※馬場美濃守信春(信房)屋敷跡標柱…信玄公亡き後、勝頼を支えた武田家の「重鎮」筆頭、通称「馬場のオジキ」、武田二十四将、武田四天王のひとりです
長篠・設楽原の戦いで勝頼を逃がすため、殿を引き受け、橋を燃やしてその前に布陣、煙管を吹かしながら、悠々と戦い討ち死にしました
甲州武田家臣団屋敷跡2️⃣
武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)に行ったあと、信玄ミュージアム→家臣団屋敷跡に行きました。
家臣団屋敷跡は、かなり広範囲に点在しており、標柱の看板が立っているだけですが、見れて良かったと思いました😁
歩いて行ったので、とにかく時間がかかったのと、標柱が立っているだけなので、見逃しそうになったのと、武田神社へ帰るのが、微妙に登りなのとで、ヒィヒィ言いながら帰りました😫
武田家臣団屋敷跡
武田氏館(躑躅ヶ崎館)には現在、「武田神社」が建っています⛩️
武田神社には、参拝者用の駐車場が三箇所あります🚗
周辺には、武田家関係の資料、刀剣や甲冑、館跡から発見された遺物を展示している「信玄ミュージアム」、武田氏館を南北に通る道沿いに「武田家臣団屋敷跡」があります😍
今回も、点在する武田家臣団屋敷跡をご紹介させて頂きます🙇
⑥馬場美濃守信春屋敷跡
馬場美濃守信春(信房)屋敷跡
板垣屋敷跡から、南へ向かって武田通りを少し歩いたら通り沿いに馬場信春屋敷跡がありました。
通り沿いに(バス停があったような記憶があります。)標柱が立っていました😯
馬場信春は、武田二十四将のひとりで、武田四天王(後期)のひとりにかぞえられ、武田家の筆頭家老でした🤔
馬場信春は、長篠・設楽原の戦いで殿を務め討ち死にしています😭
馬場信春の墓は、調べたら、長篠と設楽原に一箇所ずつ、山梨県北杜市の自元寺にあります。
長篠にある馬場信春の墓に行きましたので、生涯については、テーマ戦国 墓 は行「馬場信春の墓」に掲載させて頂いておりますので、宜しくお願いします🙇
甲州市恵林寺にも供養墓があるようですので必ず行こうと思います😊
※山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡標柱…個人的に最も好きな戦国武将のひとりです
信玄亡き後、勝頼を支え、馬場と並ぶ筆頭家老で、武田二十四将、武田四天王のひとりです
武田家最強軍団「赤備え」を率い、三方ヶ原では逃げる家康を追いかけ、それを見た家康は怖さのあまり大小を同時に漏らしながら(スミマセン)、泣きながら逃げたそうです(どうする家康では、全くスルーされてますが・・・
長篠・設楽原では9度の突撃の末、全身に銃弾を浴び軍配を口に咥えたまま絶命したまさに戦国大名武田家の「カリスマ」武将でした
⑦山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
馬場の屋敷跡を左に曲がって二本目の道を右に曲がって、南へ下ると、左手に(学校だと思います)山県昌景の屋敷跡の標柱が立ってます。
山県昌景は、武田二十四将、武田四天王(後期)のひとりで、「赤備え」を率いる武田「最強」の武将です✨
山県昌景は、長篠・設楽原の戦いで織田鉄砲隊の一斉射撃の銃弾を受け、壮絶な討ち死にを遂げました😭
山県昌景の墓は、設楽原古戦場の「山縣塚」のほか、甲州市の天澤寺、恵林寺に供養塔、山梨市の川浦温泉にある有名な旅館「山縣館」に供養塔があるので、行こうと思います😊
山県昌景の生涯については、テーマ墓 戦国 や行に掲載させて頂いておりますので宜しくお願いします🙇
※小畠山城守虎盛、小幡豊後守昌盛父子屋敷跡標柱…また、誰?と思われるでしょう
父子なのに微妙に姓が違うのはなぜ?と思われるでしょう
後述していますので、読んでいただけるとありがたいです
小畠虎盛、小幡昌盛は武田二十四将のひとり、父虎盛は武田五名臣のひとりです
⑧小畠山城守虎盛、小幡豊後守昌盛父子屋敷跡
小畠山城守虎盛、小幡豊後守昌盛屋敷跡
山県屋敷跡から南へ下ると左手に小畠虎盛、小幡昌盛父子の屋敷跡の標柱が立っています。
小畠虎盛、小幡昌盛父子はともに、武田二十四将のひとりにかぞえられています。
なぜ、父子なのに読み方は一緒ですけど、漢字が違うのか不思議ですよね?
同じ上州の「小幡」と分けるため「畠」を名乗ったとかいろいろ説は、ありますが、虎盛の父日浄は「半僧半俗」の僧侶で遠州出身で諸国を行脚していた「半分僧侶、半分素浪人」で、甲斐の辻で説法をしているときに、信虎の目に留まり仕えるようになったと言われています。
小畠虎盛のような代表的な例として「斎藤道三」がいますが、いわゆる素浪人の父日浄を持つ「二代目」です。
すこぶる武勇に優れていたため、「甲州小幡氏」の名跡を名乗るよう、信玄から許されていたようです。
小畠虎盛、小幡昌盛の墓は、調べた限りでは、今のところ不明です。
甲府市の妙遠寺が甲州小幡氏の菩提寺のようなので、もう少し調べようと思います✨
小畠虎盛、小幡昌盛の生涯については、墓(妙遠寺)に行ったときに紹介させて頂きます🙇
※多田三八郎(淡路守満頼)屋敷跡標柱…また、誰?です
出自不明(わしは摂津多田源氏の一族やとか美濃源氏土岐氏の一族やとか言ってたようです、諸説あります)の何者かわからない人で代表的な例として、わしは、土岐氏の一族の明智や!と「自称」していた明智光秀のような「素浪人」ですが、非常に武勇に優れ、信虎、信玄に仕えました
武田二十四将、武田五名臣のひとりです
⑨多田三八郎(淡路守満頼)屋敷跡
多田三八郎(淡路守満頼)屋敷跡
小幡、山県を引き返して馬場に戻り、武田通りを南へ向かうと右手に多田三八郎屋敷跡の標柱が立っています。
多田三八郎は、武田二十四将、武田五名臣のひとりにかぞえられています。
多田三八郎の墓は、調べた限りでは、諏訪郡富士見町の常昌寺(先達城址)にあるようです。
多田三八郎の生涯については、墓に行ったときに紹介させて頂きます🙇
※武田典厩信繁屋敷跡標柱…信玄の実弟、幼いころから賢く、武勇に優れ、誰もが憧れる武田家の副将、武田二十四将のひとりです
真田昌幸は次男の名を典厩の武勇にあやかって「信繁」(真田幸村の本名)としたほどです
典厩は川中島で討ち死にしていますが、仮に彼が信玄より長く生きていれば・・・と思ってしまいます
⑩武田典厩信繁屋敷跡
多田屋敷跡から南(武田通り)をだいぶ下ったところにバス停があり、その隣に武田信繁の屋敷跡があります。
武田信繁は、武田二十四将のひとりで、晴信(信玄)の実弟で武田軍「副将」でした。
信繁は、五回にわたる「川中島の戦い」で有名な「一騎打ち(謙信が信玄の本陣へ、単身突撃し、謙信の刀を信玄が軍配で受け止める伝説のシーン)」が起こった第四次川中島の戦いにも参戦しています(このとき、討ち死にしています😓)。
武田信繁の墓は、川中島の近くの典厩寺にありますので、行ったときに武田信繁の生涯について紹介させて頂きます🙇
長くなり申し訳ありません😓
続きます🙇
最後まで読んでいただきありがとうございます🙇