1/27(木) 11:15配信
NEWSポストセブン
キャンプインを目前にしても、球界で話題を提供するのは相変わらず、日本ハムの“ビッグボス”こと、新庄剛志監督だ。球界の異端児は、どのように育てられたのか。本誌は複数回にわたり新庄氏の両親に取材し、新庄氏を育んだ独特の親子関係を紹介してきた。父・英敏さんは2011年に亡くなったが、母・文子さんは新庄氏のいまをどう見つめているのか──。
新庄氏が生まれ育った福岡市内にある実家は、造園業を営んでいた。新庄氏の現役時代には、取材に訪れると父・英敏さんが主に話して、母・文子さんが少し離れた場所に座って話を聞きながら、合いの手を挟むスタイルが常だった。2004年に新庄氏がメジャーから日本ハムへ戻った時には、“教育方針”について英敏さんがこう語っていた。
「剛志には“他人のことをとやかく言うな”と子供の頃から言ってあります。他人のことをひとつ言えば、3人、4人から反撃を受ける。“男は黙って実行”と言ってある。だから子供の頃から剛志は“誰がどうしたから”“誰が悪い”といった言い訳はしませんでした。うちの教育方針は“誰にでも挨拶する。誰にでも愛想よくする”というもの。そうすれば近所の人にお菓子やアイスを買ってもらえるので、小遣いがいらんからね」
そう英敏さんが笑うと、文子さんがフォローを入れていた。
「小さい頃から気持ちの優しい子だった。ケンカとは無縁で、その前に、どうすれば仲良くやっていけるかを考える子でした。いまでも争いごとは嫌いだと思いますよ」
新監督としても、誰かを悪者にするのでなく、「全選手にチャンスがある」と平等な競争を打ち出すバックボーンには、両親の教育方針も関係していたのかもしれない。
負けず嫌いな子供だった
当時、文子さんは、「子供の頃からもの凄く負けず嫌いでした」とも明かしていた。
「校内のマラソン大会で2位になって大泣きしていた。中学時代には、担任の先生から“新庄君は将来、プロとしてスポーツで飯が食える”と言われました。お父さんは野球をさせたがったけど、サッカーのほうが上手でしたね(笑)。体が大きくなるように牛乳を飲ませ、チーズなど乳製品を食べさせました。得意のサッカーの道に進むのかと思っていましたが、お父さんの希望通り野球の道を選んだ。そんな子供なんです」
それを聞いた英敏さんは、「プロ野球選手にさせようとレールを敷いてきたが、何をやるにしても最後は剛志の気持ちを尊重してきたつもりです。親に押し付けられてやるのではなく、自分が決めたことは責任感が生まれる」と応じた。文子さんもそれを聞いて、「好きにやればいい。なんでも親のいうことを聞く子供なんて気持ち悪いと思いませんか」と笑っていた。
困ったことがあれば助け合うが、余計な口出しはしない―プロの世界に入ってからの新庄親子は、そんな関係だった。
引退した2006年オフには、英敏さんは「あいつは全く連絡もよこさんのよ」と苦笑いしていた。
「引退後、何をやるのかもわからん状態で、知人や地元の元後援会のメンバーから聞かれても、答えられなくて困っている」と話す英敏さんの横で、文子さんも「すべて本人任せ。メジャーに行く時もマスコミで知ったくらいだしね」と振り返っていた。
息子のことはニュースで知る
2001年に米国で9.11テロが起きた時、新庄氏はNYメッツ所属だったが、文子さんは当時も、息子の無事をニュースで知ったと明かしていた。「うちは剛志のことはニュースで知ることが多いので……」と、無事に安堵しながらも苦笑するのだった。
文子さんは、再び“球界の寵児”となった新庄氏をどう見ているのか。改めて福岡を訪ねると、新庄氏からの監督就任の連絡について、文子さんは「ええ、早くにありましたよ」と応じた。
いまの新庄氏についての思いを尋ねると、「うちはお父さんが(広報)担当だったんですよね。あまり話をすると息子が嫌がるので」と辞去した。ドアを開けて応対する母・文子さんは細身の体型も含めて、改めて新庄氏とそっくりだった。
最後に、監督就任は英敏さんも喜んでいるのではと問いかけると、「そりゃ喜んでいると思いますよ」と嬉しそうに笑った。
2月のキャンプインが目前に迫る。天国の父と、福岡の母の期待に応える活躍となるだろうか。
※週刊ポスト2022年2月4日号
NEWSポストセブン
キャンプインを目前にしても、球界で話題を提供するのは相変わらず、日本ハムの“ビッグボス”こと、新庄剛志監督だ。球界の異端児は、どのように育てられたのか。本誌は複数回にわたり新庄氏の両親に取材し、新庄氏を育んだ独特の親子関係を紹介してきた。父・英敏さんは2011年に亡くなったが、母・文子さんは新庄氏のいまをどう見つめているのか──。
新庄氏が生まれ育った福岡市内にある実家は、造園業を営んでいた。新庄氏の現役時代には、取材に訪れると父・英敏さんが主に話して、母・文子さんが少し離れた場所に座って話を聞きながら、合いの手を挟むスタイルが常だった。2004年に新庄氏がメジャーから日本ハムへ戻った時には、“教育方針”について英敏さんがこう語っていた。
「剛志には“他人のことをとやかく言うな”と子供の頃から言ってあります。他人のことをひとつ言えば、3人、4人から反撃を受ける。“男は黙って実行”と言ってある。だから子供の頃から剛志は“誰がどうしたから”“誰が悪い”といった言い訳はしませんでした。うちの教育方針は“誰にでも挨拶する。誰にでも愛想よくする”というもの。そうすれば近所の人にお菓子やアイスを買ってもらえるので、小遣いがいらんからね」
そう英敏さんが笑うと、文子さんがフォローを入れていた。
「小さい頃から気持ちの優しい子だった。ケンカとは無縁で、その前に、どうすれば仲良くやっていけるかを考える子でした。いまでも争いごとは嫌いだと思いますよ」
新監督としても、誰かを悪者にするのでなく、「全選手にチャンスがある」と平等な競争を打ち出すバックボーンには、両親の教育方針も関係していたのかもしれない。
負けず嫌いな子供だった
当時、文子さんは、「子供の頃からもの凄く負けず嫌いでした」とも明かしていた。
「校内のマラソン大会で2位になって大泣きしていた。中学時代には、担任の先生から“新庄君は将来、プロとしてスポーツで飯が食える”と言われました。お父さんは野球をさせたがったけど、サッカーのほうが上手でしたね(笑)。体が大きくなるように牛乳を飲ませ、チーズなど乳製品を食べさせました。得意のサッカーの道に進むのかと思っていましたが、お父さんの希望通り野球の道を選んだ。そんな子供なんです」
それを聞いた英敏さんは、「プロ野球選手にさせようとレールを敷いてきたが、何をやるにしても最後は剛志の気持ちを尊重してきたつもりです。親に押し付けられてやるのではなく、自分が決めたことは責任感が生まれる」と応じた。文子さんもそれを聞いて、「好きにやればいい。なんでも親のいうことを聞く子供なんて気持ち悪いと思いませんか」と笑っていた。
困ったことがあれば助け合うが、余計な口出しはしない―プロの世界に入ってからの新庄親子は、そんな関係だった。
引退した2006年オフには、英敏さんは「あいつは全く連絡もよこさんのよ」と苦笑いしていた。
「引退後、何をやるのかもわからん状態で、知人や地元の元後援会のメンバーから聞かれても、答えられなくて困っている」と話す英敏さんの横で、文子さんも「すべて本人任せ。メジャーに行く時もマスコミで知ったくらいだしね」と振り返っていた。
息子のことはニュースで知る
2001年に米国で9.11テロが起きた時、新庄氏はNYメッツ所属だったが、文子さんは当時も、息子の無事をニュースで知ったと明かしていた。「うちは剛志のことはニュースで知ることが多いので……」と、無事に安堵しながらも苦笑するのだった。
文子さんは、再び“球界の寵児”となった新庄氏をどう見ているのか。改めて福岡を訪ねると、新庄氏からの監督就任の連絡について、文子さんは「ええ、早くにありましたよ」と応じた。
いまの新庄氏についての思いを尋ねると、「うちはお父さんが(広報)担当だったんですよね。あまり話をすると息子が嫌がるので」と辞去した。ドアを開けて応対する母・文子さんは細身の体型も含めて、改めて新庄氏とそっくりだった。
最後に、監督就任は英敏さんも喜んでいるのではと問いかけると、「そりゃ喜んでいると思いますよ」と嬉しそうに笑った。
2月のキャンプインが目前に迫る。天国の父と、福岡の母の期待に応える活躍となるだろうか。
※週刊ポスト2022年2月4日号