武田二十四将「武田軍の副将」内藤昌豊公の墓
戦国武将の墓・供養塔シリーズ
戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。
1️⃣戦国時代
応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)
2️⃣安土・桃山時代
織田政権(天正元年1573年〜天正13年)豊臣政権(秀吉関白宣下天正13年〜慶長8年1603年)
3️⃣江戸時代
徳川政権(家康征夷大将軍宣下慶長8年1603年〜大坂の陣豊臣家滅亡、慶長20年1615年)※慶応3年1867年大政奉還で、江戸時代は幕を閉じます
この3時代に活躍した大名、武将の墓、供養塔を調べ、訪問した記録を残したいと思い、このシリーズを立ち上げます。
設楽原に散った武田四天王 内藤修理亮昌豊公
内藤修理亮昌豊・・・1522年(大永2年)〜1575年(天正3年)
設楽原には、長篠・設楽原の戦いで討ち死にした武田軍武将の墓が点在しています。
山縣塚から設楽原歴史資料館に戻り、また資料館によって小幡の墓について資料館の方と話したあと、内藤の墓は幼稚園の裏にありますよと言われましたので、行きました😁
幼稚園の裏に入ると広い更地があり、保護者の方の車が何台か止まっていました。
正面に勝頼本陣跡の巨大な石碑が建っており、その奥に内藤昌豊と横田兄弟の墓がひっそりと建っています🙏
①いろはかるた看板〜内藤昌豊の出自と活躍
内藤昌豊は、武田四天王、武田二十四将のひとりに数えられます🤩
設楽原古戦場にある看板
内藤の 陣地も墓も 天王山😭
内藤昌豊も、どちらかと言うとマイナーな武将で内藤昌豊?誰?と殆どの方に言われます😂
内藤昌豊は、武田家重臣工藤虎豊の次男で、はじめは工藤源左衛門と名乗っていました。
工藤虎豊は、今川家の家督争い(玄広恵探と義元)で敗れた恵探方の者の処刑を命じた武田信虎を諌めたところ、信虎の怒りを買い、斬られます😢
昌豊は、兄の昌祐と逃げ、諸国を流浪していましたが、信虎を追放した晴信(信玄)に呼び戻されます。
昌豊は、知略、武勇に優れ、信玄弟で武田軍副将の信繁が、川中島で討ち死にしたあとは、昌豊が武田軍副将となり、主に本陣のとなり、あるいは、前に布陣し本陣を守る役目を担っていました😯
※内藤昌豊公供養碑…大正期に牧野文斎により建てられました…ブレブレで見苦しくスミマセン 昌豊公申し訳ありません
②内藤昌豊の最期〜長篠・設楽原の戦い
1575年(天正3年)4月、武田勝頼は、15,000の大軍を率いて、長篠城攻略に向かいました。
長篠城を3ヶ月間にわたり包囲するも、長篠城は落城しませんでした。
勝頼は、織田、徳川連合軍が設楽原に着陣し、決戦の準備をしていることを知り織田、徳川との決戦を決意します。
昌豊は、馬場、山県、原、土屋らと、地の利がないと合戦に猛反対し、撤退を主張します😠
しかし、勝頼は織田・徳川を叩くチャンスは二度と来ないかもしれないので、「御旗・楯無(武田家の家宝)」の前で誓うと言って聞きませんでした😡
こうして、設楽原で昌豊は、武田軍中央勝頼本陣の隣に小幡、安中党を相備えとし、自らは、兵約1,500を率い布陣、開戦後左翼に移動し、徳川家臣本多忠勝、石川数正隊と戦います。
昌豊は、徳川最強の本多、石川隊を後退させるほど奮戦していましたが、山県隊の使者から昌景が討ち死にしたことを知ります😫
内藤は、武田軍が総崩れになることを予想し、小幡、安中衆に退却するよう指示し、自らは勝頼本陣へ向かいました🐴
昌豊は、馬場信春とともに、勝頼に退却するよう説得しますが、勝頼は突撃すると言って聞きません😡
馬場に一喝され、勝頼は退却を決め、合図の法螺貝を吹きますが、時既に遅く織田の追撃隊が迫ってきたため、昌豊は死を覚悟します😢
勝頼を馬場とともに退却させたあと、「大」の旗を持ち、殿として、横田兄弟と本陣に踏みとどまり、奮戦の末、討ち死にしました😭
享年53歳😭
③内藤昌豊の子孫たち
昌豊の死後、内藤隊は保科正俊の次男昌月(まさあき)が婿養子となり、引き継ぐことになります。
昌月は、箕輪城主として、小幡信貞とともに西上野衆の再編に努め、北条氏と戦っています。
昌月は、武田家滅亡後、信濃から逃げてきた父正俊、兄正直と箕輪城に籠城します😡
のち、織田家臣滝川一益に投降しますが、本能寺の変後起こった「天正壬午の乱」に乗じて、父と兄に協力して信濃高遠城を奪還します😃
父正俊と兄正直は徳川家康に仕え、のちの会津藩松平(保科)家の家祖となります✨
昌月は、北条氏に仕え、引き続き箕輪城主となっていましたが、北条氏はその後滅亡、長男直矩は、保科家の家老となりました。
次男の信矩は、井伊直政の家臣となり西上野衆の一部を率いて「井伊の赤備え」の一角を担います。
こうして、昌豊の血統は後世に続いていきました😀
※信玄祖師堂跡いろはかるた看板「冥福を 祈る武将の 慰霊牌」…内藤墓所から土屋墓所の道中にあります。
大正期に牧野文斎氏が私費を投じて武将たちの位牌を作り、お堂を建設しました。
昭和32年に祖師堂は廃され、現在牧野氏が作られた位牌は、富士市の本照寺にあるようです。
④内藤昌豊の逸話
有名な「甲陽軍鑑」に以下の逸話が載っています😍
昌豊は、知勇兼備の武将として、山県昌景に
「古典厩(信玄弟信繁)、修理亮(昌豊)こそ、万事相整う真の副将なり」
と称賛されたそうです🤩
昌豊は、生涯信玄から一度も感状をもらっておらず、このことについて信玄は、
「修理亮(昌豊)ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」(昌豊ほどの器量の持ち主ならば、手柄を立てて当然だ)
と言ったそうです🤔
信玄の言葉に対し昌豊は、
「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもの。いたずらに個の手柄にこだわることなど小さきこと」(合戦の勝利は、大将(信玄)の器量によるものだ。自分が挙げた手柄など大したことはない)
と返したそうです🤔
内藤昌豊公は、「武田軍最強の副将」であったことを改めて感じました😄
長くなり申し訳ありません🙇
最後まで読んでいただきありがとうございます🙇