌信に対し、上杉謙信は深く感銘を受けたと言われています笑い泣き

 

武田信玄死去後、謙信は勝頼宛てに、高坂を仲介して「大量の塩」を送りましたウインク

 

当時、「塩」は貴重なもので「海なし」の甲斐武田家にとっては、「宝」のようなものですちゅー

 

この出来事は「敵に塩を送る」のことわざのはじまりと言われ、謙信の人柄が伝わるエピソードの一つと言えますポーン

 

 

 

  ③川中島の戦い〜第三次〜信玄(晴信)VS謙信(景虎)3度目の激突「再度のにらみ合い」

 

 

弘治2年(1556)、長尾家に「一大事」が起こります😱

 

景虎は、長尾家家臣団の争いごとに嫌気が差し、勝手に「宗心」と号し、出家、春日山城を出ていってしまいました😱

 

宿老長尾政景らが、景虎を説得し景虎は春日山に戻ってきましたが、またしても「一大事」が起こりました😰

 

長尾家重臣「大熊朝秀の反乱」です😰

 

以前に反乱を起こした北条と同じく、恩賞に不満を持っていた大熊は、晴信の調略に呼応します。

 

大熊は、長尾家に反旗を翻し、越中一向一揆勢力と呼応、越後春日山を目指し、進軍しますが、途中で長尾軍に敗れ、甲斐に逃亡します😫

 

大熊は、その後武田家の足軽大将となり、活躍、晴信への恩を生涯忘、信玄、勝頼2代に仕えました。

 

大熊については、武田家滅亡の投稿の際に説明させていただきます🙇

 

翌弘治3年(1557)正月に、晴信は甲斐を出陣、雪で動けない長尾軍の隙を突いて、北信濃葛山城を落城させ、反抗的な土豪落合氏を滅ぼしました。

 

4月に景虎は、春日山を出陣、瞬く間に善光寺周辺を占領します🐴

 

晴信は、一旦退却しますが、北条家重臣北条綱成の援軍とともに、態勢を立て直し、川中島まで進軍します🐴

 

川中島上野原で、両軍の小競り合いが続きますが、第二次と同じくまた約半年間「にらみ合い」が続きました😰

 

第二次と同じく厭戦ムードが、両軍に漂い、武田家、長尾家双方が和睦を模索、室町幕府13代将軍足利義輝の仲介を受け、和睦し、両軍は撤退しました😃

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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