蒼き青春の軌跡

 

       第三章  アダムとイブ

            (三の三)

 

 佳奈は松尾を睨むようにして見ると、一呼吸してから決意したように言った。

 「最近、変な噂を聞いたけれど、いったいどういうことなの」

 「えっ、何のことだよ」

松尾はすぐにピンときたが、しらを切ろうとした。

 「何ってあなたが一番よく知っているでしょう。 何か私を避けているみたいでおかしいと思っていたけど、いったいどういう付き合いの人なの」

詰問されて松尾は、やっと覚悟を決めたが、本当のことは言えなかった。

 「いつも深雪荘へ顔を出している娘で、二、三回お茶を飲みにいっただけだよ」

 「でも友達が、レストランで食事しているのを見たと言っていたわ。 夜遅くに一緒に歩いているのを見た、とも聞いたし。 本当のことを言ってちょうだい」

 「一回だけ夕飯一緒に食ったけど、ただそれだけだよ。 そんな気にするような相手じゃないよ。 ちょっとお茶飲んだりしたぐらいで、そんなに目くじら立てることも無いだろ」

 「そうですか。 そういう言い方をするのね。 あなた最近変わってしまったわ。 もし私が嫌になったなら、はっきり言って下さい」

 「嫌になるなんて。 ただ、山の話を聞かせてくれって言われて、付き合っていただけなんだから。 君が嫌ならもうしないよ。 そんなに怒るなよ」

 「ちっとも悪いなんて思っていないのね。

そう言うと佳奈は黙り込んでしまった。 松尾もしばらくの間、煙草に火をつけたりして黙り込んでいたが、このままではこの場にいたたまれなくなるようで、一言小さな声で

 「ごめん」 と言った。 

佳奈はチラッと上目づかいで松尾を見たが、その目にはありありと不信の色が伺えた。

 「もういいわ。 でも最近私、あなたのことが分からなくなってきた。 何を考えているのか。 人の気持ちなんて悲しいものね」

 「俺のお前に対する気持ちは、何も変わってやしないよ。 君の思い過ごしだよ」

 「思い過ごしですって? 私はいつもどこでも、あなたを信じていたかったのに。 思い過ごしだと言うのなら、信じろと言うのなら、態度で示してよ」

松尾は黙るしかなかった。 今の自分に自己嫌悪を感じずにはいられなかった。 ここまで言われても、虚勢を張り続けている自分が情けなかった。

 

 佳奈はハンカチを握りしめて、涙を溜めてコーヒーカップをじっと見つめていたが、やがてきっぱりと松尾に言った。

 「今回だけはあなたの言うことを、信じることにします。 でもその人とは、けじめをはっきりさせて下さい。 そうでなければ私と別れて下さい」

松尾は二度、三度首を縦に振った。 深い後悔が松尾の胸に押し寄せていた。

 別れ際には佳奈はいつもの佳奈に戻ってくれたように思えた。 さっぱりとした佳奈の気性に松尾は心から感謝した。

 「二、三日したら、また連絡するよ」

松尾がそう言うと、佳奈はほほ笑んでバスの窓から手を振って帰って行った。 まるで子供のようなあどけない仕草の佳奈に手を振り返しながら、 <もうみきには絶対に会うまい> と固く心に誓った。

 

 佳奈を見送ったその足で、行きつけの「甚六」へ顔を出すと、久しぶりに松美が顔を見せていた。 以前から山へ行こうと約束していたのだったが、その約束はまだ果たされていなかった。 飲みながら話しているうちに松美が突然切り出した。

 「実は俺、来年カラコルムに行くことになってね」

急にヒマラヤの話が出て、松尾は面食らった。 カラコルムはヒマラヤ山脈の西方にあって、有名なK2やブロードピークなどの八千メートル峰が幾座もある。 松美たちは、まだ未踏の七千メートル峰をやるんだと言う。 若井との会話にも出てきたヒマラヤの峰々が、決して遠い未来の話じゃないな、と実感できた。

 「それでいつ発つんですか。 春?秋?」

 「たぶん五月には日本を出ると思う。 すごく難しそうな山でね。 今までに2隊入って失敗しているって」

 「どういうメンバーで行くんです?」

 「京都の山岳パーテイでね。 友達から紹介があって、いろんな所から集まるみたい」

 「そうですか、初登かぁ。 カッコいいなー。 準備で忙しいでしょう」

 「いやあ、俺は離れているからね。 でも京都の連中は大変みたいだ。 月一で顔を出せばいいよって言われてるんだ。 ところで十一月に入ったら氷の練習やりに行かないか、トレーニングのつもりで」

 「願ってもないです。是非連絡下さい。日曜はたいていは空いていますから」

 

松美は既に結婚していて妻と二人の子供がいたが、山への情熱は全く衰えていない。 普段から走りこんでトレーニングは欠かさないと本人から聞いて、松尾はいつも頭の下がる思いであった。 彼と話していると<こんな情熱が俺にあるかな>と思ってしまう。 松美といえば、山仲間の間では知らない人はいない、位の存在だったが何も変わることなくいつも温かな人間味を感じさせる人柄だった。 久しぶりに松美に会って、若井との話に続いて海外遠征の刺激を受けたせいか、松美の山に対する情熱に感染したのかーー 松尾の気持ちはヒマラヤに向かって急速に動き始めていた。

 

 (つづく)