わたしは、よく自己否定する人間だ。→これをデフォルトのように考えたり、自分に当て嵌めたりしてしまっていたけれど、
今日、たまたま、自己否定って、具体的になんなのか、なにをさすのかって考えた。
例えば、自分はブスだ。だと、もう少しわかりやすい。ブスとは一般的に顔のつくりをさし、例えば、北川景子や石原さとみを100にした場合、自分は、目がはなれすぎ、だとか。鼻が低い、とか。
わかりやすい。わりかし。
でも、自己否定っていったいなんなんだ。って考えたとき。わたしは、よく、自分は結婚してないから、とか、自分は子供がいないから、とか。
だから、自分に自信がなくて、自己否定する傾向にある、と考えていたけれど、それは具体的になにをさすか、考えいた。
顔なのか、ちがう。過去の選択なのか、ちがう。
いま、おこってる、現象なのか、うーん。そうっちゃそうだけど、ちがう。
そもそも、自己否定すなわち、自分の否定だけれど、自分ってなにをさすのか、否定とはどんは状態をさすのか。
自分とは顔?ボディ?胃とか腸?
わたしは、顔がきらい?身体がきらい?胃とか腸がきらい?
なんか、どれもちがうきがした。
顔も身体もすきだし、心臓や胃にも感謝しかない。
じゃぁ、自己否定とはどこにつながるのか。
あくまでもわたしの考えだけど、
自己否定とは、きっと存在の否定につながる。
自己否定とは、存在の否定。つまり、自己否定とは、いきてちゃいけないってこと。
結婚してなきゃ、いきてちゃいけない。
子どもがいなきゃ、いきてちゃいけない。
わたしの自己否定を解釈すると、↑だった。
そりゃ、苦しいはずだ。生きるのはたのしい。
なぜ、いきるのに、条件がいる?
そもそも、なにかができなきゃいきてちゃいけないなんて、だれからも言われてないし、
赤ちゃんがオギャーとうまれてくるときに、
◯◯ができる赤ちゃんで!みたいな。
そんな条件など、ない。
いきる、と、なにかができるは、別。
なにができなくても、生きていていい。
だから、自己否定という言葉をつかうことがおかしい。
言葉にまんまとだまされていた。
そして、生きる、が少しまた、楽に感じる。
自己否定なんてしなくていい。
なにができなくても、いきていていい。
いきる、に条件なんて必要ない。
自己否定なんて言葉は、わたしの世界に存在なんてしないのだ。
ともこ