先週は
母の日だったから🌷
昨夜
ふと、暫くぶりに
実家の一人暮らしの母に電話をしたら
📞
母は
「今、『ローマの休日』を
(テレビで)観てるところ♪」
ということで
「じゃあ映画が終わる頃
また電話するね」
と私は伝え
私もテレビを付けて📺
ちょうどクライマックスの
『ローマの休日』
最後から15分程を
観ることにした📺←👀
私はこれまでに
『ローマの休日』を
映画でも舞台でも
何度も観ているけど💖
クライマックスの
たった15分だけを
いきなり観ても
観るなり直ぐに、映画に意識が集中し
最後まで観入ってしまうなんて
それは
この作品の秀逸さだと思った
そして、私は
映画に
意識が完全に集中しているのに
物語から感じることと平行して
まるでその物語とは関係のない
私の過去の出来事を2つ、思い出し
そのことも同時に考え始めて
たった15分間の映画鑑賞の間に
沢山の思いが
私の内側に湧いたり
沢山の思考に
ふけったりした♪
↑
こうした現象って
私が思うに
やはり
その作品の秀逸さが
成せる業(わざ)に思う。
その意味は
・映画であれ
・舞台であれ
・本であれ
・絵画等、様々な芸術作品であれ
・もしくは人々のブログ記事であれ
その作品の周波数が高いと
それに触れた人は
自分の内側から
沢山の何か(=思い)が湧くのだと
私は思う
それって
つまり
その作品を通して
様々な自分のカケラと出会うことになり
(=自分を知ることに通じて)
その現象が起きると
見応えのある
読み応えのある
触れ甲斐のある
感動作品♥️
って、なるんだと思う
『ローマの休日』は
ストーリー自体は
すごくシンプルなのだけど
作品の全体から醸し出される
エネルギーの高さを
私は、いつも感じる
だから
長い時を経ても変わらずに
人々の心に響く
永遠の名作となっているのだと思う💖
名作って
時が過ぎ
時代が変わり
人々の集合意識が移り変わっても
普遍的な何かがあるから
ずっと生き続けるのだろう♪
私は、昨夜
その最後の15分の間に
何を強く思ったかと言うと
↓
やっぱり絶対❗私は💕
「このワンピース(ドレス)が欲しい💕」
と、また思った↓ ↓ ↓
絶対♥️可愛い
絶対♥️素敵
映画と全く同じドレスは
勿論、売ってなんてないだろうけど
イメージとして似てる物は
案外、普通に
絶対、あると思う♪
↑
こうゆうトキメキって
ザ・生きる喜び
なのだ♪
あと、私は
教育実習に行った時(33年前位)
オードリー・ヘップバーンが着ていた
こちらの格好をして↓
教育実習に行ったりした♪
↑白いブラウスと
腰がきゅっとしてる
Aラインのスカート
学校からは
地味目な
節度ある服装を命じられていたので
スカートは、紺色にしたけど!
あと私は
かつて美容院に
こちらの写真を持っていって↓
「これと同じ髪型にして下さい❗」
って希望したこともあって💕
その結論として
当時の担当美容師さん曰く
「これはカットより
セットの髪型だよ。
同じようにカットして上げることは出きるけど後悔すると思うよ。
やめときな。」
ですって。
髪型がチャーミングというより
オードリー・ヘップバーンが
チャーミングなのよね
最初からそんな真実、知ってます
それはそれとして
私に似合う似合わないではなく
私はただ
アン王女と
同じ髪型にしてみたかったんだもの💖
あと、私は、結婚式に
「こうゆうふうにして下さい
」
って希望を出して、そうして頂いた♪
アン王女と同じ風貌(ルックス)には
勿論、全然、ならないけど
(似て非なるもの?
似てもない非なるもの?)
私は、その結婚式に大満足した次第♪
結婚式なんて
花嫁さんのひとりよがりでいいのだ💖
それで正解なのだ⭕💕
そんなこんなを、私は
あれやこれや思い出したり
様々な思考にふけりながら
映画のクライマックス15分程を
観ていて
なぜか急に
私が
高校1年生の時の出来事を
思い出した
それは
人との価値観の違いを
その出来事とは
↓
放課後、何人かのクラスメイトと
雑誌『non・no』を見ていて
私が
「このモデルさんが着てる赤いワンピース可愛い💕
どこに売ってるのかな?欲しいわ💕」
とかって、何気なく言ったら
岩崎さんというクラスメイトが
鋭い言い方でボソッと
私に
「似合うと思ってるの?」
って言ったのだ‼️
私は、あまりのことに唖然とした😲
唖然とした理由は2コあって
①岩崎さんは普段、穏やかな人物で
人に、こんな辛辣な言葉を言わない印象があった
②私って、好きな服を着たいだけで
自分に似合うか否かは、発想の圏外なことを、この時、自覚していなくて
「似合うと思ってるの?」の視点が
私には、とても斬新だったのだ!
それで唖然としながらも
私が岩崎さんに言ったのは
「好きな服は普通に似合うわよ❗」
だって本当にそうだもん❗
このエピソードから
39年位が経った今
普段は、すっかり忘れていた記憶だけど
脳&魂って
やっぱり
全てを記憶してるのでしょうね。
なぜか急にその事を
『ローマの休日』の
アン王女の
素敵な服装にうっとりしながら
私は、ありありと思い出して
そして、今の私は
その時の“岩崎さんエピソード”を
こう思考した
↓
旧岩崎?財閥の末裔で
普段の生活は
とても豊かなはずなのに
この時、まだ
たった16才だというのに
美しい人が着ている
素敵な服を見ても
“自分には似合わないから
欲しいなんて思うなんて言語道断❗”
っていう
不自由な制限付きの
価値観の持ちだったのでしょうね
なんだかとっても
自分に制限を設けた
手狭な発想の16歳だったのだわ」
って、私は思った なう。
それで
意識を自分に戻し
私は自分のことをよく考えてみた。
それで思ったのは
私って
人は
見張られて育つとどうなるかと言うと
自分不在の
呼吸するようにいつも自分を否定しているエゴキンマン過多な人間に
↑
これは
とても生き難い&生き辛い人生航路となって
人生は四苦八苦の連続なのだけど
そんな中
けれど
こと服に関しては👚👗
私って
縛りが少なくて
自由に生きて来た派に思った
大人になって
人生がカルマって😵
人生を立て直す系のセミナーを受講した時に
知ったのは
花柄のワンピースや
人によってはスカートを履けなくて
自由に服を着れる自分になりたくて
そうしたセミナーを受講する人達も
いたこと🎀👗👚🎀
↑
これだけ取ると
「なんて不自由で
不要な概念に縛られてるのかしら😲‼️」
って思うのだけど
これって
私の場合
自己否定等のマイナスな概念が
“服装”には投影されなかっただけで
同じマイナスの概念を
私の場合
別の部門に投影させて
生きることが辛い現象が起きていただけだから
自分の持つ
自分に関する否定的な思いの
投影先は
人それぞれに違えど
起きてることは、一緒❗
てこと。
それで私は
ではなぜ、私は
服装に関しては
制限が少なく
自由に
着たい服を選ぶ私になったのか⁉️
を考えたら
それは
親に
一切
服装の呪い(制限)を
掛けられなかったから
だと思う
「そんな服は
Youには似合わないから
止めなさい❌」
系の言葉を
私は掛けられたことがなかったからだと思う。
そのかわり
私の親は
私の言動、強いては私の頭の中まで
介入干渉して
沢山の呪いを掛け
私は服装以外の分野で
それで
テレビで上映していた
『ローマの休日』が終わって
私は、母に電話を再度して
私のその
高校1年生の時に起きた
“岩崎さんのエピソード”を
初めて話したら
母曰く
「岩崎さんは
お家で
ご両親が
そうしたことを
よく言ってるご家庭だったのじゃない?」
って、ふと言って
私は、なぜか鬼納得して
あれから39年程の時を経て
当時、まだ
たった16才の岩崎さんの
その価値観
“美しい人が着てる服を自分が着て似合うわけないから
欲しいと思うなんて論外❗”
の、謎が腑に落ちた気がした
岩崎さんの場合
生活は鬼豊かでも
心の縛りが服装にあって不自由
(“美しい人が着てる服を着ても
自分が似合うわけない”という縛り)
私の場合
服装には縛りはなくても
私という全存在に
沢山の否定性があって不自由
ふー―――む🤔
やはり
人生いろいろだわ
人生って
やっぱり
ひとり投影劇場だわ
続く✏️