しばらく前だけれども、ひまりは良く「痛い」という言葉を使っていた。


転んでも「痛い」

洋服が上手く着脱できなくても「痛い」

おもちゃが取られた時も「痛い」

何かを我慢しなくてはいけない時も「痛い」

誰かとさよならする時も「痛い」


体で感じる物理的な「痛さ」だけではなくて、心の中で生まれる悲しいや辛いという感情も、身体的な「痛い」という表現になるのはなぜだろう。


体得している言葉が少ないから、全てひっくるめて「痛い」という言葉に集約されているのだろうか。

けれど、むしろ大人の方が、言葉に囚われて、心の「痛み」を体の「痛み」と分離させているのかもしれない。


大人になると、体と感情をじょじょに切り離せるようになっていく。

辛くても悲しくても笑わなければいけない時がある。

心は「痛い」と悲鳴をあげているのに、体はそれを表現しない。

ちぐはぐになった心と体で生きていくのはとても辛いことだ。

ひどい時は、心の問題であるストレスが体に物理的な影響を与えてしまう。

ストレスを感じると胃が痛くなったり、頭が痛くなったり。


幼児は、原始的な生き物だ。

心が痛ければ、体も痛いのだ。

「痛い」と言うと誰かが慰めてくれる。

痛いときには、やっぱり全身で慰めて欲しいのだ。

幼児はそうして心と体を守っている。


心が痛いときにも、それを身体的に表現するということは、実はかなり合理的ではないか。

大人になると、そういう原始的な才能はなりを潜める。

精神的には成長するものの、精神的なダメージを表現せずに、自分の中に蓄積させてしまいがちだ。

それはとっても良くない、良くないことだ。


大人になるということが、肉体と精神の関係を矛盾させることにつながっていくとしたら、それはなんだか悲しいことだ。

けれども、大人は自分で風通しの良い人間関係を築くことができる。

ちょっと生き難くても「気持ちに嘘をつくことなく過ごす」という選択をすることもできる。

ひまりを見ていたら、「人間の心と体は一体」ということがすごく良くわかる。

それは大人にとってもとても大事なことで、たまには見つめ直さなくちゃいけないのだ。


ひまりはまだ幼児、心と体の関係はどうやら大人よりしっかりと結びついている。

心と体が一緒にいて居心地のよいように、たくさんの「痛い」を分かち合ってあげたい。

それから、まずは家族で、嘘をつかず正直に一緒に生きよう。


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どんな時も一緒だよ