きょうだい児だから選ばれなかった?精神疾患、自殺未遂、父との離婚。重度自閉症の兄だけ連れていった母への思い
8/30(火) 6:15配信
LITALICO発達ナビ
監修:三木崇弘
社会医療法人恵風会 高岡病院 児童精神科医
いつも家族の中心にいた母が別人になってしまったときのお話
私は15歳のときに、人生の大きな壁に遭遇することになりました。
当時45歳だった母が、統合失調症という精神疾患になったのです。
優しい笑顔が印象的だった母は、ある日から別人のように変わっていきました。
母は、感情鈍麻によってだんだんと喜怒哀楽の表情が乏しくなり、他者に共感することが減っていきました。
私が話しかけても反応が遅かったり、内容の理解ができず 、会話のキャッチボールが困難になりました。また、物事を進める意欲がなくなり日常生活を送ることが困難になりました。
そのうちに、妄想、幻覚(幻聴、幻視)に怯えたり、思考障害によって会話に一貫性がなくなるようになりました。
まるで別人のように変わってしまった母…。そのころ15歳だったまだ人生経験の乏しい私は、どのように母と向き合えばいいのか分からず、ただただ困惑しました。
その後、自殺未遂や危険を伴う行動など、いろいろありました。
その際に、母自らの強い意思により父と離婚することになりました。そして母は、重度の自閉スペクトラム症と知的障害がある7歳上の兄(当時22歳)だけを連れていくと決めて出ていくことになりました。
母が動けないので、母方の親戚が代わりに母と兄が暮らせるための手続きなどほとんどおこなってくれました。
残された私たち(父、姉、私)はというと、母が統合失調症の幻覚、妄想によって父と関わることを拒否してしまい、父の落ち込みも相当だったため、黙って見守るしかありませんでした。
思春期だった私が感じたこと。「手のかからない“きょうだい児”だったから、私は母に捨てられた」
母が重度障害のある兄を連れていったという事実は、当時思春期だった私にとってショックでした。
なぜなら、3人きょうだいのうちの、兄だけを連れていくということは、私たち(私、姉)からすると「きょうだい児である私(たち)を選ばない」という意味にもなるからです。
姉はもう成人していたので、落ち着いてはいましたが…。
私はそれまで、親から「我慢して」などと言われた記憶はありません(全くない訳ではないと思いますが、記憶にないので、私にとって悩むほどの内容ではなかったのだろうと思います)。
ですが、自分自身で選んでしていたこととして、「重度障害のある兄への対応が優先されるのは重々承知しているから、自分が我慢すれば良い」「母が助かるだろうから、私は手のかからない子でいよう」と思って自分なりに頑張ってきたつもりでした。
それなのに、母は離婚する際に私を連れていかない選択をしました。
私にとっては、「手のかからない子になった結果、重要な場面で母に捨てられた」と思えてなりませんでした。
それでも、今まで「手のかからない子」になる道を選んでいたので、今さら「親を困らせる子」にはなれませんでした。
母のことが大好きだっただけに、裏切られたような気がして、本当にショックでした。
「生きているだけで良かった」と割り切ることができれば良かったのですが…。
両親が離婚した2週間後に私は、公立高校の受験本番を迎えました。そのときの受験した高校には無事合格したのですが、あまりのショックからか受験当日の記憶が全くありません。
表面上は、母と穏やかな関係だけど、私自身の心の中は複雑…
母と父が離婚してからも私はときどき母と兄の住む家に遊びにいったり、泊まりにいったりしました。兄の様子を見て、一緒に住んでいたころと変わらない様子に安心したのを覚えています。
兄が通う作業所での仕事の様子や、家での様子についても母から聞くことができました。
自分の中でわだかまりがありつつも、母と私の関係は穏やかでした。
1年ほどすると、母に合った薬が見つかったようで、統合失調症の症状が緩和され、母に少しずつ笑顔が戻りました。ただ、いつどんなきっかけで症状が悪化するか分からないのと、「自分は母に選んでもらえなかった」という感情がどうしても消えず、表面上は穏やかな関係でも、私自身の心の中は複雑で、腫物に触れるかのような関係でした。
大人になってからだんだんと理解ができるようになった、母のやさしい選択
あれから25年が経ちました。今なら重度障害のある兄だけを連れていった母の気もちが分かる気がします。
母はできる限り家族それぞれがその人らしく暮らせる選択をしたのだと思います。
もし仮に母が私たち(姉と私)を連れて出ていってしまったのなら、姉は自分のために働くのではなく家族を養うために働かなくてはなりませんし、私は高校生という立場の中、ヤングケアラーとなり、外での生活(学校や交友関係など)を楽しむことも、その先の進路などを見据えることも難しかったのではないかと思います。
大人になって、母の感じた重圧や不安に気づき思う「十分頑張ってくれた」
母はきっと寂しかったのだろうと思います。
障害児育児、他人との関わり、自分の体(足に持病があります)が以前より思うようにいかないもどかしさ、寄り添ってほしい身近なパートナー(父)とのコミュニケーションの難しさ(父は生まれつき片耳が聞こえません)。
ライフステージが変化する中で、持病がある中さまざまな重圧や不安を日々感じながら3人の子どもを育てていたという事実を想像しました。
それは、現在の私とは比べることもできないくらい大変だったことだろうと、今なら簡単に想像がつきます。
母が家を出てからの20年間は、紆余曲折ありました。
(兄は今から18年ほど前から障害者支援施設に入居することができたため、兄の生活が安定しました)。
その20年の間に、母の統合失調症が悪化し、入院したことは何度もあります。
そして、現在は母が脳梗塞でなくなって5年が経ちました。
母のことを思い出すと、「幸せな人生を送れていたのだろうか?」といまだに思ってしまいます。私自身答えはきっとこの先も出せないだろうと思います。
ただ、きょうだい児だった私の立場として、母から得たものはたくさんあります。
自分のことは優先してもらえることはなかった気がしますが、母は私を一方的に叱ったりする人ではなかったし、私の人生を否定することは一度もありませんでした。
もし私がきょうだい児として、兄と違った関わり方を母に強要されていたのなら、私は自分の人生の意義を見出せなかったり、兄のことも今のように、大事に思えなかったのかもしれません。結婚もしていなかったのかもしれませんし、そうすると、主人や子どもたちに出会えていなかったことでしょう。
今の自分はおそらく、発達障害のある子どもたちとさまざまなことに遭遇しながらも、楽しく暮らせている気がします。それは、幼少期より私の母が暖かく見守ってくれていた賜物ではないかと思うのです。
母が十分、頑張って私たちを育ててくれた。
そんな母が、もし仮に「自分のキャパを越えて頑張り過ぎた(もしくは、我慢しすぎた)結果、心を病んでしまった」のであれば、私はこの母の経験をもとに、自分の人生では、「自分がもっている能力以上に頑張る必要はない」という答えにたどり着きました。
今まさに、障害児育児を頑張っている方に、私と母の経験から、「頑張りすぎないで」「自分を大事にして」と心から伝えたいです。
執筆/スガカズ
(監修:三木先生より)
つらいことがあったとき、子どもは結果から理由を類推するしかありません。スガカズさんのように「いい子だったからいけないんだ」という解釈になってしまうことがよくあります。でも大人になって初めて「自分は悪くない」ということが分かることもあります。それもきっと、お母さまがお母さまなりの見守り方をしてくださったからなのでしょうね。
8/30(火) 6:15配信
LITALICO発達ナビ
監修:三木崇弘
社会医療法人恵風会 高岡病院 児童精神科医
いつも家族の中心にいた母が別人になってしまったときのお話
私は15歳のときに、人生の大きな壁に遭遇することになりました。
当時45歳だった母が、統合失調症という精神疾患になったのです。
優しい笑顔が印象的だった母は、ある日から別人のように変わっていきました。
母は、感情鈍麻によってだんだんと喜怒哀楽の表情が乏しくなり、他者に共感することが減っていきました。
私が話しかけても反応が遅かったり、内容の理解ができず 、会話のキャッチボールが困難になりました。また、物事を進める意欲がなくなり日常生活を送ることが困難になりました。
そのうちに、妄想、幻覚(幻聴、幻視)に怯えたり、思考障害によって会話に一貫性がなくなるようになりました。
まるで別人のように変わってしまった母…。そのころ15歳だったまだ人生経験の乏しい私は、どのように母と向き合えばいいのか分からず、ただただ困惑しました。
その後、自殺未遂や危険を伴う行動など、いろいろありました。
その際に、母自らの強い意思により父と離婚することになりました。そして母は、重度の自閉スペクトラム症と知的障害がある7歳上の兄(当時22歳)だけを連れていくと決めて出ていくことになりました。
母が動けないので、母方の親戚が代わりに母と兄が暮らせるための手続きなどほとんどおこなってくれました。
残された私たち(父、姉、私)はというと、母が統合失調症の幻覚、妄想によって父と関わることを拒否してしまい、父の落ち込みも相当だったため、黙って見守るしかありませんでした。
思春期だった私が感じたこと。「手のかからない“きょうだい児”だったから、私は母に捨てられた」
母が重度障害のある兄を連れていったという事実は、当時思春期だった私にとってショックでした。
なぜなら、3人きょうだいのうちの、兄だけを連れていくということは、私たち(私、姉)からすると「きょうだい児である私(たち)を選ばない」という意味にもなるからです。
姉はもう成人していたので、落ち着いてはいましたが…。
私はそれまで、親から「我慢して」などと言われた記憶はありません(全くない訳ではないと思いますが、記憶にないので、私にとって悩むほどの内容ではなかったのだろうと思います)。
ですが、自分自身で選んでしていたこととして、「重度障害のある兄への対応が優先されるのは重々承知しているから、自分が我慢すれば良い」「母が助かるだろうから、私は手のかからない子でいよう」と思って自分なりに頑張ってきたつもりでした。
それなのに、母は離婚する際に私を連れていかない選択をしました。
私にとっては、「手のかからない子になった結果、重要な場面で母に捨てられた」と思えてなりませんでした。
それでも、今まで「手のかからない子」になる道を選んでいたので、今さら「親を困らせる子」にはなれませんでした。
母のことが大好きだっただけに、裏切られたような気がして、本当にショックでした。
「生きているだけで良かった」と割り切ることができれば良かったのですが…。
両親が離婚した2週間後に私は、公立高校の受験本番を迎えました。そのときの受験した高校には無事合格したのですが、あまりのショックからか受験当日の記憶が全くありません。
表面上は、母と穏やかな関係だけど、私自身の心の中は複雑…
母と父が離婚してからも私はときどき母と兄の住む家に遊びにいったり、泊まりにいったりしました。兄の様子を見て、一緒に住んでいたころと変わらない様子に安心したのを覚えています。
兄が通う作業所での仕事の様子や、家での様子についても母から聞くことができました。
自分の中でわだかまりがありつつも、母と私の関係は穏やかでした。
1年ほどすると、母に合った薬が見つかったようで、統合失調症の症状が緩和され、母に少しずつ笑顔が戻りました。ただ、いつどんなきっかけで症状が悪化するか分からないのと、「自分は母に選んでもらえなかった」という感情がどうしても消えず、表面上は穏やかな関係でも、私自身の心の中は複雑で、腫物に触れるかのような関係でした。
大人になってからだんだんと理解ができるようになった、母のやさしい選択
あれから25年が経ちました。今なら重度障害のある兄だけを連れていった母の気もちが分かる気がします。
母はできる限り家族それぞれがその人らしく暮らせる選択をしたのだと思います。
もし仮に母が私たち(姉と私)を連れて出ていってしまったのなら、姉は自分のために働くのではなく家族を養うために働かなくてはなりませんし、私は高校生という立場の中、ヤングケアラーとなり、外での生活(学校や交友関係など)を楽しむことも、その先の進路などを見据えることも難しかったのではないかと思います。
大人になって、母の感じた重圧や不安に気づき思う「十分頑張ってくれた」
母はきっと寂しかったのだろうと思います。
障害児育児、他人との関わり、自分の体(足に持病があります)が以前より思うようにいかないもどかしさ、寄り添ってほしい身近なパートナー(父)とのコミュニケーションの難しさ(父は生まれつき片耳が聞こえません)。
ライフステージが変化する中で、持病がある中さまざまな重圧や不安を日々感じながら3人の子どもを育てていたという事実を想像しました。
それは、現在の私とは比べることもできないくらい大変だったことだろうと、今なら簡単に想像がつきます。
母が家を出てからの20年間は、紆余曲折ありました。
(兄は今から18年ほど前から障害者支援施設に入居することができたため、兄の生活が安定しました)。
その20年の間に、母の統合失調症が悪化し、入院したことは何度もあります。
そして、現在は母が脳梗塞でなくなって5年が経ちました。
母のことを思い出すと、「幸せな人生を送れていたのだろうか?」といまだに思ってしまいます。私自身答えはきっとこの先も出せないだろうと思います。
ただ、きょうだい児だった私の立場として、母から得たものはたくさんあります。
自分のことは優先してもらえることはなかった気がしますが、母は私を一方的に叱ったりする人ではなかったし、私の人生を否定することは一度もありませんでした。
もし私がきょうだい児として、兄と違った関わり方を母に強要されていたのなら、私は自分の人生の意義を見出せなかったり、兄のことも今のように、大事に思えなかったのかもしれません。結婚もしていなかったのかもしれませんし、そうすると、主人や子どもたちに出会えていなかったことでしょう。
今の自分はおそらく、発達障害のある子どもたちとさまざまなことに遭遇しながらも、楽しく暮らせている気がします。それは、幼少期より私の母が暖かく見守ってくれていた賜物ではないかと思うのです。
母が十分、頑張って私たちを育ててくれた。
そんな母が、もし仮に「自分のキャパを越えて頑張り過ぎた(もしくは、我慢しすぎた)結果、心を病んでしまった」のであれば、私はこの母の経験をもとに、自分の人生では、「自分がもっている能力以上に頑張る必要はない」という答えにたどり着きました。
今まさに、障害児育児を頑張っている方に、私と母の経験から、「頑張りすぎないで」「自分を大事にして」と心から伝えたいです。
執筆/スガカズ
(監修:三木先生より)
つらいことがあったとき、子どもは結果から理由を類推するしかありません。スガカズさんのように「いい子だったからいけないんだ」という解釈になってしまうことがよくあります。でも大人になって初めて「自分は悪くない」ということが分かることもあります。それもきっと、お母さまがお母さまなりの見守り方をしてくださったからなのでしょうね。