※武田神社前にある土産物店「かぶと屋」さん…風林火山、信玄グッズ売ってます!
甲州武田家臣団屋敷跡3️⃣
武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)に行ったあと、信玄ミュージアム→家臣団屋敷跡に行きました。
家臣団屋敷跡は、かなり広範囲に点在しており、標柱の看板が立っているだけですが、見れて良かったと思いました😁
歩いて行ったので、とにかく時間がかかったのと、標柱が立っているだけなので、見逃しそうになったのと、武田神社へ帰るのが、微妙に登りなのとで、ヒィヒィ言いながら帰りました😫
武田家臣団屋敷跡
武田氏館(躑躅ヶ崎館)には現在、「武田神社」が建っています⛩️
武田神社には、参拝者用の駐車場が三箇所あります🚗
周辺には、武田家関係の資料、刀剣や甲冑、館跡から発見された遺物を展示している「信玄ミュージアム」、武田氏館を南北に通る道沿いに「武田家臣団屋敷跡」があります😍
今回も、引き続き点在する武田家臣団屋敷跡をご紹介させて頂きます🙇
※三枝勘解由左衛門昌貞(守友)屋敷跡標柱…三枝?誰?
三枝守友は武田二十四将のひとりで、二人の弟も勇猛な武将でした
信玄の側近「奥近習六人衆」のひとりで、土屋昌続、武藤喜兵衛(真田昌幸)らと活躍、「次世代の武田を担うホープ」と期待されていました
⑪三枝勘解由左衛門昌貞(守友)屋敷跡
三枝勘解由左衛門昌貞(守友)屋敷跡
信繁屋敷跡に行ったときに、すでに暗くなってきて、奥さんから
「また今度来たらええやん!もう帰るで!」
と言われ、引き返すことになりました😢
まだ、南には秋山信友、飫富虎昌屋敷跡があります😢
せめて、帰りに三枝、原、内藤の屋敷跡に行こうと思い、信繁屋敷跡を右に曲がって、武田神社まで帰りました😢
だいぶ西になりますが、信玄弟一条信龍屋敷跡もあります。
帰りは、微妙に登りで、ヒィヒィ言ってました(奥さんは、サクサク行ってました😂)。
道沿いのマンションの前に三枝勘解由の屋敷跡の標柱が立っていました。
三枝勘解由は、武田二十四将のひとりで、勝頼時代の武田家若手ホープでした🤔
三枝勘解由は、長篠・設楽原の戦いで二人の弟たちとともに、討ち死にしています😭
三枝勘解由の墓は、調べたら、長篠近く姥ケ懐砦跡にあるようです。
三枝勘解由の生涯については、墓に行ったときに投稿させて頂きますので、宜しくお願いします🙇
※内藤修理亮昌秀(昌豊)屋敷跡標柱…松木堀近くの道沿いにあります
武田二十四将、武田四天王のひとりで、武田信繁亡き後の武田軍「副将」でした
長篠・設楽原合戦で、勝頼最後本陣「天王山」に布陣、勝頼退却の際、殿を務め、勝頼の身代わりとなり、壮絶な討ち死にを遂げました
⑫内藤修理昌豊屋敷跡
内藤修理亮昌秀(昌豊)屋敷跡
三枝屋敷跡の近くに原隼人の屋敷跡があるようなんですが、まわりが、かなり暗くなって、分かりませんでした😢
武田神社を目指し、ヒィヒィ言いながら行くと松木堀(家康が造った堀と言われています)に出て、右にまがると、内藤昌豊屋敷跡の標柱が立ってます。
内藤昌豊は、武田二十四将、武田四天王(後期)のひとりで、武田信繁亡き後、武田軍の「副将」を務めました✨
内藤昌豊は、長篠・設楽原の戦いで勝頼の最後本陣天王山で、殿を務め、踏みとどまり壮絶な討ち死にを遂げました😭
内藤昌豊の墓は、設楽原古戦場の「天王山勝頼最後本陣跡」のほか、甲州市の恵林寺に供養塔、群馬県高崎市に供養塔があるので、行こうと思います😊
内藤昌豊の生涯については、テーマ墓 戦国 な行に掲載させて頂いておりますので宜しくお願いします🙇
⑬行けなかった屋敷跡
武田神社の西側にも複数の家臣団屋敷跡がありますので、また行ったときに報告させて頂きます。
簡単にご紹介しておきます🙇
武田神社西側
真田源太左衛門信綱
山本勘助晴幸
武田神社西北側
小山田兵衛尉信茂
土屋右衛門尉昌続
武田逍遥軒信廉
飫富虎昌屋敷跡周辺に長坂釣閑斎屋敷跡もあるようです✨
以上、武田家臣団屋敷跡をご紹介させて頂きましたが、主要な家臣は、ほぼ武田氏館周辺に屋敷を構えていたようです。
周辺は、完全に宅地化されており、発掘調査が不可能な状態ですが、まだまだ多くの屋敷跡や遺構の発見が期待されます✨
※武田神社前にある土産物店「かぶと屋」さんで買った「桔梗信玄餅」…信玄公が「陣中食」として常に携帯し、好んで食べていた「戦国版スイーツ」です!
⑭桔梗信玄餅
武田神社前には、「かぶと屋」という土産店があります🍡
はじめ、「風林火山グッズ」を探しに入りましたが、「信玄餅」が売っていたので、風林火山グッズと信玄餅を買いました😍
「信玄餅」は、北杜市のメーカーさんの「信玄餅」と笛吹市のメーカーさんの「桔梗信玄餅」の二種類があるようです✨
どちらも、同じような包装と味なので、どちらを買っても一緒なんかな(メーカーさんに怒られそうですが…😅)と思います😊
「信玄餅」は、元々信玄公が好んで食べたという由来のある「陣中食」の一種が起原とされています。
「陣中食」というのは、現代でいう災害時などの「非常食」で、合戦など長期のいくさが予想される時には、必ず出陣時に携帯して、陣中で食べたと言われています🍚
代表的な「陣中食」としては、いわゆる「保存食」が中心で、干飯、味噌玉、餅、干物、漬物などが挙げられます。
もちろん「現地調達」という方法もありますが、武田家に関わらず、他の戦国大名でも、雑兵たちのいくさでの食料の「略奪行為」は、厳罰に処す方針を採っていました🤔
どうしても、戦が想定外長期間にわたる場合、「現地調達」をおこなっていたようですが、武田家は、商人や大庄屋を呼び、食料を買っていたようです💴
「ハラが減ってはいくさはできん」という言葉が現在まで、伝わっているように、戦いにおいて、馬や鎧兜、刀、槍、弓、鉄砲などの「武具」はもちろんですが、「食料」は、それ以上に重要でした😯
武田家だけでなく、多くの大名は、出陣時には、将から雑兵に至るまで、いくさが1ヶ月と想定される場合は、2ヶ月分と「倍」の食料を持たせて、出兵したようです🤔
信玄公は、出陣時、多くの将士たちに主食のコメ類や干物、漬物以外に、甲斐でお盆に食べる「安倍川餅」を改良した「信玄餅」や「酒」を持たせていたと言われています🍡
今、お土産で売っている「信玄餅」は、砂糖入りの小餅にきなこや黒蜜をかけて食べる、戦国版「スイーツ(和菓子)」です🍰
戦国時代も、ほぼ同様の食べ方だったようで、水飴などで柔らかいまま腐らないように加工した餅や乾燥させた小餅を持って、陣中できなこや黒蜜をかけて食べていたようですね😃
このように、旅先の土産物店では、その土地土地の特産品を元にした菓子類が売っています。
その由縁を知るだけでも、意味があると思いますので、僕は旅先でお菓子や名産品を見つけたら、由縁を聞いてみるようにしています(知らないで売っている人からは買いません!!ややこしいこと言うなぁとおもわれそうですが…😅)。
長くなり申し訳ありません😓
おわります🙇
最後まで読んでいただきありがとうございます🙇