駿府城天守台発掘現場金箔瓦出土地点

※天正期天守台横の堀に大量の金箔瓦が積み重なった状態で発見されました。家康が慶長Ⅱ期天守台を造る過程で破却され投棄されたようです。

 

 

 

 

駿府城に行きました!パート4️⃣

 

 

 

 

  駿府城天守台発掘調査現場「きゃっしる」パート4️⃣ 安土桃山時代 中村一氏編

 

 

豊臣大名中村一氏慶長1期天守

 

武田家滅亡、本能寺の変を経て、徳川家康は駿府城を居城とし、天守を築きました。

 

秀吉は、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経て、事実上織田政権の後継者となります。

 

徳川家康は、信長次男信雄とともに、秀吉に対抗しますが、小牧、長久手の戦いを経て、秀吉に臣従することになります。

 

秀吉臣従後も、引き続き駿府城を本拠地としていましたが、小田原の役後、北条氏が滅亡、家康は空白となった関東地方への転封を秀吉から命じられ、不満を抱きながらも江戸城を築城し関東へ移ります。

 

家康関東入封後、旧領三河、遠江、駿河、甲斐、信濃には秀吉家臣たちが大名となり、治めることになりました。

 

秀吉は、東海道、中山道を抑える家康を警戒しており、信頼できる自らの家臣を家康の旧領に配置したんですね。

 

駿府城には、秀吉が織田家の武将で近江長浜城主の頃から仕えていた中村一氏が駿河14万石の大名として、駿府城主となりました。

 

2018年(平成30年)に天正期天守台が発見された横の溝(堀)から大量の金箔瓦が出土しました。

 

この金箔瓦は、秀吉の時代に多用された瓦であり、小和田先生がユーチューブで「金箔瓦は、家康関東入封後、秀吉の援助を受けた中村一氏により、家康が建てた天正期天守の瓦を金箔瓦に葺き替え、改修を行ったと考えられます」とおっしゃられていました。

 

家康は、関東入封後建てた江戸城天守は、簡素な造りであったらしく、秀吉のやり方に倣って駿府城に金箔瓦を葺いたとは考えにくいです。

 

家康はキラキラの金箔瓦は、それほど好きではないようで、のちに家康が建てた城は銅板葺きが多いです。

 

中村一氏は、秀吉好みの金箔瓦に駿府城天守を葺き替え改修を行い、出土した金箔瓦は中村時代のものであると考えられます。

 

一氏が改修した天守が「慶長1期天守」と呼ばれています。

 

秀吉死後、関ヶ原の戦いで家康は勝利し、天下人の地位を確固たるものとします。

 

関ヶ原後、駿、遠、三、甲、信の家康旧領5カ国に配置された大名はことごとく転封され、そのあとは、家康直轄領もしくは家康家臣の領国となりました。

 

関ヶ原前に中村一氏は亡くなり、息子の一忠が駿府城にいましたが、伯耆米子へ転封となり、家康異母弟と言われる内藤信成が駿府城主となりました。

 

 

慶長期天守想像図

※慶長Ⅱ期天守想像図…巨大な五層の大天守の前に小天守を連結、各隅櫓を多聞櫓で繋いで外周に堀を巡らせ独特の天守曲輪を形成していたようです。

 

 

慶長期天守台案内板

※慶長Ⅱ期天守台案内板…天正期天守台を取り込み造られています。

 

 

 

  駿府城天守台発掘調査現場「きゃっしる」パート4️⃣  家康大御所時代編

 

徳川家康大御所時代慶長Ⅱ期天守

 

徳川家康は、慶長10年(1605年)に将軍職を三男秀忠に譲り、自らは隠居し、「大御所」となります。

 

家康は、隠居地を駿府城に定め、駿府城大改修を天下普請で行いました。

 

慶長期天守台刻印石材

※慶長Ⅱ期天守台に使われた石垣の石材…このほかにも刻印された石垣が大量に見つかりました。

 

駿府城天守台北辺

 

駿府城天守台北辺

※慶長Ⅱ期天守台…発掘の際に石垣が12m分崩されていることがわかりました。

 

 

慶長11年(1606年)から改修が始まり、火災などで工事が中断するも、慶長15年(1610年)巨大な大天守が完成しました。

 

この天守が、「慶長Ⅱ期天守」と呼ばれています。

 

ガイドの方から、残っていた文献や設計図に基づいた想像図を見せて頂きました。

 

大天守は、5層7階建てで瓦は5層目が銅板葺きで、高欄を巡らし、天気の良い日は富士山がよく見えたようです。

 

三層の小天守を連結し、各櫓を多門櫓で繋ぎ、天守曲輪を形成し外周に堀を巡らせていたようです。

 

基本構造は、現在残っている名古屋城のようなタイプと言えます。

 

発掘された天守台は、天正期天守台を取り込んで造られており、大量に投棄された金箔瓦からも、徹底的に豊臣時代の痕跡を消そうとした家康の姿勢が見受けられます。

 

駿府城天守台発掘現場は、パッと見でははっきり言って良くわかりません(城が好きな方はある程度分かると思いますが😅)。

 

ガイドの方のおかげで、すごくイメージが湧きました。

 

きゃっしる資料館開館中は、ほぼ常駐されていますので、ガイドをお願いすると、心良く応じてくださいます。

 

取り壊された駿府城天守台案内板

 

取り壊された駿府城天守台残石

※慶長Ⅱ期天守台が崩され、堀に放り込まれていたのを発掘し、積み上げています。今後何年かかるか分かりませんが積みなおしかつて存在した大天守台を復活させたいとおっしゃっていました。

 

 

最後に、崩された天守台の石垣を見て思ったことは、新しい時代になると、前の時代のものは徹底的に破壊される………

 

何度もそういった遺構をみて、悲しくやりきれない思いをいだきました。

 

駿府城には堀や石垣が残り駿府城公園として、市民の憩いの場となっています。

 

これからも、在りし日の徳川の時代を伝えていってほしいと思いました。

 

 終わりです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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