上田城址公園案内図

※上田城跡公園案内図…かつて上田城の南側は「広大な沼地」が広がっていました ニヤニヤ

今は、駐車場、芝生公園になり「市民の憩いの場」となっています 真顔

 

 

 

 

上田城に行きました!1️⃣ 100名城No.27

 

 

上田城には、今回初めて行きました。

 

上田城は、パット見平山城に見えましたが平城に属します。

 

上田城は、「赤の真田六文銭」を戦国の世に知らしめ、「表裏比興の者」として、一介の武田家家臣から「大名」にのし上がり、真田信之、信繁(幸村)を育てた「戦国の謀将」「家康が山県昌景とともに、最も怖れた武将」真田昌幸が建てた城です😯

 

昌幸の上田城の建物は、徳川秀忠により破却されましたが、「センゴク権兵衛秀久」の息子忠政により、今残る南櫓、北櫓、西櫓(いずれも長野県宝)が残り、方形の本丸他、真田が造った縄張り〜仙石期の遺構がほぼ完存する城であることがよくわかりました😃

 

 

真田十勇士記念撮影版

※真田幸村と十勇士記念撮影看板…どこの観光地にもありますが、顔出しパネル撮影看板です ウインク

家族連れのお子様が顔を出して、母ちゃん(ママ)に記念撮影をしてもらってました ニヤニヤ

オッサン(僕)も調子に乗って「写真撮ってくれえ」と奥さんに頼みました…嬉しかったです ゲロー

「真田十勇士」は作家の故池波正太郎先生の「真田太平記」にも出てきますが、中学生のとき読んだ僕にとって「真田幸村公」は「武田信玄公」と並ぶ僕のヒーローでした 真顔

 

 

 

 

  上田城(真田神社) 日本100名城 No.27

 

上田城(上田城址公園、真田神社)は、北陸新幹線JR上田駅から徒歩約10分のところにあり、現在本丸には、「真田神社」が建っています⛩️

 

上田城には、南側に広い上田城址公園駐車場があります(無料)🚗

 

上田城入城料は無料です。

 

城内には、「上田市立博物館」「北櫓、南櫓、西櫓」「東虎口復元櫓門」があり、見たい方は、共通券おとな500円(学割などあり)です。

 

平日にも関わらず、多くの人がいました

 

二重櫓「西櫓」「北櫓」「南櫓」が現存しています🤩

 

では、上田城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

 

尼が淵と石垣案内板尼が淵と石垣

※上田城尼が淵石垣案内板…真田昌幸は、南の断崖絶壁と千曲川の支流が流れ広範囲に湿地帯が広がる「尼が淵」を利用し、城を築きました ニヤニヤ

千曲川は長雨の際には、必ず「大洪水」が起こり、尼が淵の断崖は少しずつ削られ、崩落の危機が迫っていました ゲッソリ

上田藩藤井松平2代藩主忠愛公は、崩落を防止するため、仙石時代から築かれていた石垣を補修、南側を流れる千曲川支流の流路を変える工事を行い、尼が淵を「空堀」にしました 真顔

 

 

  ①上田城の歴史〜戦国時代(武田家滅亡→真田昌幸の独立、上田城築城)

 

 

戦国最強を誇った「甲斐源氏武田家」が天正10年(1582)織田・徳川連合軍の「甲州征伐」によりあっけなく「滅亡」します😭

 

信玄から「我が両眼」と呼ばれ、長篠、設楽原の戦いで兄2人を失い、「真田家」の当主となった真田昌幸は、武田家重臣のひとりとなります😊

 

昌幸は、甲州征伐時、勝頼を迎えるべく居城の上州岩櫃にいて準備を進めていましたが、武田滅亡を聞き、勝頼が天目山田野にて、非業の死を遂げたことを嘆き、天目山の方向に向き、泣き崩れたと言われています😭

 

昌幸は、恩人であり主君でもあった信玄、勝頼への想いを抱きながら「最強の武田家を継ぐもの」として、生き残ることを決意、一旦は、織田家臣滝川一益に降伏します😔

 

武田家滅亡2ヶ月後、「本能寺の変」が起こり、信長を失った織田軍は大混乱します😨

 

滝川一益は、「神流川の戦い」で北条軍に大敗、この機に乗じて昌幸は、「大名としての独立」を決意、「天正壬午の乱」が発生したころ、上州、信州の真田本貫地周辺の武田旧家臣団の取り込みを図り、自身の勢力拡大に動きます🐴

 

「新たな旧武田家臣団」の盟主となった昌幸は、上州沼田、岩櫃、信州真田本貫地周辺の領土を奪回、「戦国大名」として、独立を果たします😁

 

昌幸は、最終的には、天正壬午の乱で甲信両国を支配することとなった徳川家康に一旦臣従しました😀

 

そして、昌幸は天正11年、越後の上杉家に対抗すべく、新たな居城として、要衝の地、上田に築城を開始します⛏️

 

 

 

南櫓下石垣

南櫓下石垣案内板

※上田城南櫓下石垣…仙石時代からあった石垣を、上田藩主藤井松平家2代忠愛が尼が淵の脆い岩盤を保護するため、3段構成に石垣を補強しました 真顔

今でも見上げたら南櫓が眼前に迫り、攻め手に相当の「威圧感」を感じさせる「石垣」です ポーン

 

 

  ②上田城の歴史〜第一次上田合戦(真田昌幸、家康を震え上がらせる)

 

真田昌幸は、北に千曲川、沼地、南に崖のある要衝「上田」の地に「松尾城(のち上田城と名を改める)」を築き、城下町を誘致、上田は大いに繁栄します😍

 

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉VS織田信雄、徳川家康が激突します⚔️

 

昌幸は、「上杉への抑え」を理由に上田城に留まり、上州へ出兵、沼田、吾妻郡、小県郡を完全に掌握、小大名ながら北条氏を相手に戦い、完全に「独立」しました😃

 

家康は、長久手合戦後、当時同盟関係にあった北条氏の訴えにより、沼田領を、部下の昌幸に北条へ返還するよう命じます🤩

 

昌幸は、家康の命を断固として拒否、「わしは、徳川殿の風下に立つつもりなど、毛頭ない!!!家康のアホ!タヌキ親父!!!(ちょっと現代風に盛ってます)」と反抗、激怒した家康は、鳥居元忠、大久保忠世らに1万1千(後方井伊4千)の兵を与え、「あの小賢しい真田のアホを叩き潰してこい!」と命じます🤬

 

真田は、事前から上杉家宰直江兼続と連携、上杉の援軍を得て7千(真田軍2千、後方支援直江5千)の兵にて対抗します😡

 

これが、第一次上田合戦です⚔️

 

徳川軍は、上田城に立て籠もる、たった2千の真田軍に翻弄されまくり、上杉の援軍が来ると知り、千人以上の犠牲者を出し敗退しました😓

 

昌幸は小大名ながら、「大名」として完全に独立、激怒していた家康とその後も何度か交戦しますが、ことごとく撃退されます。

 

家康は再戦を主張する家臣たちに、「安房(昌幸)のアホめが…!じゃが、幼きときより、信玄公の薫陶を受けたほどのことはある…これ以上の戦いは無用じゃ!無駄に将兵を死なせてはならぬ!」と言い、撤退を命じたそうです🤔

 

 戦国最強を誇った旧武田家臣団で、土屋、依田、保科、柳沢など大名家になった家臣の子孫たちは多くいるものの、武田滅亡後すぐに大名として「独立」したのは、「真田家(真田昌幸)」だけです。

 

 

 

まさに「真の武田信玄の後継者」と言っても過言ありません!

 

 

 

  ③上田城の歴史〜真田昌幸、秀吉に臣従「表裏比興の者」「謀将」として名を馳せる!

 

昌幸は、上杉に断りなく、次男信繁(幸村)を羽柴(のち豊臣)秀吉に人質として送り、豊臣大名として、秀吉に臣従しました😄

 

信繁(幸村)は、秀吉に可愛がられ、秀吉の小姓として、秀吉の天下統一の一部始終を目にし、「武将」として成長します

 

秀吉に「表裏比興のもの」と言わしめた、昌幸の「謀将」としての片鱗を見せつけたのが小田原北条氏征伐(小田原の役)の直接原因と言われる、北条による真田領地への侵攻「名胡桃城」攻め=秀吉「惣無事令」違反です⚔️

 

この名胡桃城事件を契機として、小田原の役が起こり、北条家を滅亡に追い込み、秀吉は関東以北を事実上平定、昌幸は秀吉に「気に入られ」ます😊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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