連載小説「肥満ウイルス」まとめよみ
チャプター8−3


「勝盛博士、私の調査では年収と肥満率は反比例にありますから、肥満度の高いクライアントさんほどダイエットクリニックに安く通えるというシステムを組んでみてはいかがでしょう?」

細井は、診察室のコンピューターを立ち上げている博士の背中に向かって自分のプランを説明した。 

細井はエアロビクスインストラクターのシンと同じ時期に勝盛博士のダイエットクリニックに勤め始めた。

クリニックの経営部門を任せられている。

研究者として一流の勝盛博士だが、お金の計算には全く疎かった。

そんな博士に、勝盛の大学時代の先輩が細井の事を紹介してくれたのだ。

もともと肥満患者のデータを集めるためのダイエットクリニックなので、儲けを出すことなど何も考えていなかった勝盛博士だが、クリニックを長く続けてある程度のデータを収集するためには、あまり赤字を出す訳にもいかない。

細井は銀縁の細長い眼鏡の奥の、糸のように細い目を
キラリとさせて、満足気に頷くと「早速、試算してみます」と言い、尖った靴をコツコツいわせて彼のオフィスになっている小部屋へと入っていった。

勝盛博士はコンピュター画面の隣のモニターを見る。

そこには4つに画面が分割されており、1つは受付と待合室。2つ目はエアロビクス 

のフロア。3つ目は会議室。そして4つ目は喫茶コーナー。待合室では2名の大柄な女性が、受付で渡された初診用の問診票に記入している様子が映っている。そこへもう1人入ってくる姿がモニター画面に映り、博士はあっ!と目を見開いた。

もう1人と思ったが入ってきたのは2人で
金髪のかなり大きな男の後ろから、もう一人小柄な男が付いてきていた。最初に入ってきた男があまりに大きくて、もう一人の男の様子はモニターにはほとんど映らなかった。

博士は自分でも全身の血が沸き立つのが判った。

一瞬考えて、

博士は電話の受話器を取ると内線で受付番号#2を押す。

「はい。受付です。あ、はーーい。わかりました!」

受付の地井美智子、通称ミンチは勝盛博士からの指示を受けると、受話器は耳に当てたまま短く切り揃えた桜色の爪の先でフックスイッチを押して切り、手際よく内線でカウンセリングルームを呼び出した。すぐに受付の奥から
待合室に薄桃色のナースワンピースを着たおかっぱ頭の背の高い女性が満面の笑みでやってきた。

目釜知恵、通称メンチは看護師で管理栄養士の資格も持ったダイエットクリニック顧客担当チーフだ。受付カウンターの中にいるミンチとは目も合わせず、まっすぐに奥のソファーに腰掛けている
デイブとハンスのところへとやってきた。

「こんにちは。私は勝盛博士のアシスタントの目釜です。どうぞこちらへいらしてください」メンチは自信に満ちた低音のしかしよく響く声ではっきりと言うや、デイブに立つよう促した。ポケッとしているデイブの脇腹をハンスが人差指でツンツンとつついた。デイブの脇肉は弾力があるな・・ハンスは妙に感心してデイブの腹をじっと見た。

デイブはそれには気がつかず、持っていた鞄からタオルを取り出して汗を拭い

「えっと・・」とだけ日本語で言うと、タオルで顔を隠すようにしながら

「ハンス!なんだって?何だって?」
 

コソコソと早口の英語でハンスに助けを求めた。その様子に、メンチは顔色一つ変えず流暢な英語で「英語のほうがいいですか?こちらの個室でクリニックのシステムや設備をご案内しますよ」と、デイブに自分についてくるように言った。廊下の奥の部屋は会議室のようになっていて
大きな机にホワイトボードがあった。

普通の会議室と違うのは、椅子がとても大きく頑丈に出来ている事。

そういえば待合室のソファーも、日本のバスや電車のせまく奥行きの無いシートに比べたら2倍はある。どの椅子も、デイブが座ってもミシリとも音を立てず安定していて快適だ。会議室で、メンチから全て英語で書かれたパンフレットを見せてもらった。クリニックでは、身体の中の状態をよく把握するための人間ドックのような検査を行う。体質にあわせた食事指導。エアロビクスジムでのレッスン。カウンセリングや勝盛博士との面談、定期的な血液検査。
デイブはこの魅力的なダイエットクリニックの、パンフレットを見ながらメンチからの説明を聞いていて、もう身体が半分にでも痩せたような軽くなったような気分になった。ここならあっという間に昔の自分に戻れるに違い無い。たがその膨らんだ希望も話しを聞くほどにしぼんできた。

これだけの施設で、こんなに大勢の(きちんとした)人が太った人たちを痩せさせてくれるのだから、コストも相当かかるだろう。こんなに期待させといて、絶対最後にぼくには無理だとがっかりさせられるんだ。メンチは自分の専門でもある食事の栄養指導の説明には、いつも以上に熱を込め
話した。メンチは案内図を指しながら「ここがクリニックの、今いる場所。この奥のジムとロッカーの反対側はカフェになっています。一人暮らしで自炊が難しい方は、みなさんこちらで栄養バランスを考えた必要なカロリーのメニューを取っていただいてます。」デイブは食事の
話しになって、思わずヒクヒクと鼻を動かしてしまった。気のせいなのか?とってもいい匂いがしてきたのだ。魚の出汁の上品な匂いだ!間違いない。すると、メンチの背中側のドアがすっと空いて、フレンチレストランの料理長さながらの白い帽子を頭に乗せた、白いエプロンの男性が入って
きた。持っているトレーには湯気の上がった料理の皿が幾つも並んでいる。興味なさそうにぼーっと座ってスマホをいじっていたハンスが、急に姿勢を正しメンチに向かって

「サンプル??」と聞いた。

「いいタイミングですね。そうです。メニューはお一人お一人ちゃんと計算
されて立てますが、こちらはサンプルです。これで1人前の夕食です。どうぞお味見してみてください。」

そう言われて、デイブより早くハンスはフォークを手にした。

「デイブ、どうしたの?うまいよ。これ。ものすごく!とろけるような酢豚だね!めずらホガフグホがじゃん?」

ハンスは、食べ物には目がないであろうデブのデイブが、なかなか箸をつけようとしないのでいったいどうしたのかと、肉を頬張りながらデイブに聞いたのだが、途中でむせそうになってしまった。デイブは、確かに僕はブタみたいにデブだ。だからって、食べ物で釣られはしない!

でも、本当に美味しそうだなあ・・。あー、ハンスそれって僕のためのサンプルの料理じゃないのか?

「ハンス、僕も一口・・」

「さあ、どうぞ召し上がってくださいね」

メンチに後押しされるまでもなく、デイブは一口。

その一口が二口になり、あとはもうガツガツむしゃむしゃと夢中で食べてしまった。「これだけで、かなり満足感がありますよね?では、中をご案内しますのでどうぞこちらへ」

デイブは、まだ皿に残っているソースをなめてしまいたい衝動をどうにか抑えてメンチについて行く。ハンスは素早くミンチに続いてドアを出る。デイブも遅れまいとハンスについて行った。

エアロビクスのスタジオはフロアのちょうど中央にあり、3面の内側は鏡張りになっていた。出入り口側は全てガラス張りで、スタジオの中がよく見える。この時間はレッスンはなくスタジオの照明は落とされていた。スタジオの正面のスポットライトだけが弱くつけられインストラクターのシンがなにやら音楽に合わせて動きに確認をしているのが見えた。スタジオの反対側の廊下の突き当たりは勝盛博士の診察室になっている。勝盛博士はデイブ達がクリニックの見学を終えるのを待てずに、自分でお茶を淹れる振りをしながらカフェテリアでデイブが来るのを待ち構えていた。勝盛博士はとても穏やかな性格で、感情を出すことなどが少ないタイプだ。並大抵の事では興奮したりすることも無かった。そんな博士は今、自分が取っている行動が自分でも信じられ無かった。だが博士はどうしても自分自身を押さえることができなかった。