~第十章 『真理は汝を自由ならしめん』~ 

イエスは『真理は汝を自由ならしめん』と言われました。人が宇宙に遍在するあの滔々たる力の流れの中に立つならば、何人も彼を妨害したり停止させたりは勿論、一指たりとも触れることはできないのであります。キリストとは、個人を通じて流れる神のことです。この態度を持する者はあらゆるものを活用し得るのであり、原理即神のすべてが彼を通じて流れるのであります。

然るに、われわれの場合この力が停頓し、不活溌で、反応を示さないのはどういうわけでしょうか。唯一の原因は、それに対するわれわれの態度です。この力が満身これ豊かに流れてはいても、われわれ銘々の物の考え方によっては、折角のこの力を活用することが阻止されてしまうものです。しかし、この力が自分の中を流れているのを自覚すれば、意識的にそれを働かすことができます。

イエスが父なる神と一体であると宣言した時、イエスは、人間全部がイエスのようになれるし、又実相においては既にそうである事を知っておられました。われわれがどのような消極的な状態にまき込まれたとしても、真理はわれわれをそれから解放してくれます。消極的状態を造り出すのも自分だし、考え方を変えることによって自分を消極的状態から解放するのも自分なのです。

イエスはこの自由を実現する学を知っておられました。個人個人が真理を把握するにつれて、人類がより大いなるものを成就することも知っておられました。われわれは人間の可能性を漸く知り始めたところです。科学の世界を通して、いろいろな変化が生じつつあります。科学者がもしハッキリと原理に従って仕事をするなら、その研究はもっと効果的に、しかも速やかに成就することを理解しつつあります。

このような態度によって彼らの仕事は単なる推測の状態から抜け出しつつあるのであります。神を貶(おとし)めることが死であります。神の貶めによるものの外に死はありません。イエスは神に向かうべき道をわれわれにこう示して下さいました。『あなたの情(おもい)を尽し、魂を尽し、心を尽し、力を尽して、神を崇めなさい』と。

神を崇めんがために、われわれは外部の状態に拝跪し、およそ考え得る限りの偶像を造り上げて崇拝するに至ったのです。しかし、われわれは吾が裡よりこそ神を現さなければならないのです。そうすることによって全世界に神を提示するのです。わたしたちがこのような話をすると、その権威をどこから得たのかと聞く人が沢山います。

それを知りたければユダヤの聖書〔ヘブライ語の旧約聖書〕とヘブライ語辞典を取り出して、自分で翻訳してみるとよいのです。創世紀第一章に、数百万年にわたる進化が完全に叙述されていますが、その中で人類の偉大なる時期が幾つかあったことが分ります。ところが、最初の教えが曲げられたために、人間は神の配慮より疎外され、物質の中に住み、物質を通じて働かなければならない、と教えられてきたのであります。

しかし、決して神は、人間を神の外に投げ出しはしません。人間はいずれは死すべき果敢ない存在であって、祈りと宗教形式に従うことによって神に取り入らなければならぬという幻(まぼろし)は、人間自身が造り上げてしまったのです。しかしわれわれがどんな態度をとるにせよ、完全なるものを変えることはできません。このことは常に炳乎(へいこ)として明らかなる真理であります。

われわれが自分のこの肉体を自分の想念でどのような形にしてしまおうと原理自身にとっては何ら問題ではありません。肉体を不完全なものと考えてその通り造り上げても、原理自身は些かもそのために改変はされないのであります。われわれはあらゆる疑いを持ちたいと思えばそうもできます。しかし何時かは真理が浸透するでしょう。

われわれが一切の懐疑を棄て去った時、始めてわれわれは故里である完全に戻るのであります。われわれの救世主はわれわれ自身であるとイエスは言われました。人はよく神よ、赦し給え、などと祈るが、一体完成された愛に何かを赦すという事がどうしてあり得るでしょうか。完全な原理が何かを赦すということがあり得るのですか。

われわれはこのような神性より背離した自分を、自分で赦すのみなのです。現代のこの大いなる人類は、まさにキリストの大いなる訓令を受ける、即ち各個人に宿るキリストを認容する時点に立っています。もしわれわれが完全にキリストなる原理に向き直り、破壊的想念ではなく、キリストにふさわしい属性を示すならば、その素晴らしさを改めて認識し、ひいては人類全体の性質を変えることになるのであります。

われわれは今やこの一大事に直面しているのです。現在われわれの置かれているこの大いなる時期は、キリストが再び支配者として立ち現れ給う劫期の完成する時であります。キリストは常に征服者であり給う。聖書全体がこの時期を指し、その状態を明らかにしているのであります。

その状態とは即ちキリストの出現、即ち又われわれすべてに内在するキリスト・実相神我の顕現であります。以上の真理を受け容れた瞬間に、この肉体は光体となります。その時われわれは久しくも長きに亙って気付かなかった内在の力及び宇宙力を利用し始めるのであります。
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今やわれわれは約百五十年前にその頂点に達した自然哲学者の所謂、黄金時代を通過し、自然のもろもろの驚異と、自然に投映された完全なる神の計画を、十分に認識するに至ったのであります。この神は同時に又、人類一人一人の中に、そうして又、一つ一つの樹木・草花の中に実存するのであります。

尤も、鉱物の場合は生命はあるが、鉱物になる以前は或る特殊の存在の影響の下に全く違った領域にありました(1)。人類全体が精神能力を活用して活溌にコントロールするようになれば、精神にはあらゆる原子、あらゆる惑星をコントロールし、創り出す能力一切が実存することを知るでしょう(2)。これこそは至高の英智、即ち、一切の上に、一切を貫き、一切の創造主である神の智慧であります。

人間は一切の真実の支配者且つ創造者である神の中に永久に相即即入しているのであります。然るに人がこの崇厳なる神の経綸に背離し始めるにつれて、この背離思想がいろいろな虫、否、有毒なものまでを創り出し、それらがのそのそ這い廻って人類を苦しめ、時には彼自身や相当数の人間を死にまで至らしめるのであります。

しかし何千万という人々が逆の想念の使い方をしたところで神のプラン全体には些かの影響もありません。成る程一見したところでは、大部分の人類に影響を及ぼすように見えるかも知れないが、神はすべてを完全に調和に保ち、誤つことなく、もとのプランに合わし給い、原子の一個たりとも配置を誤り給うことはないのであります。

然らば、人類の無限の智慧、一切の上に一切を通じて支配している無限の神性の集約点ともいうべきかの一個の細胞から、如何にしてすべてが生じてきたかを考えるのは、果して難しいことなのでしょうか。この無限の智慧は、宇宙が出現し始める遙か以前より支配していたのであります。では、わたしたちはこの大いなる智慧をこそ、唯一の根源として崇拝しようではありませんか。

更に又、われわれ自身をもこの唯一の根源として崇拝しようではありませんか。その理由は、かくして始めてわれわれは神と一切とを明確に把握し得るからであります。この真理を絶対的真理・絶対的事実として飽くまでこれにしがみつき自分のものとしない限り、われわれは自分の存在が本来完全なものであるという肝腎な点を見誤ってしまいます。

キリスト(実相・神我)の誕生は、聖なる原理の特別の配慮によるのであって、それが全人類、即ち肉身を現ずるキリスト・神我の創成なのであります。これこそ聖母マリアが予見した真の不染受胎(3)であります。そして生まれ出づる子等すべてがそうなのであります。人類すべてが久遠に朽ちることなき真のキリストであります。

故に又、全人類は本来久遠不死、真実の神なのであります。宇宙創造と生命誕生の神秘を観てごらんなさい。八億年昔に遡ってみれば、当時の人類(4)一人一人の中にこの神なる原理即キリスト(神我)の支配している相(すがた)がわかります。この時点より現代に下ってみても、当時と同じように内在のキリストが正当に司令し、支配している事がわかります。

この真理が如何に無智な、消極的、俗な考え方で蔽われてきたとしても実は大した問題ではないのであって、万物を維持し又維持しつつあるこの真理をたとえ垣間見(かいまみ)ただけでも、その瞬間に想念の流れ全体がその有益な影響を受けて好転するのであります。

地球の上空に適当な距離を置いて濃厚な酸素層を置き且つそれを維持し、それで太陽から来る生命線を濾過(ろか)して、その量を地球上に生存する生命体の維持に適当なものにする防禦楯の役割を果させているのも、実はこの力なのであります。

人類にこの大いなる愛の働きが解り、人間一人一人に対してそれが何を意味するかが解るならば、キリスト原理は直ちに全人類の中に再び急速にその力を回復し、かくして人類は、誤ることなく、正しく、完全に一切を支配している唯一至高の神の英智こそがすべての根本をなす原理であることが解り、もはや虚構の神々、彫られたる神像などを掲げることはなくなるでしょう。

かくの如くして一旦この完全な真理、言いかえれば、一切を見えざる背後より動かしている目的が究極には同一である(unit of purpose)との真理を把握した以上は、たとえ時には感情の嵐その他の不調和の状態に遭うにしても、もはやこの真理より逸(そ)れることはなく、むしろ常にこの感情の嵐を超越し、不変不動、屹然(きつぜん)として立つに至るのであります。

こうして平静沈着の徳が確立すれば、もはや二度と動揺することはなくなるのであります。何故なら、われわれの想念をこの力に開放して全心身を流れるようにすると、想念はその神化の力に侵され、心は再び平静となり、かくて時間と空間とを完全に超越した唯一の神の器となってしまうからです。かくしてわれわれは神智原理なる美わしき園の中に回帰したのであります。

即ち、ここ地上に、まさしく全天のもろもろの美が実存し、これより後も又常に実存し続ける、その地上に安らぎを得るのであります。これこそが各人の中に宿る綾(あや)に妙(たえ)なる楽園なのであります。無窮の智慧なる神を見出すには、真直に自分自身の中に沈潜することです。

全心をこめてそれを為し、神とはまこと吾の謂(いい)であり、吾が全心身即ち神であると悟れば、いかなる問題に対しても回答が出るようになり、久遠恒常不動にして全智となるでありましょう。ここにおいてあなたは常に平安にして、自分が即ち一切であり、一切を知り、一切を与え得るものであり、一切の真理であることを見出すでありましょう。

更に又、人間一人一人が自分と全く同じであると知り、そういう人々に自分と全く同じ特権を与えることが欣(よろこ)びとなるでありましょう。以上の真理を一貫して把握し、これによって一切の障害を克服し尽くした自覚が出れば、もはや欲するがままに去来し、欲するがままに作為し、すべてのものに言葉を以て神性を鼓吹することができるようになり、もはや何を考えようと考え方に限界を設けることがなくなるでありましょう。

この境地に達するまでにどれだけの時間を要するかは、あなた自身にあります。実をいえば、瞬間にして達成されているのです。故に、真我なる神の中に在って悦び、すべての限界を棄て、一瞬が即ちそのまま久遠であることに思いを致すことです。『神よ、吾、豊けく満ちて自由なる生命(いのち)と光り、完全なる豊かさと富と力、一切の障害を超えて自由なるを、貴神に感謝し奉る。』

この祈りを為すに当っては、何時も自分の完全なる肉の宮を考え、自分が今見ているこの体が神であると知ることです。自分の肉体を見ている時は、自分の完全円満なる神の宮を観ているのです。皆さんの肉体は、凡そ形を取ったものの中での最初(いやはじめ)の宮であります。故に、神が住み給う宮があるとすれば、皆さんの肉体こそが第一にして最も純粋なる宮なのであります。

であってみれば、なぜこの完全なる神殿を愛し又拝しないのでしょうか。そう申す所以のものは、これを神殿として愛し拝することによって、この神殿が完全なることに改めて気付くからであり、又、愛すること、思うこと、受け容れることが真の崇拝であるからであります。生ける神のこの宮の如きものは、未だ曾てあったためしがないのであります。

人の手を以て建てられた如何なる宮も、この肉の宮には比すべくもありません。前者は人の心が考え出し、案じ、建てて成形したものであって、この美しき肉の宮の機能の一つだに遙かに及ばず、やがては朽ち果てるのであります。途中の営みに何ら思い煩う必要もなしに食物を摂取してはそれを生命に変えるこの肉体なる化学工場のような働きを為しうる工場は、世界のどこにもありません。

或は又、新しき生命体を生み出すが如き、――これによって人類は永遠にその存在を持続するのです。更に又、行為し、動き、語り、現在・過去・未来を覚知するのは勿論、一筋の筋肉を曲げること、更に又、建設し、築造し、出講しては蘊蓄(うんちく)を傾け、繁栄への援助をなし、善なるもの、高尚なるもの、名誉あるもの、崇高なるものを与える、等の如き――。考えてもみなさい、この肉の宮の他に、これらのすべての善価値を与え得る神殿があるでしょうか。

あるとすれば、それはただこの栄(は)えある肉の大神殿によってのみであります。それは最初にして唯一の人の手によらざる神殿であります。この栄えある肉の形、この神性なる形、完全に自らを新たならしめるこの神殿体に神が住み且つ安らぐのを特に撰び給うたことに、一体何の不思議があるのでしょうか。

然るに、かくの如き肉体が如何にして、且つ又、何故にかくも貶(おとし)められたかを、沈思熟考してみようではありませんか。

それは、われわれが、神を冒涜し、偽りに満ちた無智にして自利のみを追求し、真の智識をただ生噛りした徒輩によって、この肉体は虚弱であり、罪に満ち、不完全・劣等・異常であり、病み易く、果ては死に至るものであり、不義の内に孕(はら)み、罪の中に生まれたなど、その他およそ本来不滅なるべき人間が誤って考え得る限りのもろもろの謬想を吹き込まれて来たからであります。

では、先ず第一に過去を調べて、かかる教え・思想・言葉が何処で如何にしてわれわれを罪・二元論・病・失敗、そして最後に最大の不名誉である死という恐るべき渦巻と毒気の中に溺れしめたかを考えてみましょう。更に又、この不誠実も甚だしい裏切りの結果どうなったかを明晰なヴィジョンを以て観取し、且つそれがどの程度にわれわれ、即ちこの完全なる肉の形をとった神を、侮辱するに至らしめたかを調べてみようではありませんか。

調べ終り、その実態が明らかになったら、その瞬間よりそれを赦し、赦すことによって忘れ去り、われわれの生活・思い・行い、並びにあらゆる体験から無くしてしまいましょう。更に又、赦し忘れて、潜在意識よりその跡形もなくなるまで消し去りましょう。大体そういうものは波動であって、波動としての勢力をもつために、幾度となく繰り返して放射され、丁度写真の場合のように意識に焼きつけられ、結局それを本当のことと信じ込んでしまうもので、これが潜在意識における想念の在り方であります。

あなた自身または友人その他どんな人にせよその人の写真はその人の肉体の波動の記録にしかすぎません。想念や言葉が波動を起こして潜在意識に記録されるのも同じことで、それがあなたという意識の主体に対しても繰り返す力があるわけです。そこでわれわれは、このように人間の価値を下落させる非真理を受け容れ、信じ、果ては崇拝するところまで自分で自分を馴致した過程を暫く考えてみようではありませんか。

それからほんの暫くの間でよいから、われわれがこのような非真理の言葉を聞いたことも教えられたこともなく、従って又われわれの語彙の中にそれが忍び込むこともなかったと仮定してみましょう。そうなれば、われわれはかような非真理を決して知ることもなく、受け容れることもなく、学ぶことも、信ずることも、崇拝することもない筈です。

かような非真理でさえ学び信ずることが出来る以上、ましてそれが潜在意識から浮かび上がってきたり繰り返されたりする都度、その退去を要求して潜在意識から追放することも大いに出来る筈です。では、かくの如き非真理には只こう宣言しましょう。『君なんか、もうすっかり赦したんだから、わたしから完全に離れてしまえ』。

次に潜在意識にこう言いなさい、『そんなものなんか全部追放して一切受け付けるな、ただわたしの発する真理だけを受け付けよ』。若さ・美しさ・清純・神性・完全・豊富といったものは、現実にそれを見、感じ、聞き、知った上で、然り、それを崇拝した上で理念と言葉と行いと、その他の方法で表現しない限りどうしてそれを現実化することができましょう。

そうすることによって吾々はそれを潜在意識に印象づけ、潜在意識はこの印象づけられた心象から理念として波動を起こし、それが現在意識に反射するのであります。そうしていると、以前に潜在意識に押しつけられた非真理よりもこのようにして今与えられつつある真理を繰り返す方が、潜在意識としては仕易くなっていることが間もなく分かるようになるでしょう。

潜在意識に愛と崇拝の心を以て真理を印象づければ印象づける程より強くそれを反射してくれます。これ即ち主(マスター)たる所以であります。というのは、今や非真理を赦し放つ事によってそれが克服されたことを知ったからであります。もはやあなたは非真理を超絶したのであります。すでにして非真理は赦され、忘(ぼう)じ去られたのであります(5)。

自分の言う事が絶対的真理であると確信した上で自分の肉体、自分の潜在意識に語れば、潜在意識はそれを外部に描き出してくれます。何故ならば、肉体に語りかけることが真理でなければ、肉体を所有することもなく、考え、動き、語り、感じ、見、聞き、息すること、総じて生きることは決して出来ない筈だからであります(6)。

次に、世界における最大の特権はすべてが本質において同じであり、且つ自分の持っている力と同じ力を持っていると知ることです。彼らは自分と同じように同じ力を持ち、自分と同じように実相においてはその力を失ったことはないのであります。自分と同じように彼らもこの力について間違った考え方をしたことがあるかも知れないが、しかし力そのものは決してそれによって変化もしないし、減ったこともないのであります。

何故ならば、自分の方が変化して、正しい考え方をし、正しい言葉を出し、正しい行いをするようになると、この力が体内を流れるようになり、その妙(たえ)なる反応がすぐに感じられるからであります。若さとは以上のことを完全に為す力の謂(いい)であります。皆さんはこれまで自分の想念の力を限定してきたのです。

しかし何時の間にか閉じ込められてしまっていたその殻をただ打ち破ればよいのです。そうすればもはや皆さんは自由の身なのです。まことにも、『真理を知れ、然らば真理は汝を自由ならしめん』(7)であります。

        質 疑 応 答 
問 あなたご自身インドに住まってあなたの著書にあることを肉体の上で体験したというのは本当ですか。
答 わたしたちには霊体のままでの移動は自力では全くできないし、普段は現在知られている物理的方法以外の方法で移動したことはありませんが、体験としては事実です。

問 何処ででもイエスに接し得るとお分りならば、何故このような真理を発見しにわざわざインドまで行ったのですか。
答 わたしたちはその目的でインドへ行ったのではありません。

問 あなたはご自身の肉体で移動したのですか。それとも霊体で移動したのですか。
答 わたしは霊体については何も知りません(8)。しかし何時の間にか肉体のままで移動していたことは度々あります。どんなにしてそれが起こったかは分らないが(9)、しかし起こったという事実は又やれるという一つの証拠です。結局、それは如何なる正しい方法で取りかかるかということにしかすぎません。

問 赦しに欠けると愛の力が限られてしまうのですか。
答 愛や赦しや原理には限度はありません。わたしたちはあらゆる悪しき状態に対し、あらゆる方向に対し、愛と赦しと原理とを活用することができるのです。悪しき状態など放下して原理に戻ることです。放下することが赦しです。赦した瞬間にもう原理に立ち戻っています。

訳者註
(1) 神智学でいうエレメンタルか。
(2) 人間は真に神より出でて(INVOLUTION内転)神に帰る(EVOLUTION外転)故、実相神我の顕現程度に応じて、宇宙経綸中のより大なる業を担当するようになり、事実遂には星雲(島宇宙)の創成とその主宰を成すに至り、更に又神に向かって進化する、と「道」の科学は教える。
(3) 肉によって生ずるのではなく、霊によって生ずること。要するに、神霊の下生。
(4) 既成考古学によれば、人類の出現は数十万年にしか遡れないが、それは研究不足のためである。
(5) マスターには「主たること」と「征服」との二義がある。
(6) この項の後半の意味不明。識者の教示を乞う。
(7) ヨハネ伝八章三二節。
(8) 本叢書の大師方は、人間は本来神と一体であり全一であるから、人間の意識や人体を分析して理解することは自己限定への自己催眠に導くという指導をしておられる(本叢書、特に第四巻全巻参照)。従って原著者としては肉体・幽体・霊体云々の分析智を得ようとはしなかったのであろう。
(9) 大師たちが純霊の強烈なる想念を起こせば、その波動圏内にある者の肉体(及び意識)も自然にそれに強調する。すると肉体の低い波動は一時的により高い波動と置きかえられ、それは一時的に変成している。その時、客観的には肉体は消滅したのである。