1、はじめに
本稿では、万葉集の巻一・二番歌(以下、「舒明天皇の国見歌」と呼称を統一する)を扱う。以下、まず原文をあげる(注1)。
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
天皇登二香具山一望レ國之時御製歌
山(やま)常(と)庭(には) 村山有等(むらやまあれど) 取與呂布(とりよろふ) 天乃香具山(あめのかぐやま) 騰立(のぼりたち) 國見乎為者(くにみをすれば) 國原波(くにはらは) 煙立龍(けぶりたちたつ) 海原波(うなはらは) 加萬目立多都(かまめたちたつ) 怜憾國曽(うましくにそ) 蜻嶋(あきづしま) 八間跡能國者(やまとのくには)
この巻一・二番歌においてはいったい何が研究史上で問題になってきたのだろうか。今回は、特に「国見」、「国原」と「海原」、二度登場する「大和(ヤマト)」に注目して論を進めていきたい。次に簡単に概略をあげておく。鉄野昌弘氏の紹介をあげる(注2)。
一三句からなる、この小長歌は、「高市岡本宮御芋天皇代」の標目の下におさめられている。したがって、題詞は、舒明天皇(五九三~六四一、在位六二九~四一)が、香具山に登り立って、国見をした時に作った歌だと記すことになる。
2、国見
まず、「国見」の語釈についてであるが、今回は、三つの注釈書を取り上げる。第一に、伊藤博『萬葉集釋注 一』(注3)、第二に阿曽瑞枝『萬葉集全歌講義(巻第一・巻第二)』(注4)、第三に多田一臣『万葉集全解 1』(注5)、である。では、三つをそれぞれの語釈をあげる。
①伊藤博→「国見」は高い所から国の有様を見ること。もと、春秋に五穀の豊穣を予
祝し感謝する儀礼。
②阿蘇瑞枝→国見は、春、山や岡など高いところに登って四方を見渡し、その年の穀
物が豊かであるように予祝する儀礼。そこでは、国を賞める歌をうたい、その実現を期待した。本来は民間の行事であったが、天皇の政治的行事としても行われるようになったらしい。ここは、天皇の国見儀礼でうたわれた歌。
③多田一臣→望国―国見。高所に登り、眼下の国土を望見してその繁栄を祝福するこ
と。農耕儀礼と説明されるが、もともとある土地に巡行・来臨した神の土地讃めの行為だった。天皇は神だから、国見の主体となりうる。
「見る」行為を通して「予祝」あるいは「祝福」という言葉が使われ、それは天皇による政治的行事であり、土地を誉めるといったことが挙げられていることがわかる。次に「国見」、それを歌にした「国見歌」についてみていく。まず、土橋寛の論を引用する(注6)。
国見歌の性格は、(中略)国見の予祝的性格によって規定されているのであって、花盛りや自 然の繁栄を讃める花讃め・国讃めが国見歌の主題であり、そうすることによって農作や村人の 繁栄をもたらそうとする呪術的性格が、国讃め歌の本質である。天皇の国見も、元来は支配下 の国土と人民の繁栄をもたらすために、それだけを独立に行ったもので、それが次第に政治的 意義に重点を置くようになったものであるから、その国見歌も基本的には予祝的な国讃めで、 素材の面に政治的なものが入りこんでいるにすぎない。
ここで確認すべきことは、「国見歌の性格」は「国」を「見る」ことを通しての「予祝的性格」によって規定されており、国を「讃め」ることを通して、人民の繁栄をもたらそうとする「呪術的性格」を持っているということである。この「見」ることの「呪術的性格」についてであるが、その前に土橋寛の提唱した「タマフリ」という言葉の意味を確認したい。再び土橋寛の論を引用する(注7)。
タマフリとは、今日の「身祝い」に相当する古語で、その場合の「タマ」は遊離魂や外来魂で はなく、生命力・呪力の観念を表わす語であり、タマをゆらゆらと振りおこす呪術が「タマフ リ」である。生気を失って萎えしぼんだタマに、花や青葉のマナを感染させて活気づけるのが タマフリであり、カザシ、カヅラなどはタマフリの呪物に外ならない。
では、この「タマフリ」と「見る」ことの関係をどのように土橋寛は論じているか。土橋の論をさらに引用する(注8)。
「国見」も天皇の儀礼となる前は、政治的区域ではない国土としてのクニを見る行事で、具体 的にはゆらゆらと立昇る雲、煙、陽炎などを、クニの生命力の活動する姿と考え、それを「見 る」ことが人間の生命力を盛んにするタマフリの行為と考えたのである。
では、「見る」こと=「タマフリ」の行為であると確認したところで、「舒明天皇の国見歌」との関連を見ていく。以下、土橋寛の論文を引用する(注9)
香具山の上から望見された煙や鷗の「立ち立つ」光景は、春になって地霊や水霊のしきりに活 動する姿として歌われているのであり、従って煙や鷗の「立ち立つ」姿を歌うことが、とりも 直さず国讃めになるわけである。「煙」は(中略)家々から立昇る炊煙が人の繁栄の姿として 歌われているものと解することも可能であるが、「鷗」と対比されている点からすれば、たと え炊煙であっても、雲と同様に、国魂の活動する姿として理解すべきものであろう。
さきほど確認したように「タマ」が「生命力・呪力の観念を表わす語」であるとするならば、ここで言われている「国魂」とは「クニ」の「生命力・呪力の観念を表わす語」と考えられる。ここで歌われていることは果たして事実なのか。少なくとも土橋寛は実際の光景として歌われているとは考えていないとも読める。ここで注目すべきは土橋寛が「煙」と「鷗」を「対」として捉えていることである。つまり、「舒明天皇の国見歌」では「国原」=「煙」、「海原」=「鷗」という「対句的表現」(注10)
3、「海原」と「国原」という「対」
先ほどの「国見」と同じように、「国原」「煙」「海原」「鷗」について伊藤・阿蘇・多田の注釈書を参照する(太字はすべて森尻による)。
①伊藤博→「国原」=広々と張りつめた大地。下の「海原」の対。「けぶり」は大地
から燃え立つものの称。水蒸気や炊煙など。「立ち立つ」は立ちに立つ、の意。「海原」=「国原」で始まる上の二句と対になりつつ、陸も海も、土も水も、すべてにわたって国土が充ち足りて盛んなさまを示す。香具山の周辺には、埴安、磐余など、多くの池があった。「海原」はそれを海と見なしたものであろう。「かまめ」=「かもめ」の古形で、その他のあたりを飛ぶ白い水鳥をかもめと見なしたものか。
②阿蘇瑞枝→「国原」=広々とした平原。「海原」=当時、香具山周辺にあった池などをさしていったもの。香具山西方に埴安池、西北方に耳成池、東北方に磐余池など。「かまめ」=カモメのことであるが、ここは、内陸に深く入る性質のユリカモメであろうといわれる。ユリカモメが、池の上を生き生きと飛び交っているさまをいう。
③多田一臣→水陸の景(補注として書かれている)=ここには、香具山から望見され
る国土の繁栄のさまがうたわれるが、それは実景ではない。香具山から 海は見えない。「海原」を山麓の埴安池とする見方が示されたこともあるが、ここは神の限差しの中に捉えられた水陸の理想の景がうたわれていると考えるべきである。
ちなみに、ここで伊藤・多田の前掲の注釈書によると、香具山の扱いは以下のとおりである。
①伊藤博→「天の香具山」=天から降り立った聖なる山、の意。香具山をほめていう。
伊予の天山とともに、天から降り下った山という伝説(逸文『伊予国風土記』)がある。
②多田一臣→「香具山」=大和三山の一つ。天から降ったという伝承をもち(『伊予国
風土記』逸文)、王権の存立にもかかわる聖なる山とされた。そこで、 「天の香具山」と呼ばれた。
以上のように、天皇にとって最重要の場所であったことがわかり、「国見歌」を残す理由も明らかである。
では、最後に「国原」と「海原」がなぜ「対」になって歌われたかを考察してみたい。そしてなぜ香具山からは実景としては「見る」ことのできなかった「海原」が当該歌の中に歌われなければならなかったのかについて考えてみたい。
伊藤博は「國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都」を引き、次のように述べる(注11)。
国土の要素を代表する「国」(土)と「海」(水)の両面から倭国の完全性を言挙した呪的表 現と見るとき、「うまし国ぞ あきづしま 大和の国は」と高々に結んだ声の大きさがすなお に了解される。「大和には 群山あれど」とうたいおこしたとき、「大和」は現在の奈良地方 でたしかにあった。が、国原と海原を経過したとたんに、「大和」は日本国全体へとイメージ を拡大したのである。この歌に枕詞が一つだけ用いられていて、それが結びの部分の「大和」 にかかわり、冒頭のそれとは無縁であるのも看過しがたいことのように思われる。
ここには、「国見歌」がただ見たままを歌うものではない理由が示されているとは考えられないだろうか、つまり見えないはずの「海原」を謡い込むことによって、天皇の支配権を正統化することさえ可能になるのである。さらに伊藤博の論を引用する(注12)。
歌の第五句「登り立ち」は斎み清めた身を、香具山の山頂に定められた斎屋(いおり)の中に 立てることをいうものと思われる。そのようにして、大和群山中とりわけすぐれて神聖な香具 山から国見をするので、天皇の目には躍動する自然が立ちあらわれることになる。その自然、 具体的にはその土と水とがともに生気に満ちて躍っていることを述べた表現が、「国原はけぶ り立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ」の対句である。「けぶり」は陸地一帯に燃え立つもの、 水蒸気や炊煙などを称し、「かまめ」は海原に飛び交う鴎をいうのであるらしい。このよう に、国土の原核であり、農耕の必須の媒材である「土」と「水」とが充実しているというの は、国土の繁栄、一年の五穀の豊穣が確約されたことを意味する。だから、一首はただちに 「うまし国ぞ 蜻蛉島大和の国は」と、高らかな讃美のもとに結ばれる。
さらに、伊藤博の論を引用する(注13)。
この歌には、「大和」が冒頭と末尾とに現われるけれども、冒頭の「大和」はむろん天皇が今 在り今目にするヤマト(奈良)である。だが、「国原はけぶり立ち立つ海原はかまめ立ち立 つ」をくぐりぬけたあとの「大和」は、映像を大きく広げて、天皇の領国全休を意味するヤマ ト(日本)に変貌している。奈良なるヤマトには「海」がない、したがって「かまめ」が舞う のは不思議だとする視野に立つ者には、この古代特有の詩想は理解できないのではあるまい か。天皇は奈良なるヤマトの池どもを「海」と見、そこに舞い立つ白い水鳥を「かまめ」と見 たのであろう。そのように思い見たからこそ、「うまし国ぞ」と称揚された末尾の「大和」 は、陸と海とによって成る “日本国”全体の映像をになうことになった。まえの「大和」には 枕詞がなく、あとの「大和」には枕詞「蜻蛉島」が冠せられているのも、このこととかかわり があろう。「蜻蛉島大和の国」は日本に対する神話的呼称の一つで、五穀の豊かに稔る聖なる 国の意であり、一首の文脈によく合う。
その緊張した構図、詩想の豊かさ、形象力のたくましさ、躍動する韻律、高らかな感慨等々、 どこから見ても、一首には万葉の暁鐘にふさわしい高鳴りがこめられている。それは、この歌 以前の記紀歌謡の国見歌などには「大和には群山あれど とりよろふ天の香具山」のような、 天皇の立つ環境の優位を示す表現がない点に思いを致すことによってもたやすく理解されよ う。日本の詩の原郷ヤマトの躍動を鮮明に造型した一首によって、万葉の朝が輝いたというべ きで、このことは、日本最古の抒情歌集『万葉集』の本質にとってすこぶる象徴的なことであ る。
鉄野昌弘は「舒明天皇の望国歌」の中で最後にこう述べている(注14)。
当該歌のような景の叙述の達成を承けて、対象を描写し、称揚する表現が定着すると考える方 が、可能性としては高いのではないだろうか。(中略)当該歌の内部に、叙景の契機を求める ことになる。それはやはり、「天の香具山」という聖なる山から見るということと関わるので はないか。「国原は煙立ち立つ、海原はかまめ立ち立つ」という景は、現実を超越した高みか ら俯瞰することによって、初めて歌いうるものである。(中略)「天の香具山」――私見によれ ば、天降って「群山」を身に従えた山――に登り立つという超越的視点を持ったことが、支配領 域の構成的な把握を可能にしたのであり、そこに生動する景物を立ち現われさせたのである。
その意味では、かえって政治的な国見の論理が、叙景の成立を促したということになろう。 「青山四周」の「大和」の中に、「国原」「海原」を現出せしめる当該歌の表現は、言わば言 葉の力業である。それは、ようやく興りつつある「天」のイデオロギー――天武・持続朝に「天 皇」の支配原理として完成するを背景にして可能になったものであり、なおかつそれを表現し 形成してゆくものであったように思われる。
当該歌の景は、むしろ実景ではありえないことに意味を持ったはずである。それが叙景を準備 するというのは、或いは逆説的でもあろう。初期万葉は、歌の言葉の力が現実を超えた新たな リアリティを作り出すことに気付かれ、それが信じられた希有な時代だったように思う。当該 歌の矛盾するかに見える表現もまた、そうした時代における一回的な詩的実験であったのでは ないか。
注
(1)万葉集二番歌の原文については、佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『補訂版 萬葉集 本 文編』(塙書房)二〇一二年版によった。
(2)鉄野昌弘「舒明天皇の望国歌」『セミナー 万葉の歌人と作品 第一巻 初期万葉の歌人た ち』和泉書院、一九九九年五月。(3)伊藤博『萬葉集釋注 一』集英社、一九九五年一一 月。
(3)伊藤博『萬葉集釋注 一』集英社、一九九五年一一月。
(4)阿曽瑞枝『萬葉集全歌講義(巻第一・巻第二)』笠間書院、二〇〇六年三月。
(5)多田一臣『万葉集全解 1』筑摩書房、二〇〇九年三月。
(6)土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』岩波書店、一九六五年一二月。
(7)土橋寛「 “見る” ことのタマフリ的意義」『万葉集と文学と歴史 土橋寛論文集 上』塙 書房、一九八八年六月。
(8)土橋寛「 “見る” ことのタマフリ的意義」『万葉集と文学と歴史 土橋寛論文集 上』同 上。
(9)土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』同上。
(10)青木周平「舒明天皇国見歌の神話的表現」『日本文学論究』四五、國學院大學国語国文学 会、一九八六年三月。
(11)伊藤博『萬葉集釋注 一』同上。
(12)伊藤博『萬葉集釋注 一』同上。
(13)伊藤博『萬葉集釋注 一』同上。
(14)鉄野昌弘「舒明天皇の望国歌」『セミナー 万葉の歌人と作品 第一巻 初期万葉の歌人 たち』同上。
本稿では、万葉集の巻一・二番歌(以下、「舒明天皇の国見歌」と呼称を統一する)を扱う。以下、まず原文をあげる(注1)。
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
天皇登二香具山一望レ國之時御製歌
山(やま)常(と)庭(には) 村山有等(むらやまあれど) 取與呂布(とりよろふ) 天乃香具山(あめのかぐやま) 騰立(のぼりたち) 國見乎為者(くにみをすれば) 國原波(くにはらは) 煙立龍(けぶりたちたつ) 海原波(うなはらは) 加萬目立多都(かまめたちたつ) 怜憾國曽(うましくにそ) 蜻嶋(あきづしま) 八間跡能國者(やまとのくには)
この巻一・二番歌においてはいったい何が研究史上で問題になってきたのだろうか。今回は、特に「国見」、「国原」と「海原」、二度登場する「大和(ヤマト)」に注目して論を進めていきたい。次に簡単に概略をあげておく。鉄野昌弘氏の紹介をあげる(注2)。
一三句からなる、この小長歌は、「高市岡本宮御芋天皇代」の標目の下におさめられている。したがって、題詞は、舒明天皇(五九三~六四一、在位六二九~四一)が、香具山に登り立って、国見をした時に作った歌だと記すことになる。
2、国見
まず、「国見」の語釈についてであるが、今回は、三つの注釈書を取り上げる。第一に、伊藤博『萬葉集釋注 一』(注3)、第二に阿曽瑞枝『萬葉集全歌講義(巻第一・巻第二)』(注4)、第三に多田一臣『万葉集全解 1』(注5)、である。では、三つをそれぞれの語釈をあげる。
①伊藤博→「国見」は高い所から国の有様を見ること。もと、春秋に五穀の豊穣を予
祝し感謝する儀礼。
②阿蘇瑞枝→国見は、春、山や岡など高いところに登って四方を見渡し、その年の穀
物が豊かであるように予祝する儀礼。そこでは、国を賞める歌をうたい、その実現を期待した。本来は民間の行事であったが、天皇の政治的行事としても行われるようになったらしい。ここは、天皇の国見儀礼でうたわれた歌。
③多田一臣→望国―国見。高所に登り、眼下の国土を望見してその繁栄を祝福するこ
と。農耕儀礼と説明されるが、もともとある土地に巡行・来臨した神の土地讃めの行為だった。天皇は神だから、国見の主体となりうる。
「見る」行為を通して「予祝」あるいは「祝福」という言葉が使われ、それは天皇による政治的行事であり、土地を誉めるといったことが挙げられていることがわかる。次に「国見」、それを歌にした「国見歌」についてみていく。まず、土橋寛の論を引用する(注6)。
国見歌の性格は、(中略)国見の予祝的性格によって規定されているのであって、花盛りや自 然の繁栄を讃める花讃め・国讃めが国見歌の主題であり、そうすることによって農作や村人の 繁栄をもたらそうとする呪術的性格が、国讃め歌の本質である。天皇の国見も、元来は支配下 の国土と人民の繁栄をもたらすために、それだけを独立に行ったもので、それが次第に政治的 意義に重点を置くようになったものであるから、その国見歌も基本的には予祝的な国讃めで、 素材の面に政治的なものが入りこんでいるにすぎない。
ここで確認すべきことは、「国見歌の性格」は「国」を「見る」ことを通しての「予祝的性格」によって規定されており、国を「讃め」ることを通して、人民の繁栄をもたらそうとする「呪術的性格」を持っているということである。この「見」ることの「呪術的性格」についてであるが、その前に土橋寛の提唱した「タマフリ」という言葉の意味を確認したい。再び土橋寛の論を引用する(注7)。
タマフリとは、今日の「身祝い」に相当する古語で、その場合の「タマ」は遊離魂や外来魂で はなく、生命力・呪力の観念を表わす語であり、タマをゆらゆらと振りおこす呪術が「タマフ リ」である。生気を失って萎えしぼんだタマに、花や青葉のマナを感染させて活気づけるのが タマフリであり、カザシ、カヅラなどはタマフリの呪物に外ならない。
では、この「タマフリ」と「見る」ことの関係をどのように土橋寛は論じているか。土橋の論をさらに引用する(注8)。
「国見」も天皇の儀礼となる前は、政治的区域ではない国土としてのクニを見る行事で、具体 的にはゆらゆらと立昇る雲、煙、陽炎などを、クニの生命力の活動する姿と考え、それを「見 る」ことが人間の生命力を盛んにするタマフリの行為と考えたのである。
では、「見る」こと=「タマフリ」の行為であると確認したところで、「舒明天皇の国見歌」との関連を見ていく。以下、土橋寛の論文を引用する(注9)
香具山の上から望見された煙や鷗の「立ち立つ」光景は、春になって地霊や水霊のしきりに活 動する姿として歌われているのであり、従って煙や鷗の「立ち立つ」姿を歌うことが、とりも 直さず国讃めになるわけである。「煙」は(中略)家々から立昇る炊煙が人の繁栄の姿として 歌われているものと解することも可能であるが、「鷗」と対比されている点からすれば、たと え炊煙であっても、雲と同様に、国魂の活動する姿として理解すべきものであろう。
さきほど確認したように「タマ」が「生命力・呪力の観念を表わす語」であるとするならば、ここで言われている「国魂」とは「クニ」の「生命力・呪力の観念を表わす語」と考えられる。ここで歌われていることは果たして事実なのか。少なくとも土橋寛は実際の光景として歌われているとは考えていないとも読める。ここで注目すべきは土橋寛が「煙」と「鷗」を「対」として捉えていることである。つまり、「舒明天皇の国見歌」では「国原」=「煙」、「海原」=「鷗」という「対句的表現」(注10)
3、「海原」と「国原」という「対」
先ほどの「国見」と同じように、「国原」「煙」「海原」「鷗」について伊藤・阿蘇・多田の注釈書を参照する(太字はすべて森尻による)。
①伊藤博→「国原」=広々と張りつめた大地。下の「海原」の対。「けぶり」は大地
から燃え立つものの称。水蒸気や炊煙など。「立ち立つ」は立ちに立つ、の意。「海原」=「国原」で始まる上の二句と対になりつつ、陸も海も、土も水も、すべてにわたって国土が充ち足りて盛んなさまを示す。香具山の周辺には、埴安、磐余など、多くの池があった。「海原」はそれを海と見なしたものであろう。「かまめ」=「かもめ」の古形で、その他のあたりを飛ぶ白い水鳥をかもめと見なしたものか。
②阿蘇瑞枝→「国原」=広々とした平原。「海原」=当時、香具山周辺にあった池などをさしていったもの。香具山西方に埴安池、西北方に耳成池、東北方に磐余池など。「かまめ」=カモメのことであるが、ここは、内陸に深く入る性質のユリカモメであろうといわれる。ユリカモメが、池の上を生き生きと飛び交っているさまをいう。
③多田一臣→水陸の景(補注として書かれている)=ここには、香具山から望見され
る国土の繁栄のさまがうたわれるが、それは実景ではない。香具山から 海は見えない。「海原」を山麓の埴安池とする見方が示されたこともあるが、ここは神の限差しの中に捉えられた水陸の理想の景がうたわれていると考えるべきである。
ちなみに、ここで伊藤・多田の前掲の注釈書によると、香具山の扱いは以下のとおりである。
①伊藤博→「天の香具山」=天から降り立った聖なる山、の意。香具山をほめていう。
伊予の天山とともに、天から降り下った山という伝説(逸文『伊予国風土記』)がある。
②多田一臣→「香具山」=大和三山の一つ。天から降ったという伝承をもち(『伊予国
風土記』逸文)、王権の存立にもかかわる聖なる山とされた。そこで、 「天の香具山」と呼ばれた。
以上のように、天皇にとって最重要の場所であったことがわかり、「国見歌」を残す理由も明らかである。
では、最後に「国原」と「海原」がなぜ「対」になって歌われたかを考察してみたい。そしてなぜ香具山からは実景としては「見る」ことのできなかった「海原」が当該歌の中に歌われなければならなかったのかについて考えてみたい。
伊藤博は「國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都」を引き、次のように述べる(注11)。
国土の要素を代表する「国」(土)と「海」(水)の両面から倭国の完全性を言挙した呪的表 現と見るとき、「うまし国ぞ あきづしま 大和の国は」と高々に結んだ声の大きさがすなお に了解される。「大和には 群山あれど」とうたいおこしたとき、「大和」は現在の奈良地方 でたしかにあった。が、国原と海原を経過したとたんに、「大和」は日本国全体へとイメージ を拡大したのである。この歌に枕詞が一つだけ用いられていて、それが結びの部分の「大和」 にかかわり、冒頭のそれとは無縁であるのも看過しがたいことのように思われる。
ここには、「国見歌」がただ見たままを歌うものではない理由が示されているとは考えられないだろうか、つまり見えないはずの「海原」を謡い込むことによって、天皇の支配権を正統化することさえ可能になるのである。さらに伊藤博の論を引用する(注12)。
歌の第五句「登り立ち」は斎み清めた身を、香具山の山頂に定められた斎屋(いおり)の中に 立てることをいうものと思われる。そのようにして、大和群山中とりわけすぐれて神聖な香具 山から国見をするので、天皇の目には躍動する自然が立ちあらわれることになる。その自然、 具体的にはその土と水とがともに生気に満ちて躍っていることを述べた表現が、「国原はけぶ り立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ」の対句である。「けぶり」は陸地一帯に燃え立つもの、 水蒸気や炊煙などを称し、「かまめ」は海原に飛び交う鴎をいうのであるらしい。このよう に、国土の原核であり、農耕の必須の媒材である「土」と「水」とが充実しているというの は、国土の繁栄、一年の五穀の豊穣が確約されたことを意味する。だから、一首はただちに 「うまし国ぞ 蜻蛉島大和の国は」と、高らかな讃美のもとに結ばれる。
さらに、伊藤博の論を引用する(注13)。
この歌には、「大和」が冒頭と末尾とに現われるけれども、冒頭の「大和」はむろん天皇が今 在り今目にするヤマト(奈良)である。だが、「国原はけぶり立ち立つ海原はかまめ立ち立 つ」をくぐりぬけたあとの「大和」は、映像を大きく広げて、天皇の領国全休を意味するヤマ ト(日本)に変貌している。奈良なるヤマトには「海」がない、したがって「かまめ」が舞う のは不思議だとする視野に立つ者には、この古代特有の詩想は理解できないのではあるまい か。天皇は奈良なるヤマトの池どもを「海」と見、そこに舞い立つ白い水鳥を「かまめ」と見 たのであろう。そのように思い見たからこそ、「うまし国ぞ」と称揚された末尾の「大和」 は、陸と海とによって成る “日本国”全体の映像をになうことになった。まえの「大和」には 枕詞がなく、あとの「大和」には枕詞「蜻蛉島」が冠せられているのも、このこととかかわり があろう。「蜻蛉島大和の国」は日本に対する神話的呼称の一つで、五穀の豊かに稔る聖なる 国の意であり、一首の文脈によく合う。
その緊張した構図、詩想の豊かさ、形象力のたくましさ、躍動する韻律、高らかな感慨等々、 どこから見ても、一首には万葉の暁鐘にふさわしい高鳴りがこめられている。それは、この歌 以前の記紀歌謡の国見歌などには「大和には群山あれど とりよろふ天の香具山」のような、 天皇の立つ環境の優位を示す表現がない点に思いを致すことによってもたやすく理解されよ う。日本の詩の原郷ヤマトの躍動を鮮明に造型した一首によって、万葉の朝が輝いたというべ きで、このことは、日本最古の抒情歌集『万葉集』の本質にとってすこぶる象徴的なことであ る。
鉄野昌弘は「舒明天皇の望国歌」の中で最後にこう述べている(注14)。
当該歌のような景の叙述の達成を承けて、対象を描写し、称揚する表現が定着すると考える方 が、可能性としては高いのではないだろうか。(中略)当該歌の内部に、叙景の契機を求める ことになる。それはやはり、「天の香具山」という聖なる山から見るということと関わるので はないか。「国原は煙立ち立つ、海原はかまめ立ち立つ」という景は、現実を超越した高みか ら俯瞰することによって、初めて歌いうるものである。(中略)「天の香具山」――私見によれ ば、天降って「群山」を身に従えた山――に登り立つという超越的視点を持ったことが、支配領 域の構成的な把握を可能にしたのであり、そこに生動する景物を立ち現われさせたのである。
その意味では、かえって政治的な国見の論理が、叙景の成立を促したということになろう。 「青山四周」の「大和」の中に、「国原」「海原」を現出せしめる当該歌の表現は、言わば言 葉の力業である。それは、ようやく興りつつある「天」のイデオロギー――天武・持続朝に「天 皇」の支配原理として完成するを背景にして可能になったものであり、なおかつそれを表現し 形成してゆくものであったように思われる。
当該歌の景は、むしろ実景ではありえないことに意味を持ったはずである。それが叙景を準備 するというのは、或いは逆説的でもあろう。初期万葉は、歌の言葉の力が現実を超えた新たな リアリティを作り出すことに気付かれ、それが信じられた希有な時代だったように思う。当該 歌の矛盾するかに見える表現もまた、そうした時代における一回的な詩的実験であったのでは ないか。
注
(1)万葉集二番歌の原文については、佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『補訂版 萬葉集 本 文編』(塙書房)二〇一二年版によった。
(2)鉄野昌弘「舒明天皇の望国歌」『セミナー 万葉の歌人と作品 第一巻 初期万葉の歌人た ち』和泉書院、一九九九年五月。(3)伊藤博『萬葉集釋注 一』集英社、一九九五年一一 月。
(3)伊藤博『萬葉集釋注 一』集英社、一九九五年一一月。
(4)阿曽瑞枝『萬葉集全歌講義(巻第一・巻第二)』笠間書院、二〇〇六年三月。
(5)多田一臣『万葉集全解 1』筑摩書房、二〇〇九年三月。
(6)土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』岩波書店、一九六五年一二月。
(7)土橋寛「 “見る” ことのタマフリ的意義」『万葉集と文学と歴史 土橋寛論文集 上』塙 書房、一九八八年六月。
(8)土橋寛「 “見る” ことのタマフリ的意義」『万葉集と文学と歴史 土橋寛論文集 上』同 上。
(9)土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』同上。
(10)青木周平「舒明天皇国見歌の神話的表現」『日本文学論究』四五、國學院大學国語国文学 会、一九八六年三月。
(11)伊藤博『萬葉集釋注 一』同上。
(12)伊藤博『萬葉集釋注 一』同上。
(13)伊藤博『萬葉集釋注 一』同上。
(14)鉄野昌弘「舒明天皇の望国歌」『セミナー 万葉の歌人と作品 第一巻 初期万葉の歌人 たち』同上。