蒼き青春の軌跡

 

       第二章  企業戦争の中で

            (一の一)

 

 暑い日差しが照りつけ、寮の窓から見えるかえでの葉も力なく垂れ下がっている。 風はそよとも吹かず、窒息しそうな空気が狭い室内によどんでいる。

 自室の窓を開け放ち、額に汗を滲ませながら、松尾は机に向かって会社から借用してきた文献を一生懸命読もうとしていたが、湿度の高い日本の夏はアラスカから帰ったばかりの身体にはこたえた。 だが体や頭が環境に慣れるのを待ってくれるほど、仕事はのんびりとしてはくれなかった。 日本へ戻って初めての休日だったが、こうして机に向かって遅れた仕事を取り戻そうとしているのだった。 しかし目は活字を追っていても、心の中では別のことに気を奪われていて、どうにも集中できないでいた。

 

 日本に帰るに当たって、あれほど再会を楽しみにしていた佳奈からの連絡が未だ無いのだった。 帰ってきて、もう四日も経つというのにである。 佳奈は自分たちが帰ってきたことを当然知っているはずだし、それなら向こうから連絡があっても良い筈だ、と松尾は思っていた。 今日は来るはずだ、明日こそはと思いながらもう四日も経ってしまった。

 <佳奈にはもう、俺のことを忘れてしまうような何か変化があったのだろうか。 もしかしたら他に好きな人でもーー。 いや、そんなバカな、僅か一ヶ月ちょっとのことで>

 考えるほどに、松尾は何故か腹が立ってきた。じっとりと身体にまとわりついてくる暑さも、松尾の神経をイラつかせた。 考えはさっきから同じ事をどうどうめぐりしている。

 <いいさ、それなら俺の方だって忘れてやるーー>

松尾は文献をパタンと閉じて立ち上がった。 こうして昼間から人気の無い寮で、女からの連絡を待っている自分にも腹立たしくなってきていた。 松尾は文献を紙袋に入れると、自転車の籠に放り込み、ペダルを踏んで近くの喫茶店に向かった。

 ドアを押して薄暗い店内に入ると、強すぎるほどの冷房で汗がすうっとひいていき、同時にイライラしていた気分も少しは落ち着いてきた。 明るく軽快なBGMが心地よく流れ、とげとげしくなった神経を和ませてくれる。 コーヒーを頼んで文献に目を落とすと、やっと仕事の情報がスムーズに頭に流れ込み始めた。

 その日も遂に、佳奈からは何の連絡も無かった。 松尾も意地になり始めていた。

 <こうなったら俺の方からは、絶対に連絡はしないぞ。 佳奈が俺を忘れているのなら、俺だって忘れてやる。 別に佳奈だけが女じゃないさ>

そう心に決めて、布団にもぐり込んだ。

 

月曜日に出社すると、昨日までの憂鬱が嘘のように消え、二ヶ月前の自分を取り戻したように仕事に身が入った。 デジタル時計の発売は予測していた通り、他業種からの参入の機会をあたえ、最近では電卓戦争に生き残ってコスト競争力の強いK社が、デジタル時計生産を始めていた。 このK社参入の発表を機に、S社でも本格的なコスト低減活動が始まった。 当然、松尾が関与するパネルにも強いコストダウン要請があった。

 松尾が遠征から戻ってまずびっくりしたのは、その目標数値の凄さであった。 半年以内に、パネルのコストを半減せよというものだった。 初めは冗談かと思ったのだが、考えてみれば決して無理な数字ではない。 まだ歩留まりは50~60%台で安定しているとはいえなかったし、工程を見ても一個一個手作り的な作業をやっていて、前近代的な感じさえあった。

 グループ内でいろいろディスカッションをしてみると、コスト低減のアイデアはいくらでもあった。 松尾は新しい目標を目の前にして、これは面白そうだと感じ始めていた。

 <仕事に打ち込んでいけば、佳奈のことだって忘れていれそうだ>

頭の片隅にそんな思いもチラリと顔を覗かせていた。

 

 仕事からの帰り掛けに、山岳会の先輩が経営するスポーツショップ深雪荘に足を向けた。 店内でお客と話をしていた島村は、松尾の顔を見ると

 「おう、今日は早く店を閉めて飲みに行くぞ。 アラスカの話を聞かせろよ。新聞社でも聞きたがっているんだ。 若井はもう二階へ来て待っているぞ」

 そう言って、白いものの混じり始めた顎ヒゲをしゃくりあげた。 島村は諏訪地方の重鎮的な存在で、地元の新聞社や遭難救助の警察などに、幅広い人脈を持っていた。

 松尾が階上に上がっていくと、若井は棚に積んであるハーケン類をひっかきまわしているところだった。

 「やっ、松尾さん。 今日は社長がタダで飲ましてくれるってさ」

 松尾の声に気付いた若井は、白い歯を見せて屈託無く笑った。 松尾もつられて笑いながら気になっていることを尋ねた。

 「ところで、水野は病院に行ってみたのかな? 若ちゃん、聞いてない?」

 「ウン、昨日ここで会ったけど、何も言っていなかったで大丈夫だと思うよ」

 「そうか、それならよかった」

 「まああの人は、少々オーバーなとこがあるからー。 最初は大分心配したけど」

松尾は、水野と顔を合わすのが何となく気まずくて、遠征以来彼と会うのを避けていた。 若井と話し込んでいると、上條も顔を出した。 やはり、新聞社と話をするというので島村に呼び出されたのだという。

 

 (つづく)