蒼き青春の軌跡

 

       第二章  企業戦争の中で

            (一の二)

 

 店を早めに閉めると、島村と三人は連れ立って横丁の行きつけの飲み屋「甚六」へ出掛けた。 飲み屋のおやじは、四人の顔を見ると、

 「やあ、これはどうも、おめでとうございます」

そう言って二階に案内してくれた。 この店からは遠征に出る際に、お客さんからの寸志も含め沢山の餞別を貰っていたので、上條はひとしきりお世話になったお礼を言っていた。

 

 座敷に上がると、新聞社の人間はもう来ていて、一杯飲みながらの遠征話に花が咲いた。 ちょっと小太りで、度ぎついメガネを掛けた新聞記者は、登頂の様子を中心にアラスカの自然を読者に紹介したいという。 地元の新聞だからこそ、地元の遠征隊の話を是非取り上げたいのだそうだ。 記者は職業柄か、なかなかの聞き上手であった。

 上條や松尾は問われるままに、登頂前後の様子を話して聞かせた。 若井が時々横から茶々を入れたが、酒の勢いも手伝って登頂の様子は、実際以上に厳しい気象条件の下で、実行されたことになってしまっていた。 松尾は後にその新聞紙上に、

 「猛吹雪を着いて登頂に成功」

という文字が大きく踊っているのを見て、顔を赤らめたのだった。

 その夜は大いに飲み、大いに喋って松尾も上條も上機嫌だった。 聞き手の記者に持ち上げられて、水野の件はどこかの失念してしまった。 だが、松尾の頭の片隅では何故かいっこうに連絡の無い、佳奈の顔がチラついて離れなかった。

 

 遠征から帰って一ヵ月後、会社の組織変更で、松尾は今までの開発グループから技術グループに席が移った。 時計製品のコスト対応力を強化する目的で行われた組織変更であった。松尾は、開発Gでも液晶パネルの低コスト化をテーマに仕事をしていたので、製造ラインに近い技術グループで仕事をすることになったのである。 従って、技術Gに移っても実際の仕事の内容はほとんど変わらなかった。

 ただ部下といえる人間が三名、松尾と一緒に仕事をすることになった。 開発部時代に比べると、職制の上下関係はかなりはっきりしている。 各人がテーマを一つずつ持って、大きなグループの中で比較的独立した形で仕事をしていた松尾にとっては、新たな経験であったが部下を持つというのは悪い気のするものではなかった。 ただ、そのことを佳奈に報告できないのが残念であった。

 

 松尾の今のテーマは液晶の配向剤の改良であった。 液晶は種類によって異なるが、分子が一定の法則に従って、ある方向に規則性を持って並ぶ性質がある。 その並び方は、液晶を入れるガラスの表面状態によって決定される。 従って、液晶分子を一定方向に並べる為には、ガラスの表面に特殊な処理が必要となり、その処理のことを配向といった。

 現在は大型の真空機械の中に原料ガラスを入れて、配向させるための配向剤を、スパッタリングという方法で飛ばしていた(真空装置中でガラスなどを蒸発させて蒸発物を付着させる方法)。 だがこの方法では一回あたりの処理枚数が限られ、時間もかかりすぎる欠点を持っていた。 従ってコストを安くするためには、もっと簡単に配向剤を付与できる方法を見つける必要がある。 安価で処理が簡単で、しかも長期にわたって液晶の配向を維持できる配向剤を見つけるのが松尾のテーマであった。

 松尾は開発グループで、既に簡単な配向処理方法についての研究を重ねてはいた。 だが寿命がもたず、実用化には至っていなかった。 寿命を実用レベルにまで持っていかないと商品化はできない。 そのテーマを実現させるために、技術グループへ転籍してきたのだ。 松尾は部下と一緒に、いろいろな配向剤を製作しては実験を繰り返した。 しかし、寿命がもつものは配向性にバラツキが出やすく、配向性が良いものは寿命がばらつき、補償できない場合が多かった。 仕事量の割には、得られる成果が少なかった。

 技術グループは開発部門と比較すると、製造に近い立場にあるために仕事に対する納期意識が厳しく、仕事の進捗状況を毎週上司に報告することが義務づけられていた。 そのことが、一層松尾の焦りを誘っていた。

 

 (つづく)