~第十七章 因果の超克・キリスト誕生の歴史~ 

リシの話は続く、『しかし、目は見ず、耳は聞かなかった。又、神が神を愛する人々のために備えられたものも、人の心の中には這入って行かなかった。』(コリント前書、二章九節)と書かれているが、それは、『神のキリスト(神我)を愛し、神のキリストを現すものたちのために』と訂正すべきです。生命の原理、即ち生命の目的を悟るものは少ない。

理解原理(Understanding Principle)とはすべてのものの下(under)に立つ(stand)ところのもののことで、重要なものです。従って、『汝の得るすべてを尽くして理解力(understanding)を得よ』とは正しい格言です。すべてのものの下には、理解力のある意識を持った目的が横たわっている。ソロモン(1)に数々の知識と富等をあざやかにもたらしたのもこの理解力でした。

彼は理解の基礎となるものが与えられるように、又、理解する情が自分に与えられるようにと願ったのです。それが彼に大いなる英智の泉を開き、彼を大いなる権力の座に導き、彼に大いなる富と名誉とを与え、千もの大いなる才能をもつ王と称せられるに至らしめたのでした。このことが譬喩的に『ソロモンの千人の妻妾』と言われてきたわけです。

ソロモンの時代には、妻一人は一つの大いなる才能、即ち、宇宙の前史とその人類全体及び各個人との関連を予見するところの力の象徴でした。これらの才能をその国民の利益のために投げ出して使ったとき、彼の倉は『猶も三千』増加し、彼を謳った歌は『千五百であった』。『しかして神はソロモンに彼の大きさを遙かに越える程の英智と理解力とを、海辺の砂のごとくにさえ与え給うた』のです。(烈王記前書、四章二九-三二章)

ソロモンは単なる文字通りの王でもなく、仮の王でもない。彼は自分みずからとその家とを心配する王であった。この王位を彼は保ち、王座よりその智慧を求めるものに、愛と理解と英智と正義と豊かさとを施したのです。その頃は全人類が外に求めていた。それに応えて彼は愛と理解力と英智と正義と豊かさとを与え、更にはその千倍の返しを受け取ったのです。

国民を『鉄のごとくにまっすぐ立つ棒』で始めたというが、それは誤りを決して犯すことのない律法の象徴だったのです。真我を出して神原理に従うべしという神理、即ち法則(ロー)、従って又、主(ロード)〔これのみが神のキリスト(神我)の富が如何にその質量ともに無限であるかを知る〕に従う時、法則即主の報いる富は、彼の与えたものの一万の千倍にもなって彼に帰り、流石の彼の王国(全地がその王国であったが)も、これを容れることができなかった。

受けることを考えずに与えよ。そうすれば、その報いは測ることもできぬほどとなる。まず神に、しかるのち全地に愛を与えるのである。その愛があなたに還るとき、それは全地球を回り、一万の一千倍になっている。幾百万となき人々の思いの中を通り、各人がそれを一万の一千倍に増やしたとき、それが還流すれば、一体地上に、それを収めうる余地があるであろうか。

この行き方によってのみ地球は解放され、その結果、地上天国が実現し、調和が至高なものなして君臨する。ソロモンはこのことを理解、英智、正義、豊かさと大きな歓びをもって実行せよと、自分自身に命令しました。その結果、どういうことになったか。地球は豊かな富を収納できなくなった。そうなれば、もはやそれは地球ではなく、天国である。ソロモンの時代の人々が彼を大王、神と呼んだことに不思議はありません。

人々はソロモンが必要なものは何でも与えることができると思って跪いて彼を礼拝したが、ここに彼らの誤りがあった。実は彼らはソロモンが彼らの見倣うべき模範であることを悟らなかったのです。神はソロモンに語り給うた、『全地にあなたのようなものはいないであろう』と。たしかに地上には、彼の如き人物は二人とはいなかった。

なぜなら彼は既に地上の身分を放棄していたからです。天上の身分こそが彼のものであり、彼の部下の諸候もまた同じく天上の身分を持して、ソロモンと同じく王者らしい統治をしたのでした。ソロモンは神を顕現したそれが人間の遺産であり、彼の国民はそれに倣うべきでした。そのような大王が、自分の部下の諸候を一人でも死罪に定めることがあるであろうか(2)。

もしそうすれば、彼は自分自身を更に一万を千倍にした死罪に定めることとなる。かくの如く、愛と智とを以て治める王は、他の諸侯を統治したのではなく、他の諸侯と共に公正な統治をしたのであります。従ってそこには、何ら絢爛豪華(けんらん)に外部を飾って威圧したり、誇示したりする必要はない。彼は王冠を見せることさえ要らない。

もともと人類はみな王冠については知っているのである。かくのごとき王こそ真の支配者――少数の支配者ではなく人類各成員と共に統治する支配者――である。人々は彼と共に支配する。これこそ至高の君臨をなす人にして神である。これこそがイスラエルの家である。この家がやがて木となり、根となり、枝、梢、葉、花となり、馥郁(ふくいく)たる香り、即ちすべての種族の精随となる。

そのような種族が曾てこの地上に生存したことがあるし、また再び生存するようになるであろう。わたしはあなたたちに告げる、迷う必要はない、天国はすでにここにある、ここを各人が天国にすると意志さえすれば。人は神のお召しに耳を傾けることを拒むから、死んではまた生まれ変わって試練や苦悩多き人生に戻ってくるのです。

そして又、いくどもいくども死の門をくぐって、ようやく最後に教訓――即ち、絶対的な霊的知覚という岩の上にこそ、全人類という家族の家は建てられるのだという教訓――を学び取る。そのような人々には、死も存在しないし、死を繰り返すこともない。故に因果(カルマ)の法則は存在しない。因果とは結局、不調和〔老・病・苦・死など〕の実現を目的とする報復に他ならない。

報復に代えるのに自我放棄を以てせよ。そうすれば因果の動因は矯正される。なぜなら、因果はそれを発現させようと決めてかかってくる人たちの思いの中にのみ存在するからである。原因をとり除くか、それを一層高い状態で取って代えれば、低い状態は消える。かくして、あなたたちは自分の体のヴァイヴレイションを、因果を招く状態よりも昇華させたことになる。

そうしない限り、死んだところで因果は決してなくなりもしないし、破壊もされず、消えもしない、かえって死によって因果が加わり、幾層倍にも増大し、結局、各個人個人の上に大浪のうねりの如くに積み重ねられてゆくだけです。死と生とを放下した瞬間に、これらの因縁因果から解放される。かくして二つとも消えたのである。

消えたのであれば、それは忘れ去られてしまうだけである。この段階で、生命が絶対に永続するということを把握して、それを実現することができなくても、死という誤りに対しては生まれ変わりという最後の救済策があります。生まれ変わりは死というお先真っ暗な径の導きの光です。

この光の導きによって、何回も何回も地上の体験を繰り返すことによって、遂に死を克服し得るようになります。これらの体験が教える教訓によって、われわれに課せられていたもろもろの信条や独断(ドグマ)、神から来るものではなく、実は人間が造り上げたものであったことに目覚め、かくしてそれらの虚構を遂に放下する悟りに達するようになる。

そのとき、わたしたちは神の全栄光、父の家、即ち人造の信条や迷信の混入していない自分自身の神我という家、遙か遠くをさ迷い歩いたために朧にしか見えなかった光、しかしそれにも拘わらず、常に明るく輝き続けている光、の中に再び歩み入ることができるのである。この家に再び一歩一歩近づく毎に光はいよいよ明るくなり、遂に中へ入ってみれば、今まで我見のために微かにしか見えなかった光が、もとから持っていた温かさと美しさで輝いているのに気づく。

ここで改めて静けさと平和と安らぎとを見出し、思うがままに、心ゆくまでにそれらを享受する。今にして思えば、放浪を重ね、信条や迷信の虜となる前にこの家に入っておれば、とっくに自分のものになっていた筈である。しかし、始めからそうなのではあるが、径の終わりでも又、すべての誤ちは忘れられ、赦されているのです。

『汝ら静まりて立ち、汝らの中なる主の救いを見よ』。もろもろの現象の中にあっても心の全き静けさを保ち、あなたたちの真我である主なるキリスト(神我)が為し給う完全な救いを見ることです。このようにして、わたしもアブラハムが遙か以前に利用した法則を覚知し、又、それについて述べてきました。この法則はその時代も今も同じように真理であります。

現象は元来、想念や言葉や行いのままに、信念の程度に従って形をとるものです。もし現象がよくなければ、その矯正法は『想いを変えよ』ということです。聖書が原文から今の形に翻訳される際に、丁度多くの偽りの予言のように多くの誤りがありました。それは翻訳者たちが自分の取り組んでいる文字や象徴について理解が欠除していたためです。

しかし彼らは一応良心的ではあり、理解しうる限りたくみに訳出はしてあるので、その程度の誤りは一応は寛容できるけれども、それ以上の大部分が、『イズラエルの家』の原始福音を神秘めかし、歪曲し、破壊するために仕組まれた唾棄すべき虚偽なのであります。

イズラエルの始めの名はイズーラエル(3)であって、水晶、即ち純白の人種という意味であり、世界に住みつくようになった人種の中の第一番目の人種、原始又は原人種で、他の人種はすべてこれから派生したものです(4)。この人種は又、純粋光線の人種、光、または光条を意味する人種ともいわれており、アーリャ人種(5)はこれから起きたものです。

聖書をこのように歪めたのは、大部分が紀元一世紀と二世紀に始まり、特にダニエル書、エズラ書、ネヘミヤ書に対してこの攻撃の手が向けられたものです。誤謬はさらにジョゼフズの初期の著作やその他の書にまで及び、その当時までは実存していた有名な諸資料や、その以前に起こっていた幾つもの事例をかくすために故意に仕組まれたことを、明らかに物語っています。

更に又、人間の意識が出現して以来、イズラエル人によって保存されてきた明確な年代記述の方法や歴史を破壊するためにも、この幾つもの虚偽がなされたものです。真実の事件について嘘の歴史を数千も書いて原文とすりかえ、こうして真実の歴史資料が大部分ゆがめられ抹殺されたのです。このアトランティス人種の直系であるアーリャン人種は、前に述べた年代記述方法を使用し、更にそれを純粋な形で維持しました。

この年代記述方法を使用すれば、これらの贋造や変用はたやすく見破ることができます。この方法でわたしたちは、本当の完全なユダヤ年表を造って持っています。これらの虚偽はソロモンにまで及び、更に彼の妻妾たちの家(単数)、イズラエルの十の種族の家(単数)、その指導者、教師、顧問官等にまで及んでいます。

この十種族の家(単数)が二つに分化した後、宗家筋の王国は『イズラエルの家』或いは『イズラエルの王国』といわれ、別れた方の王国はユダヤの種族といわれるようになりました。この種族はイズラエルに属してはいたが、そのすべてがイズラエルというわけではありません。アブラハム、イザク、ヤコブをユダヤ人というのをよく聞くが、これはよくある誤ちというだけでなく、破壊行為でもあるのです。

ユダヤの子孫のみがユダの名にちなんでユダヤ人と呼んでもよいのであって、ユダヤ人という言葉はもともとイズラエル十の種族の家にも、又イズラエルの十二の種族にも決してあてはまらなかったのです。イズラエル人はユダヤ人ではないが、ユダヤ人はイズラエル国民の一種族でした。ユダの種族がパレスチナを去って、囚人(とらわれびと)となった時に、ユダヤ人という呼び名がこの種族に使われました。

現在『ユダヤ人』という名で知られている人々は、幽囚から放たれた後にパレスチナに戻ってきたユダの種族の残民なのです。彼らの中には周辺の国民と血が混ざったものも沢山いて、現在ユダヤ人と自称している人々には、本当のユダヤ種族の血液は三分の一以下しか入っていないのです。どの国でもユダヤ人はユダヤ人だけで、永い間固まって生活してきているが、ユダヤ人がイズラエル人、即ちアーリャ民族に混ざって生活していた時は、彼らは繁栄したものです。

ユダヤ人の剛直さも、実はこのイズラエル人に負うています。従っていずれ時がたつにつれて、ユダヤ人は結局自分達の保護と救済をこのイズラエル人に対して求めなければならないことを悟るでしょう。ユダヤ人自身としては、自分達の家を治める方が適当なのです。ユダヤ種族のうち、イズラエル人に加わって共にヨーロッパ中に散らばって移住した人々は、現在『ユダヤ人』といわれている種族の一部とは違います。

この人々は、英国の諸島その他や、地中海の海岸沿いに定着した他のイズラエル人と全く見分けがつかなくなっています。それは相互結婚や環境によって種族の特徴がなくなったからです。わたしはこの種族の者なので、その辺の事情が分かるのです。ユダヤ人たちはわれわれと一緒に暮らしているから、その歴史を一歩一歩各時代ごとに、『ユダの家』よりユダの種族に至り、更に現代に至るまでの跡をたどることができる。

彼らは偉大なる種族としての顕著な象(しるし)のひとつを持っています。即ちそれは、この偉大な種族が離散分散する前にそうであったように、神なる理念を保持し、種族の成員一人一人が裡なる神のキリスト・神我に従って全種族が復元し、一種族となることを目指すことです。

イズラエルがエルザレムから移住した足跡をたどるのは難しいことではありません。英国の諸島に定住した人々の足跡はすぐに判別ができるし、ダン〔パレスチナの北部の古都=辞書〕の種族の場合もそうです。要するに、その名前や歴史や定住した場所で、すぐにそれと分かるものです。この種族に因んで名づけられたダニューブ河は、今では自由に船の出入りできる碇泊所となっています。

この種族が更にいくつかの種族に繁殖分散して、デイン人、デュート人、ピクト人その他の名前をつけられ、この河を経由して後に英国にやってきたわけです。同様にして又、スカンジナヴィア、アイルランド、スコットランド、その他の国々に移住し、また英国に、後にアメリカに移ったのであるが、アメリカに到着したことは以前の本国に帰ったことになるわけです(6)。

しかしこのイズラエル発生の地アメリカでは、種族の特徴が急速に失われ、言語も一つに成りつつある。しかしその言語は、彼らが出国の頃に話していたもとの言語になるでしょう。彼らは故国を忘れて、長い長い間流浪してきたが、今や故里に再び戻ってきたのです。その故里の土地は南アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、南洋諸島までのび、更に又、日本と中国にまで及んでいます。

日本人と中国人はあまり移住をしてはいません。彼らの故国はムー大陸で、ムー大陸が海底に沈没する前に、この母国から移住した重要な種族の分かれなのです(7)。元来ウィグール、即ち、放浪の種族と呼ばれ、大蒙古族の先祖に当たります。白人種が最高の文明に達したのは、このムー大陸においてでした。この白人種は放射エネルギーを使用することによって、原子のエネルギーを解放して有用な仕事をしたり、また人体浮揚も開発して、或る地域から他の地域へ自分自身を移動させたりしたものです。

彼らの物の考え方は異教徒の礼拝形式、信条、独断や迷信に全くわずらわされず、全人類を貫流しているところの人間は神と等しく聖なりという真実の原理を礼拝したものです。イズラエル-アリヤは唯一賢明なる王位と分化の象徴です。聖書はこの種族から出てきたのであり、この種族に対してあの最高の教えが与えられたのです。

人間の中にあるキリスト(神我)が彼らの理想でした。それは、いわば、常に光を放って燃え続ける炬火(たいまつ)であり、笏(しゃく)の頭(8)でした。この炎に空気を送って、いやが上にもその光を増し、人々にその教えを忘れさせぬために、これらの教えが一冊だけでなく十二冊もの聖書に記録されたことです(16)。

外部や内部からの破壊を防ぐために、同じように十二の聖書を石に刻んでムー大陸の処々方々に保存し、後にこれらを一つにまとめて永久保存するために大ピラミッドが建造されたのであります。かくして普遍なるキリスト(神我)は、文明の淵源であると同時に金剛不壊であり、損ずることも除き去ることもできないことが証明されました。それは光を高くかかげるビーコンとしてのみならず、その光の反射塔としても又、永久に存続していくでしょう。

更に、それは単に光を反射するだけでなく、屡々(しばしば)繰り返されてきた天命を放送してもいるのです。即ち曰(いわ)く、『もし人類にして光を失わば、深く沈潜せよ、汝ら其の光を新たならしむる教えの録(しる)されてあるを見出さん。曽(かつ)て光を奪われ、放浪する迷える羊たりし汝らより、光再び輝き出でんがためなり。』神にとっては、光(生命)なくしてさまよう者はすべて群れより離れ迷う羊である。

しかし実はその群れは常に今、此処にあるのであって、それに気づいて戻りさえすればよい。キリスト(たる神我)即ち羊飼いは、炬火(たいまつ)を高くかかげて羊(現象我)の入って来るのを待っている。キリスト(神我)は長き年月かくされてきたが、光を求めて来たるもののために、常に今此処にあるのである。神我こそは大宇宙の始源の顕現である。神の声、神の言葉が語られる。『此処に光り在り。彼処(かしこ)に光り在れ』。

かくてヴァイヴレイションが閃き出るや直ちに生命が現れた。この生命が神より離れることの決してないことは、かの大ピラミッド(9)がその基底を大地にしっかと踏まえ、冠石なき頭を空に挙げている事実が証明している。人がその真の遺産たるキリスト(神我)を受け容れ、神のキリストこそ自分の真我であって一切を支配するという事実を受け容れた時、始めてピラミッドの王冠即ち冠名はのせられるであろう(8)。

その時、それは人がもはや群(神我)より二度とは離れ迷わなくなった事実への永遠の証人として屹立(きつりつ)するであろう。大ピラミッドは石造の聖書であります。それは神の選民達の業績と流浪とを描いている不壊の記録であります。これは只ユダヤ人達が自称するように、ユダヤ民族という特定の民をいうのではなく、キリスト(実相・神我)の光を受けるすべての民を意味する。

それは又、人々にキリスト(神我)以下の者であってよい、それ以下の行いをしてもよいという譲歩を決してしない。それは人類やその一人一人の成員がこの真の光よりさ迷い離れ、それを忘れ晦(くら)ますことのないように、又、彼らの中からこそキリストを完全に現す決意をなし、赫々と燃える炬火を高くかかげて、内在のキリストにふさわしく世を導くものが出るという事実の証人として、聳え立っているのである。

さて、ムー大陸の文明は時代と共に堕落してゆきました。事実この偉大なる人種も、長い間暗い道を歩み続け(10)、遂にはその自性(じしょう)を失い、全くの野蛮に逆行するものと思われました。人間としてのあるべき純粋な考え方を守る者は極めて少数にとどまり、その少数の人達が相連繋して一心集中することにより、人類全体を擁護する光明を送り易くするには、隠遁しなければならないことが認められました。

普遍なるキリスト即ち神我が今猶、人々の中に生きており、顕在しての活動こそはしていないが生命の核であることを、思想、言葉または行いによって、初めは個人に、やがては人類全体に、教え且つ示す神人の救世主が世界には必要であるという教えは、このグループを通じて宣布されたものです。

然るに、無智と、キリスト・神我にふさわしい生活をすることの拒否によって、神我・キリストの火は既に沈められていました。至高者(いとたかきもの)が、人間の最高の理念に忠実に従って生きる救世主を任命したこと、この救世主は定められた時に生まれてくることが、話や予言、或いは個人やグループの予告によって、人類を宣布されました。

このことは至高者の勅命(ちょくめい)で、それを次位の神(ゴッドヘッド)が人間の或る集団にインスピレイションとして伝え、これらの人々は下生する救世主に人々を引きつけるためには、その降臨の時を定めることが必要であると認め、その下生の方法と目的、その誕生の正確な年月日と礫死(たくし)の正確な日まで、すべての人々に知らせるようにしました。

このことは、救世主の教えに一層重要性と活力とを与えるためばかりでなく、大部分の人類が淫祠邪教を漁り求めていたので、彼らの考え方を或る中心点、或る焦点に引き戻すためにも必要だったのでした。人類はかくの如く、迷いに迷いを重ねることに甚だしく、その霊的死は目睫(もくしょう)に迫っていました。

そのために、この救世主(メシア)の肉体は屠(ほう)られて岩の墓に入れられ、やがて完全に復活(よみがえり)すべきことが予言され、かくして人類は再び『人の子』より神の子、常に神と一体となって住む神のキリスト(神我)となり得ることが示されたのです。これに倣って神の生命を生きて行けば、人の汚職の中に二度と戻ることなく、平安と美徳とが再び地上に君臨するものと思われました。

このような状態が曽て実存し、万物以前に存在していたこと。且つまた、救世主は人々に人間の真の遺産について教えることも録されていました。こうしてキリスト・神我は実存し、各時代における『秘められし者』であったのです。彼の教えを通して神の摂理の泉は流れ、大地の果実は完熟して、人の自由な採取に供されることになっていたのです。

しかるに、これらの予言はイエスの到来しないうちに異教扱いされ、覆滅されてしまいました。この覆滅の効果は今日にまで及び、キリスト教の基本要素(人間の実相がキリスト・神我であることが常に第一義であり、それが人類の最高の理想を実現してきたことに人々の目を蔽い、それは前代のもろもろの異教からの借り物に過ぎないと思わしめるに至ったのであります。

一方、この幼な児キリストを生み育てる母の肉体と、その地上の保護者となる父の肉体が無原罪の誕生のために備えられました。将来おのれの教えを受けるべき人々の間で成人となるべきこの幼な児を養育するために、彼等は本来別々に完全でありながら、しかも結ばれて一体となるべく定められたのです。母はマリヤ、父はヨゼフ、いずれもアブラハムの種子より出た真の光をかかげるものたるダヴィデの子孫です。

アブラハムとはアー・ブラームで、大宇宙から来た完全なる光の捧持者という意味です。(11)ところが、人の子らはあまりにも退歩が著しいため、その肉体のヴァイブレイションは動物のそれよりも低下していました。救世主はそこへ自分が、長い間忘れ去られていたキリストを名乗り出れば、彼らが自分の肉体を動物以上に貪食しようとすることをよく知っていました。

人間の知覚力がキリストの光によって導かれない限り、人間は動物以下に沈下したりするものです。しかし、彼救世主としては、自分から仕向けない限り、堕落した人の子らに指一本でも触れさせないためには、キリストとハッキリ一体とならなければならないことが、救世主には分っていました。こうして彼は恐れることなく、この役割を引き受けたのであります。

この役割を選ぶ人は、この役割こそ、過去における救世主たちがそのキリストとしての生涯を通じて果してきたもの(12)であることをよく弁(わきま)え、謙遜でなくてはならないものです。この大会はこのような考え方を、一層明確に強くしてくれるでしょう。ここに集って来ている数千人もの甚だ謙虚な魂を持った人々より出る雰囲気は、あなたたちにも分かる筈です。

一人の人間でも、その神性を顕わして完全に自分自身を与え切るならば、世界を征服し、もはや彼によって死など存在しなくなるという事実を考慮に入れて、この数千人もの人々の雰囲気が揮う力を考えてごらんなさい。この一人の力に、彼と同様の力のあるもう一人の影響力が加わるならば、その影響力は一人の場合の四倍になる。

その上、ここに集ってきている人々の人数をこれに掛け合わせれば、この群衆から全世界に放射している力が、どれだけのものになるかお分りでしょう。このような力のセンターが一カ所でもその放射力を余すところなく発揮すれば、個々の人間が知ると知らざるとに拘わらず、世界は忽ちにして生れ変り、再び活力を与えられ、更新されるのです。

そのような集会が、遙か以前より各時代をへて、今日まで世界中特定の地域で、十二年毎に開かれてきています。その数は初期の中は少なかったが、その発する放射線は一言も呼び掛けなくても他のグループを引き寄せてきました。やがて最初の小グループが大きくなり、更にその中から新しいグループが派生し、かくして順々に新しいグループが形成されて遂に十二のグループが出来あがりました。

この集りは第十二番目即ち最後のグループで、全部では十三になります。この十三番目のグループは、十二のグループとの合同をはかり、完全なる一大グループを結成するために会合したのです。しかし会合は初期のように、集合に都合のよいように、その都度違った場所でします。もともと厳密な組織とする試みもないし、また固執しなければならぬやかましい規則もない。

それは只、人間各人の体内の組織のように組織されているだけで、その組織を通じて人はグループの誰かに引き寄せられるわけです。これらの集合の場所は一般人には明らかにしません。ということは、誰でも見境なしに組織に入れるものではないことを証明しています。

明日の十二時に会合することになっている集会は、全グループを第一のグループのもとに完全に統合しようとしているもので、十二で一個のピラミッドを形成し、それが人間におけるキリストの理念(神我)の完成を象徴し、十三番目がピラミッドで譬えれば冠石、即ち王冠となるわけです。十三のグループ全部が従前と同じ場所で別々に会合しますが、一つのグループの集りも全体のグループの集りも同じで、丁度全体が首長グループと会しているようなものです。

このような集合が明日行われるわけです。十三のグループを一つに統合するためだけの集会は別として、十二の各グループから十二名ずつ出て更に十二のグループを造るとして、この十二をこの要領で更に十二倍すれば百四十四となる。この数字を人類全体にわたって殖やしてゆき、十二名ずつのグループに分れ、かくして十二名単位のピラミッドを造ってゆくとすれば、遂に地球を取り巻くことになりましょう。

このグループの一員となるのに必要なことは只一つ、即ち先ずキリストの理念をハッキリと把握し、次には思いと言葉と行いとで世界にキリストを顕(あらわ)すことです。そうすればあなたは、この大いなるグループ全体と一つになります。そしてあなたたちが、自分の家で、或いは聖所で神に見(まみ)えるならば、それが世界の果、山の頂き、或いは殷賑(いんしん)を極める市場の中にあろうと、彼らも亦あなたたちに見(まみ)えるでありましょう。

要するに、神と一体ということが常に決定的な要素であります。自分の想念をキリスト(神我)の高みにまで揚げた瞬間、あなたたちの肉体はキリストのヴァイブレイションに感応する。その時また、あなたたちはこの大群衆より発する同じヴァイブレイションに感応する。そしてこの参会者達の巨大なエネルギーが、あなたたちのキリスト理念と和して全世界に放送されます。

あなたたちの影響力は、全体と共に想念の大津波となって伝わり、拡がってゆくのであります。こうしてこれらの教えは、前に述べたような、隠遁状態に留まることなく、世界的となります。このようなグループには、全人類の神の外にはいかなる首長も必要でなく、又、如何なる形式も宗派も信条も必要ではありません。自分の真我がキリストであることを宣言し、自我に対して、思いと言葉と行いを以てこの理想に忠実に生きるように命じなさい。

そうすればまさしくキリストを懐孕し、且つ生み出すことになるのです。これらのヴァイブレイションが一旦確立されると、たとえ当人はその存在に気づかなくても、決して減ずるものではありません。しかし、それをずっと続けていると、遂には自分でもこのヴァイブレイションに気づくようになります。このことは他の何物にもまさる大いなる体験です。

このようにして確立された霊的焦点は真実であって、決して消え去るものではない。終局においては、人類全体がここに帰着しなければならないのであります。このような人に対してこそ宇宙の全貌が開かれ、このような人々にはもはや何らの制約も通用しない。人間の視力では今申したヴァイヴレイションは見えないが、それが視れるようにすることはできます。

人間の視力の範囲内では、今ここにわたしたち以外には人がいないように思われるが、しかし実際にはいるのであって、わたしたちにはその人が見えるのです。遙々ここまでの道中を歩き、或は乗り越えてあなたたちは、これまで時々この事を垣間(かいま)みてきました。そうでなければここには出席しなかった筈です。この大会のように人類が団結すれば、ゴッグとマゴッグの斗いや(13)アルマゲドンの斗い(14)のような殺し合いができるでしょうか。

人間の造った律法が現れたからといって、あらゆる力を支配し、しかもその力と共存する神の法則を蹂躙するだけの力が出てくるでしょうか。そのようなことはあり得ない。ところがここでは、只一人の神人が「否」と言いさえすれば、万事がその通りに運ぶ。それは、すべてが一体であり、すべてが一体となって感応するからです。別に何か特別の力を揮う必要もないのです。

低い魂の低いヴァイヴレイションの人々が害意をこめた力を出しても、こちらがその力を集中してそれに真実の愛と祝福をこめて、本人達に送り返すことができるのです。もしもそれに抵抗するならば彼らは自滅するだけです。愛のエネルギーを送り返す方では、腕一本だって挙げる必要はないのです。

人間の中のキリスト(神我)が地上における人間の到来はるか以前に確立されていたものであり、キリストとしての人間はいまだ曾て神から離れたことのないことを、かの大ピラミッドが金剛不壊の記念碑の形で、世々代々を通じて、人類へ証しする証人として屹立しているように、これらのグループたちもまた、厳然として存在を続けているのであります。

この大いなるピラミッドがこういう意味での証人である事実は、その年代、形態の純粋性、構造ならびに知識上の価値などによって十分に立証されており、偉大なるピラミッドと呼ばれて幾万歳もの間保存されてきているのであります。この巨大な物塊の中には科学上の知識が組み込まれており、人間がそれを解明するためには科学に精通しなければならないのであるが、しかし何も人間の科学を進歩させるためにこの知識がそこに駆使されたのではありません。

その歴史の古さと驚くべき構造は、人類にとって神秘として、取っておかれてきました。その巨塊の中には宇宙の秘密が明らかにされています。その表現はこれすべて精確な術語と精密科学の方法を以てなされている(15)。

このことは実は、前からそう予定されていたのであり、人間がこのピラミッドの意義を悟って、完全に神と融合した神のキリストとして、円満調和に完成するように、その方向に働きかけているのであります。それが達成された暁にこそ、偉大なるピラミッドの上に始めて冠石が置かれるでありましょう」。

訳者註
(1) イズラエルの王ダヴィデの子。賢明なので有名。紀元前一〇三三-九七五。旧約聖書烈王記、三、四、五、六、七章参照。
(2) 前烈王記、八章三一節以下参照。
(3) カバリスト(旧約聖書の密教徒)はイズラエルと分析する。イズラはイザル又はアザル、即ち太陽神で、イズラ・エルは物質と斗い物質を受胎させる太陽神の義。即ち悪に対する善、暗に対する光、死に対する生の対立と、前者に対する後者の勝利を意味するという。
(4) 『道』の科学(トランス・ヒマラヤ密教)の教えるところで、第一、第二原人種は共に肉体をもたず幽体のみで、肉体を持って地上に定着するようになったのは第三原人種、即ちレミュウリアン人種で、ムー大陸をその進化の場とした。チャーチワード氏はレミュウリアン人種に十の種族があったというが、これは七つの間違いであろう。このレミュウリアン人種は黒人系であるから(イースター諸島にある巨石文化の遺跡はこのレミュウリアン人種の作になるものであって、その顔貌が黒人系であるのはこのためである。)レミュウリアン人種の後をついだアトランティス人種は黄色人種。その次の人種(アーリアン)は白人種。
(5) 現在のインド、ヨーロッパ系人種。
(6) 古代南北アメリカ大陸にはムー大陸、アトランティス大陸の植民地が栄えていた。
(7) 但し、『道』の科学では、日本人、中国人はアトランティス人種の第七分人種である蒙古人種に属するという。ムー大陸のレミュウリアン人種の大部分はニグロ系とされている。
(8) 王の権威の象徴。
(9) ピラミッドは、紀元前数百万年より同九五六四年まで続いたアトランティス大陸において創めて建てられた。同大陸は四回の大変災によって次第に海底に没し、前記の紀元前九五六四年完全に水没したが、これらの大変災を予知した当時の高僧たちが「秘められた教え」と技能とを持ってエジプトに移り、その秘められた智と術とによって、紀元前約七万年(ハモン氏の計算による)に建てたのが、ギゼーの大ピラミッドである。
これは「秘められた教え」を奉ずる聖同胞団への入団と受戒との式を行い、且つ錬成のため、同時に、記念と後世におけるこの「教え」の復活に備えた構築であって、決して巷間に伝わるが如き単なる「帝王のための墓」ではない。古代の大宗教建築物の建設者の間には、建物を未完の形にしておく傾向があった。それは、真に完全なるものは神のみであることを寓意したのである。かくして大ピラミッドも亦その冠石が故意に欠かれたのである。
もしまた冠石を冠したとすれば、それ自体が当然ピラミッドの縮図であった筈であり、その小ピラミッドの冠石もまた小ピラミッドとなり、かくてそれは無限につづくことになる。故に、ピラミッドの冠石はピラミッド全体の象徴である。一方ピラミッド本体は宇宙に、冠石は人間にたとえられる。同様にして、心は人間の冠石、霊は心の冠石、神(万象の象徴)は霊の冠石である。人間は、いってみれば、石切場から切り出された未完の粗石(ブロック)であり、「秘められた教え」によって整形された完全なピラミッドの石(ブロック)に次第に変性して行く。
神殿は、この教えを受けた者自体が、神の力を受けて下部構造にこれを流通させるところの生ける頂点となった時、始めて完成するのである。(M.P.HaLL氏の研究による)尚、本書第一巻十章-訳者註(5)参照。時代は定かでないが、アトランティスには、「ピラミディー」という象徴的なゲームがあった。長さ二十五呎、横十五呎の宮廷のやや高くなっている端に、十三個の小ピラミッドがおかれる。高さは一個が三呎で、残りの十二個は一呎半で、何れも頂上は扁平である。つまり頂点がない。
遊戯者はその反対の端に、鞭か竿を手に持つ。その先には紐が結びつけられ、更にその端にはピラミッドの冠石がついており遊戯者は所定の位置に立ち、官廷の天井より吊り下げられている輪を通して、その輪の直径の範囲内でこの鞭(又は竿)を操作して、冠石をピラミッドの上に早く上手に乗せる技を争うのである。Phillipe's Records of Atlantic参照。
(10) 例えば男性器崇拝はこの時に始まる。その他、言葉や文字にするのも憚られる性的非行、呪術等に陥った。
(11) 一説によれば、マリアもヨゼフも当時行われていたエセーネ宗派に属する高潔な修女、修士であった。イエスも亦、エセーネに深く学んだことは確実である。尚、本書第五巻附録参照。
(12) すでに註解したように、仏陀といい、キリストといい、本来は人名ではなく、神界においては、人間を中心とする万物の進化を指導する職位であるから、歴史的には幾人もの仏陀・キリストが現れ(それぞれの職務を果たして更により高き神格へ進化し)たのである。
(13) 旧約聖書 エゼキエル書三十八-三十九章。
(14) 新約聖書 黙示録 十六章十六節。
(15)本叢書第五巻附録「大ピラミッドの神秘」参照。(16)本書第十章百四十二頁以下参照。