真田幸村横断幕

※上田城内真田神社にある真田幸村公「戦国無双」横断幕…イケメン「幸村」公!若い頃はこんな感じのイケメンだったと思いますが… ちゅー

大坂の陣での本当の幸村は「小っちゃい50前のおっちゃん」でした チーン

イメージをぶち壊してスミマセン チーン

 

 

 

 

上田城に行きました!3️⃣ 100名城No.27

 

 

上田城には、今回初めて行きました。

 

上田城は、パット見平山城に見えましたが平城に属します。

 

上田城は、「赤の真田六文銭」を戦国の世に知らしめ、「表裏比興の者」として、一介の武田家家臣から「大名」にのし上がり、真田信之、信繁(幸村)を育てた「戦国の謀将」「家康が山県昌景とともに、最も怖れた武将」真田昌幸が建てた城です😯

 

昌幸の上田城の建物は、徳川秀忠により破却されましたが、「センゴク権兵衛秀久」の息子忠政により、今残る南櫓、北櫓、西櫓(いずれも長野県宝)が残り、方形の本丸他、真田が造った縄張り〜仙石期の遺構がほぼ完存する城であることがよくわかりました😃

 

 

 

真田幸村大兜レプリカ

※上田城内真田神社にある真田幸村公の真っ赤な大兜レプリカ…巨大な「真田六文銭」を前立にあしらった大兜ですが… デレデレ

大坂の陣では、徳川方に甥の信政、信重が真田六文銭「赤備え」で参戦しており、大坂方の幸村軍の兜の前立は「武田菱」だったという「伝説」もあります 笑い泣き

「大坂夏の陣」では、幸村は家康の本陣まで肉薄します ムキー

家康は、幸村が来たとは思っておらず(当時の家康は、現代人でいえば100歳近くのご高齢になっており、幸村の赤の武田菱兜を見て、少々ボケ?(スイマセン)てたかもしれませんが…ゲロー

家康は、若い頃三方ヶ原の敗走中、武田軍の山県隊に追いかけられ、恐怖のあまり漏らし(スイマセン)た「山県昌景」と幸村を見間違い、「うわぁ!山県じゃ!!ヒィィ!!!」と言って床几を蹴飛ばして、逃げようとしたという「伝説」がありますゲッソリ

 

 

 

  上田城(真田神社) 日本100名城 No.27

 

上田城(上田城址公園、真田神社)は、北陸新幹線JR上田駅から徒歩約10分のところにあり、現在本丸には、「真田神社」が建っています⛩️

 

上田城には、南側に広い上田城址公園駐車場があります(無料)🚗

 

上田城入城料は無料です。

 

城内には、「上田市立博物館」「北櫓、南櫓、西櫓」「東虎口復元櫓門」があり、見たい方は、共通券おとな500円(学割などあり)です。

 

平日にも関わらず、多くの人がいました

 

二重櫓「西櫓」「北櫓」「南櫓」が現存しています🤩

 

では、引き続き上田城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

 

真田神社案内板

真田神社全景

※上田城内真田神社全景と案内板…江戸時代を通じ、「お社」はありましたが、「真田神社」ではなく、「松平神社」でした ニヤニヤ

 

 

 

 

 

  ⑦上田城の歴史〜真田信之時代

 

 

「関ヶ原」が終わり、真田信之は本領安堵されます😄

 

父、昌幸、弟、幸村は、高野山九度山へ蟄居、「戦国の謀将」真田昌幸はそこで無念の想いを抱きながら、生涯を終えます😭

 

真田信之は、上田城主となりますが、秀忠の命により、昌幸時代の建物は破却され、信之は三の丸に簡素な御殿を建て、居城は沼田城におき、上田城は城番に任せ、年に数回訪れる程度でした🤔

 

 

東虎口櫓門、南櫓

※上田城現存南櫓と東虎口櫓門…南櫓、東虎口櫓門とも明治初期まで「存在」していましたが、南櫓は北櫓とともに売り払われ、櫓門は取り壊されました ポーン

南櫓は、北櫓とともに昭和24年に買い戻され、元の位置に移築し直され「帰って」きました 真顔

東虎口櫓門は、良好な「古写真」が数点残っていたため、平成5年忠実に「木造復元」されました ウインク

 

 

 

  ⑧上田城の歴史〜現在残る上田城を造った「仙石忠政」時代〜幕末

 

 

真田信之は、元和8年(1622)松代へ転封となり、小諸から「センゴク権兵衛」の息子仙石忠政が上田藩主となります✨

 

忠政は、破却されたままの上田城改修を幕府から許されたため、寛永3年(1626)から普請が開始されました。

 

忠政は、真田時代の縄張りを維持しつつ、天守は造らなかったものの、7棟の二階櫓、2棟の櫓門、土塀、など(御殿は築かれず、真田信之時代の三の丸御殿を改修し、使用していたようです)を造っています。

 

さらに忠政は、二の丸を大拡張、二重の堀を巡らした今残る上田城を築きましたが、途中で死去、工事は中断され未完成のまま、仙石家は転封することとなります🏯

 

仙石家は、3代藩主政明の頃、但馬出石へ転封、入れ替わりで出石から藤井松平忠周が5万8千石で入封、7代忠礼で幕末を迎えました😊

 

 

東虎口櫓門、北櫓

※上田城現存北櫓と東虎口櫓門…北櫓も明治初期まで「存在」していましたが、南櫓とともに売り払われ、2棟の建物は「連結」され、遊郭の貸座敷として使用されました チーン

北櫓は、南櫓とともに昭和24年買い戻され買い戻され、元の位置に移築し直され「帰って」きました 真顔

 

 

 

  ⑨上田城の歴史〜明治廃城令〜現在

 

明治時代を迎え、明治6年(1873)の廃城令により、2棟の櫓門、土塀、7棟あった二重櫓は、北櫓、南櫓、西櫓を残し、取り壊されました。

 

3棟残った二重櫓も、北櫓、南櫓は、上田城近くの遊郭に6円(約12万円〜20万円)ほどの「はした金」で売り払われました😭

 

西櫓は、築城当初から現在の位置に残っていますが、北櫓、南櫓とおなじく6円で売り払われます。

 

西櫓及び本丸城地を買い取ったのは、丸山平八郎直義という地元の資産家で、解体し丸山家に移築する予定だったようです。

 

建物が西櫓以外ことごとく無くなり、荒れ果てた上田城址を見た、上田最後の藩主松平忠礼公は、元藩士とともに藤井松平家の菩提寺へ向かい、先祖の墓の前で跪き、泣き伏したようです。

 

忠礼公の様子を見ていた、元藩士らは、丸山氏に直談判し、丸山氏も忠礼公の嘆きように感銘を受けたそうです😯

 

丸山氏は、無償で西櫓を忠礼公に返還、忠礼公は西櫓を「徴古館」(上田市立博物館の前身)という資料館にして、松平家伝来の武具や甲冑、刀剣類などを展示し、市民に開放しました🤔

 

北櫓、南櫓は、上田市内の遊郭に売却され、明治11年に2基の櫓は連結され、それぞれに「金秋楼」「万豊楼」と名付けられ貸座敷として利用されていました😅

 

遊郭は、昭和4.5年頃に廃業、上田市に一旦寄贈されます。

 

しかし、上田市は移築費用に多額の予算が必要であることから、移築を断念、2基の櫓は放置されたままとなります😢

 

昭和16年に、東京の料亭が2基の櫓を買い取る話が出ます。

 

そこで立ち上がったのが、上田市の当時の市長浅井敬吾氏、上田商工会議所副会頭飯島新三郎氏でした。

 

浅井市長、飯島氏は「上田城址保存会」を結成、市民の寄付を集め、自ら銀行に借り入れの申し込みをし、1800円(約1200万円)で2基の櫓を買い戻しました🤩

 

北櫓、南櫓の、移築作業は、昭和18年から行われ、昭和24年に無事落成し、現在に至ります。

 

 

 

上田城の貴重な城郭建築遺構、北櫓、南櫓、西櫓は、先人たちの「残したいと思う心」、努力があったからこそ、現在の我々は、見ることが出来るのを忘れてはいけないと思いました。

 

 

 

 

次回は、僕が見てきた上田城址の遺構をご紹介したいと思います

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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