~第一章 イエスの出現と空間移動~ 

会衆が去って後も、同僚やわたしはかくの如き魂の変容を目撃した場所を去るに忍びず、そのままとどまっていた。わたしたちの胸中や、最後の時のあの大いなる魂の高揚は、如何なる言葉を以てしても表すことはできない。『全ては一のため、一は全てのため』という言葉が、猶少しも衰えずに鮮やかに光って浮き出ている。

誰一人語る者はいない、一語も発し得ないのである。わたしたちは夜が明けるまで大体同じ場所にいたのであるが、室内にいる感じは全くなかった。わたしたちの肉体からは明るい光が出ているようであった。今の今まで硬い岩をくり抜いて造った部屋に居るというのに、何処を歩いても遮る壁の感じがしないのである。足許にも床があるようではなく、どの方向にも自由にいけるではないか。

その時のわたしたちの心の思いや感じは、もはや言葉では絶対に言い表し得るものではない。わたしたちは部屋や崖の障害物をさえ超えて歩くのに、何等障害の感じがしないのである。わたしたちの着ている衣服も、周囲の一切のものも、純白の光を放っているようである。太陽が昇った後でさえ、この光は太陽よりも尚明るいように思われる。

わたしたちは大いなる光の圏内にあるかの如く、水晶のような光を通して眺める思いである。太陽は遮か彼方に靄(もや)に包まれている。しかしそれは正直なところ、今わたしたちの居る場所に比べれば、冷たく魅力のないものでしかない。寒暖計が零下四十五度に達し、国中が雪に蔽われて朝の陽光に照り映えているというのに、わたしたちのいるところには、明らかに形容も出来ない暖かさと平安と美人とがある。

人生には心の思いを言葉に訴える術もない時があるが、これはまさしくそのようなひと時である。ここには引き続き三昼夜も滞在したが別にそれは休息とか気晴らしの積もりではなかった。第一、疲労も退屈も全くない。それに過ぎ来し時のことを振り返って見ても、束(つか)の間のこととしか思われない。それでいてお互いに相手の存在を意識し、これまでの時の流れも意識されるのである。

日の出もなければ日没もない。只栄光に満ちた一日一日である。模糊たる夢にも非ず、一瞬一瞬が現実である。しかも何たる未来図の展開することか。恰かも地平線が遙か彼方永遠へと伸びて行くが如くである。隊長の言葉を借りて言えば、恰かも脈動してやまない生命の無限久遠の大海の中に展開して行く思いである。

しかも又、その大いなる美のすべては、すべての人に知られ観賞されるためにある。決して少数の人のみのためではなく、全体のものなのである。さてそうこうするうちに四日目のこと、下の記録室に降りて又翻訳の仕事に取りかかろうと隊長が言い出したので歩き出そうとした途端に、いつのまにか下の部屋に皆一緒に立ってしまっているではないか。

私たちの驚きと悦びはただ読者の想像にまかすだけである。全く身体をうごかしもしないのに、方法も全く知らないのにいつのまにか二階下に移動し、二つの階段を下りてしまっているのである。その上、今まで働いていた部屋の記録書類の中にいるのである。すべてがボーッと光り(5)、温かく心楽しく、何の努力もなしに、望むがままにどこへでも行けるのである。

書板を一枚取り出して調べようと思って便利な場所におくと、(姿なき者によって――訳者補)その内容と意味とがわたしたちのために完全に翻訳されるのであった。こんどはこれらの翻訳文を書き出すと、原稿用紙全面にわたしたちの筆跡で文章が現われ、わたしたちは只各頁を整理して原稿の形にすればよかった。

こういう方法でこれらの翻訳文の原稿を一枚一枚整理し、その日の午後の二時までには全部完結して、各冊四百頁以上の原稿十二冊を成冊し、それでいて何らの疲れも感じないでこの仕事を楽しんだのである。このように夢中になっていたので、隊長が挨拶をしながら近づいてくるまでは、部屋の中に誰かが居ることなど気がつかなかった。

皆んなが顔を上げて見ると、それはイエス、エミール師、わたしたちのホステスとチャンダー・セン――始めのうちは例の『記録係の男』と呼んだものだが今では『若い男』と愛称している――であった。バゲット・アイランドともう一人ラム・チャン・ラーと後で紹介された男もいた。この男の通称はバッド・ラーだそうであるが、これは後で知ったことである。

テーブルを一脚掃い清め、食事の用意をして一同が着席した。暫く沈黙の後で、イエスが口を開かれた。「全能にして遍満し給う父なる原理よ、貴神は常にわたくしどもの裡から外なる全世界へ勝利を以て輝き出で給う。貴神は又光りであり愛であり美であり給う。そのことを私共は今日この日身を以て証つつあり、又意志すれば何時でも証することができます。

完全なる愛、調和、真の英智、尽きざる献身及び純なる謙遜という消ゆることなき火の燃ゆるこの祭壇の前に額(ぬかづ)きます。この聖なる火が、真の父性、子性及び献身してやまぬ兄弟性というこの祭壇の前に今相集(つど)える人々の魂の中から、弱まることなく輝き続けています。この聖なる光りはこれら身近な愛する者たちより外へ外へと光り出で、全世界の最涯(はて)まで届く。

それはすべての人々がその大いなる光りを見、その薄れることなく消ゆることなき愛を体験するためであります。この遍満する光り、美、純粋なる光線は、この貴神の祭壇に会する人々の感じ易き魂と心情(ハート)を通して輝きわたる。わたくしどもは愛より発する一切の悪を消尽し、一切を包容するこの光線を肌を以て感じ、更に吾が身よりも放射して遂には全人類を変性し、融合し、調和させます。

わたくしどもが今、対面し挨拶申し上げているのは、実に各人、一切の人々より発する真実純粋なる神のキリスト(神我)、神に等しき、否、神と一体なる神のキリスト(神我)に対してなのであります。まさしく裡に在(ま)しますと共に、外に現われ出で給うわれらが父なる神に、再び敬礼をいたします。」。

イエスのお話が終ると、先程のことのあった部屋に帰ろうと誰かが言ったので、わたしたちは起き上り、ドァーの方に歩き出したかと思うと、気づいた時には既にドァーの前に来ていた。こんどの場合は、身体が動いて行くのは分ったが動く原因は分らない。又、昇ろうと思うや否やすでに現実に上の部屋に来ている(6)。

外は宵闇もかなり濃くなっているのに、わたしたちの通るところは完全に明るく、すべてが豊かな美と輝きとに満ちている。しかも、それはわたしたちが上る時からすでにそうなっていたのである。チャンダー・センが一般に死と見做している状態から蘇らされてわたしたちのところに戻って来たのは、今し方わたしたちが出て行った部屋であったことを読者は思い出されるであろう。

わたしたちにとっては、あの部屋は神殿である。それはあらゆる可能性で光っているかのようである。死に定められたる果敢なき存在としての以前に知っていた以上の大いなる境地に、わたしたち自身が踏み出すことを得た、これは聖所である。その時以来、出発の四月十五日に到るまで、一時間と雖も一同が顔を合わさない日や夜はなかった。

その間中この部屋が、再びもとの固い岩の外観に戻ることは決してなかった。われわれは常にこの岩ならぬ岩を通して無限の空間を見る思いであった。意識を制約する絆(きずな)が断たれたのは、実にこの部屋の中に於てだったのである。大いなる未来図が開かれたのは其処に於てであったのである。さて、一同はテーブルに坐り、イエスは再び話し続けられた。

  理想実現の方法
「何事にせよ、理想を実現成就するには、或る中心となる吸収点、即ち理想とするところのものに思念を集中することが必要であり、それが真の原動力となるのである。あなたたちは、いや人間はすべて、この原動力となる中心となることができる。理想を表現しない限りいかなる事も実現するものではない。

かつては人間は皆、自分がこの原動する中心であることを十分に自覚し、神より受けた自分の相続財産と領分とを十分に自覚して生活し、いわゆる天国という状態の中で暮らしていた。その内、ごく少数の人を除いては、殆んど全部がこの神よりの賜物を捨て、今日では大多数が人類の本当の遺産である自分の神性に全く無自覚になっている。

それはともあれ、かつての日に誰かが仕遂げたことであれば、今日でもそれを仕遂げることが出来るのである。このことは、あなたたちの周囲にあるあらゆる無数の生命と万象との背後にある原則であって、この生命とはあなたたち自身の生命やありとしあらゆるものをも含む。何故なら、およそ存在している物にはすべて生命があるからである。

遠からずして科学は、物は物質ではないというわれわれの言明に、十分な根拠を提供するようになるであろう。何故ならば、一切の物は、到る処あまねく存在して波動に反応しつゝ完全絶対なるバランスを保っている無数の粒子を包含する唯一の根元素に帰することを、科学は遠からず発見するであろうからである。

  「物」が現われるまで
数学的な根拠からのみ言っても、すべてのものの中に浸透し、至る所に存在しているこの中性(中性であるから陰陽いづれの力にも感応する――訳者註)の質料(サブスタンス)の無数の粒子を引き寄せて、それで以て特定の物(存在)としての形をとらしめるためには、或る特定の働き、或る第一動が必要であったことになる。この力は一粒子の中から全部発したのではない。

それは粒子よりは大きいがそれでいて粒子と一体である或る力である。人は自分の想念と明確な行為とにより、且つヴァイブレーションの働きも一緒になって、これらの粒子に撰択する働きを与える。(これでも分るように、実はこれらの粒子、即ち宇宙にみちみちている不可視の質料は智慧――撰択する働きはそのひとつである――をもっている。

故にこれらの粒子に或る働きかけをすると、それは指示された範囲内で自律の働きをする。ここでは物を形成するために結びつくべき他の粒子を選択する働きのこと――訳者註)この様にして物質科学はもろもろの推論をへて理解せざるを得なくなり、遂に、今のところは作動していないために認められていない或る力、それも実は認められていないからこそ作動しない或る力、の存在を認めるようになるであろう。

一旦人間によって認められ、人間と感応し合って実際にこの力が発揮されると、それはこの普遍的な宇宙エネルギーが特種の現われをするための特種の場を用意することが十分に出来るようになる。そして、そこで一定の秩序ある進化の過程をへて遂に種々様々の現象一切を含むいわゆる物質宇宙ができあがる。

秩序がある以上、各進化の段階は次に来るべきより大きな進化の段階に完全に備えて、そのための基盤が設けられなければならない。もし人間が想念と行為との完全な秩序と調和とを以て進歩することができるならば人間はこの力と実際に協調するようになり、やがてこの力は目的に必要な手段を選ぶ能力を無限に発揮するようになる。

かくして人は宇宙の進行に秩序のあることを認め、その秩序の許に生命とエネルギーを配分するようになる。従ってこの宇宙はあなたたちの思っているような物質宇宙ではない。只あなたたちが勝手にそうきめているのである。それは霊から来ているのである。故に、霊的という言葉を使うならば、それは霊的なのである。

それは秩序に満ち、真実なるものであり、万物の基礎である。秩序がある以上科学的であり、科学的である以上智的である、それは智的生命と合した生命である。

  真理を素直に受けよ
智に結びつき、智によって導かれた生命は意志(ヴオリション)となり、意志によってそれは神の命令(ヴオケイション)となる。霊こそが原始の、脈動する、原動力である。あなたたちはそのような霊が存在していることを只単に受け容れるか知るだけで、その力を活用することができるのである。では霊をして来らしめよ、その時、霊のもてる一切をあなたたちは自由自在に駆使するようになる。

それは又、自分の中にあっては久遠なる原始生命の変ることなき強力なる泉となる。そのためには何も長年月をかけて勉学する必要もなく、訓練、艱難、辛苦の試練を経る必要もない。只この様なヴァイブレーション(波動)が実存することを知り、受け容れるだけでよいのである。その時このヴァイブレーションがあなたたちの中を貫流する。

  神人の出現
あなたたちは大創造心質(Great Creative Mind Substance)(3)と一体である。従ってあなたたちはありとしあらゆるものが存在していることを知っている。更に、真に実存するのは、ただ神聖原理(Divine Principle)、大原理(Great Principle)、善なる原理(Good  Principle)、神なる原理(God Principle)のみであること、それが一切の宇宙を満たし、それが一切であることをあなたたちが真に把握するならば、その時あなたたち自身がその原理となったのである。

かくてあなたたちはキリスト(神我・神人)として自分の領域内、即ち自分の行動する先々でこの原理を実施すれば、想念、言葉、行為を通じてこの原理をより大きく働かせることができる。その時自己の本領を発見し神力を用いてこれを外界に発揮する者が一人増えた事となるのである。この力は与えるにつれて、流れ入ってくる。与えるにつれ、一層多くの力が押しつけられるが如くにも加わり、再び又与えられるのを待つ。かくして供給は尽きることなきを知るであろう。

  瞑  想
といっても、何も密室に入って身を隠せというのではない。現に今在る処、最も困難なる環境にあり、多忙な、いわゆる人生の動乱のさ中においてさえ靜謐を得ることである。その時、人生はもはや動乱ではなく、静穏であり、人を瞑想に誘い、瞑想を強いるものとなる。今、あなたたちが実現しそれと一つになり切った大いなる行為に比べれば、外界での行為は無にも等しい。

大いなる行為とは即ち、現に今ある其の場所で黙坐し、自分の全想念活動を神に集中して、自分の息よりももっと近く、自分の手足よりも更に近いところの、自分の内より輝き出る神を、瞑視することである。神とは何人(なんびと)でおわしますのか。あなたたちが全想念活動を集中しているその神とは何処(いずこ)にましますのか。

  神とは何か
神とはどこか他所(よそ)から一旦自分の中へ引き入れておいてから世間に出してみせるような、何か外側にある大きな存在ではないのである。神とは人間自身の想念の活動によって発生し、活溌となるところのあの力である。この力が自分の裡や周囲一切にある事は事実である。しかしその力について思いを致し、それが存在していることを知る迄はそれは活動しない。

思い且知った時それが自分の中より無限に流れ出るのがわかる。その事を身を似て世に示すがよい。そうすればそれによって世は益する。あなた達自身が一切皆善(all Good)即ちあなた達の父なる神(God)の推進力、即ち又一切の思いと行いとの背後にある成就する力、を発揮する事によって、成就してみせなければならないのである。

あなた達は今の今成就する(fulfill)神、即ち成就を一杯に満たす(flling full)神なのである。これこそが神即ちあなた達より発する真実にして唯一の神なのである。あなた達は父なる神であると同時に、農夫であり、神の力の増幅器や投射器でもあり、積極的成就者でもある。多数の霊群(4)があなたの命令を遂行するために、あなたの許に飛んで来るのは実にこの時である。

あなたたちが心の底から敬虔と深い意味をこめて、神がこの聖なる宮にましますと言明し、且つこの宮とは即ち今このままの、あるがままの自分の至純なる肉体であると知った瞬間、又、真のキリストであるあなたたちがまさしくこの宮の中で神と一体となって住んでいること、及びこの昇華した肉体こそは聖なる在所、全くして一切を包容する住居であることを知った瞬間、あなたたちは活力を与える者、この真実神聖なる原理が貫き流れる為の器、一切を包み一切に注ぐ器となる。その時、神なるあなたたちは、その神を、あなたたちの愛する神を、ますます多く注ぎ出すようになる。

  謙虚・祈り
かくしてあなたたちは、神を拝し、讃え、ひたに拡がりゆる愛を以て全人類に注ぎかくて全人類はキリスト即ち神人が勝利に輝く姿を見るようになる。今やあなたたちは最大の歓びを以て言う。『誰でもよいから望む者は来て、至純の生命の泉を深く汲んで呑むがよい』と。こうして呑む者は二度と渇くことない。かく用い、かく放出する力が神なのである。

父なる神の成就し給うものは、子なる神にも直ちにこれを為す。それはまたこの大いなる力の前にへりくだり、頭を垂れることでもある。それが神の謙虚即ちへりくだり乍らもあなた達自身の推進力と一つとなって歩みを進めることである。常任この力に想いを致し、これを讃嘆し、祝福し感謝することによって、この力の流れは殖え、その力は強大となり、益々吾がものとし易くなる。この故に、たゆみなく祈るがよい。日常の生活が真の祈りである。

  神力の無限還流
先ず初めにこの力が実在することを知り、次に絶対の確信を以てそれを活用するようにすれば、間もなくあなたたちはそれを全面的に意識するようになり、自分の内外を貫いて一切を包容していることを知る。この力は流れるがままに任せばあらゆる場面にあなたたちの許にサッと殺到してくる。そして自分より流れ出させれば再び自分のもとに流れ還ってくる。

故に吾神なりとの自覚を持ってこの力を与えよ。これがあなたたちの裡なる父なる神であって、あなたたちと神とは一体なのである。神の僕(しもべ)ではなくて、神の子なのである、第一原因者の子等である。実相〔『吾れ(神)なり』(I AM・神我)〕の所有するものはすべてあなたたちのものである。何故ならあなたたち自身が実相〔『吾れ(神)なり』(I AM・神我)〕であるからである。

  最大の垂訓
業(わざ)を為すのは小我なるわたしたちではなく父なる神にまします実相〔『吾れ(神)なり』(I AM)〕である。わたしの裡なる父なる神が大いなる業を為し給うのである。父なる神と一体となってみ業を為すのだと知れば、もはやそこには何らの制約も限界もない。一切を成就するのが自分の神性なる権利であることが解るのである。それでは、わたしが父なる神の真子(まこ)、一人子なるキリストに従うように、あなたたちもわたしに従うがよい。

わたしが神を出し神を現すように、あなたたちも自分の裡から神を出すがよい。その時、初めてすべては神であると言えるようになるであろう。これまでに為された垂訓のうち最大なるものは、『神を視よ』である。この言葉は、あなたたちのまさしく裡に、且つ又裡より、更にまた他の一切の人々より、あらゆる栄光に包まれて輝き出る神を視ることを意味する。

あなたたちが神を視、神以外の荷物をも視なければ、あなたたちは神を、神のみを愛し崇めたことになり、初めて真に神を視たことになるのである。あなたたちは主であり、律法を与える者であり、同時に律法の施行者である。祈る時は密室、魂という密室に入るがよい。そこで己が裡にまします父なる神に祈れ、父なる神は密室での祈りを聞き給い、公に応え酬い給う。

祈り、且つ全世界に神のものをより多く与え得ることに感謝せよ。このようにすれば、木末はより高く、より高賞となり、眺望はより高大となり、理想はより高邁 とならずにはいないであろう」。ここで垂訓は終った。一同はテーブルより起立し、大師方は別れの挨拶をのべて立ち去って行った。

わたしたちは暫らく残って当夜のいろいろな体験を話し合った後で、村の宿舎に帰ることにして、さて帰ろうと思って立ち上った時、すぐこういう思いが起きた。「外は明りもないのに一体どうして歩いて行ったらよいか」。事実、隊長以外の全員からその思いが口に出たのである。

その時、隊長は、「習慣というものがどんなにわれわれにこびりつくものであるか、どんなにわれわれが古い考え方にしがみつくものであるか、これで皆にも分っただろう。われわれは今この室内にいて完全に光の中に浸されている。われわれが大へん愛するようになった大師方が去られてもこの光りは薄れていない。今こそが敢然と独立独行を示し、今まで体験して来たことを成しとげる能力のあることを示す好機じゃないか。

この体験を他の人に対してはともかく少くとも自分だけにでも生かし、勇気を出して大願成就に乗り出そうじゃないか。成程、われわれは驚嘆すべき大師方について一所懸命学んできただけに、片時たりともこの方々がいなくなるのは文字通り痛い思いだ。しかし、大師方が先刻御承知の通り、もしもこんな小さい事にでも自らを頼めないようであれば、もっと大きな事など到底成就出来るわけがないと思うんだ。

大師方がお帰りになったのも、実はわれわれにもやれることを実証する機会を与えて下さるためだったんだよ。僕はただの一瞬でもこれを疑わないな。この緊急時態を受けて立って、それを克服しようじゃないか」。一同が出かけようとすると、隊員の一人が先ずその方法について瞑想しようじゃないかと言い出したが、隊長はきっぱり、「いや行くのなら今行くんだ。もうこれまで現に見たり体験したりしたんだから、こんどは実行だ。

実行するからにはキッパリと断行することだ。さもなければハナもひっかけられなくなるぞ」と言い切った。そこですぐにわたしたちは階段を下り、幾つもの壁を抜け、トンネルを抜け、梯子を下り、遂にめざす村に到達した次第である。さて歩むにつれて、行手の途は完全に明るくなり、肉体は重量感がなくなり、いとも易々と移動できるのであった。

宿舎に着いた時は、さすがにやり遂げた嬉しさで一杯であった。その時以来、村を去るまでわたしたちは人工の照明を必要としなくなり、欲するままに往来したものである。又宿舎に入ると宿舎内がひとりでにパッと明るくなり、その暖かさと美しさは筆舌のよく尽くすところではなかった。

さて、わたしたちは室に入ると間もなく、すぐに就床した。翌朝おそくまで、ぐっすり寝入ってしまったことは申すまでもない。

訳者註
(1)本叢書第二巻第三章「老人の死と蘇えり」参照。(2)人間は神に向かって無限の進化を遂げ、進化の程度に応じて彼の中の潜在能力が開かれ、開かれた程度に応じて、自然の進化、宇宙の進行過程において彼に相応する役割を行うようになる。宇宙に遍満するエネルギーや生命力を、彼自身に内在する神秘的器官(チャクラ)を通して自然(鉱、植、動物等)のある程度の創造と進化の促進を司るようになる。(例えば、jeoffrey hodson :"kingdom of Gods"参照)
(3)既述のとおり一切の物質宇宙の質料は霊的、精神的なものであるため、原著者は精神質料という。訳者は略して心室とする。この心室は創造の素材であり、又それ自体に創造を前提とする撰択作用等があるから、原著者は創造心室と称する。
(4)単なる死者の霊ではなく、もろもろの善き自然霊、高級霊等を指す。
(5)人間と同様すべての物質にも霊体があって、肉眼では不可視の霊光を放っている。霊眼が開けた時にこの霊光が見える。
(6)体は意識に従う(霊主体従)。肉体が完全に霊化されると、意識の欲する処に瞬間的に其処に移動している。体の瞬間的滅現も壁などのような物質透過も又この理による。