~著者 はしがき~
親愛なる読者諸氏、あなたはこれまでこの叢書中の人物一人々々と顔を合わせて共に語り合って来られた。丁度そのように、あなたはわたしの読者であるだけではなく、これまで共に向かい合い語り合って来たわたくしの友人でもある。この本の人物達はきっとあなたをよく知っていて、親しい友と見做(な)しているに違いない。
彼等はあなたを生命と愛と英智との聖なる光の全栄光を以て囲み、こうして囲む事によってあなたの理解を助けておられるのである。大師方はご自分のものでもある生命と愛と英智との聖なる常在の光をあなたに送り与えてあなたを包んでおられる。あなたが常にこの遍満する聖なる臨在の中に包まれているのを見ておられる。
大師方はあなたが真の王或いは女王としてあなた自身の玉座に坐り、この聖なる臨在を通じかつそれによって統治している実相を観ておられる。あなたが自分の聖なる使命を知って常にそれを成就しつつある相を、常に活発にして不安かつ幸福であり、常に神聖であるあなたを観じておられる。
あなただけではなく、本来神聖清浄なる人間家族全体を、あらゆる被造物を聖なるおん方の像(すがた)に似せて造られた聖なるものとして、それも個々の人間或いは物、一宗一信条ではなく、全体を、一切を包含するかの全体を、観ておられるのである。この方々の聖なる居処や想念の静けさの中に入ることを許された人以外には、何人もこの偉大なる方々の真価を知り尽くし得る人はいない。
この方々は実に宇宙それ自身の一部である真理を全身心を以って生きておられる。生命はこれを遡れば朧なる過去に到り、その間には数千万年にわたる人類の業績が積み重ねられている。一般の人々にとっては、人生はあらゆる制約と因襲とに縛られたものであるが、この方々にとってはそれは無限、無始、無終の至福であり、長生きすればするほど、悦びは大きく生き甲斐は増える許(ばか)りである。
この方々を愛し熟知している人達でその教えを疑う者は一人もいないし、又そのおもてなしに預かった者でその真摯さを疑いうる者は一人もいない。西洋人は外観を見、衣装の縁(へり)に触れるのみであるが、東洋人はそれをすっぽりかぶるように着て脱ぐことをしない。西洋人はランプの器を磨き、東洋人はその炎に風を送って、その光を一層明るいものにする。
西洋人は希望の目で外側を見る。その背後には霊的ヴィジョンの明り、真の知識の探究がある。東洋人は、肉体は先ず炎の光によって照らさなければならず、真昼に一杯輝く太陽の陽炎の如くに、炎は先ず内から 掻き立てられてから、おのずからに外に照り輝くようにすべきであるという把握の仕方をしている。西洋人はみずからを物質的と称する。
東洋人は真実、一切は霊であるという真理の中に住する。東洋人は一切は抗い得ないまでに根本なる大霊によって生存していると観る。それがアルタイ、ヒマラヤの大雪原に在ろうと、殷賑(いんしん)を極める現代都市に在ろうと、乃至は最も隔絶したる修道院の中に在ろうと問うところではない。
西洋にとって奇跡的、信ずべからざるものと思えるものでも、印度人の静慮には当然の事として受け取られている成果であり、大霊のもたらすものであり、神の具現であるとされている。生命を余すところなく発揮して生きている人達は、直接に感知し得る範囲の外に実在するものの方が遥かに多いことをよく知っている。
事実、哲学がおよそ奇想天外なことを夢想したとしても、尚且つそれよりも遥かに不思議なことがあるのである。従ってこの書にあるものにしても、或いはこの書以前に出た書に記述されたことにしても、著者は敢て何らの釈明もしない。もしあなたが明澄なヴィジョンを持ち何かの完成を望むならば、その理想を実現する能力は既に自分に備わっているのだと受け取る態度を何時でも取れるようにするのが、神より受けたあなたへの遺産である。
神は過去の長い年月にわたってなし給うたように、今も尚、神人を通して語り給う。本書の中にある人物達が語り伝えるものが西洋には新しき光をもたらすとしても、それは実は決して新しいものではない。本書にある方々の生涯の目的は、愛によって燃え上がった純粋の知識によって、全人類に智と光とを与えることにある。
又その大いなる使命は、人間の大いなる完成力を通じて平和と調和への道を整えることにある。この方々は真の科学、宗教、哲学に関して助言を与える最大の友であり、他のすべての人々、同胞(きょうだい)と同じく、真理は一つであると言明しておられる。かくして科学は真珠を貫く金の糸にもたとえるべきものとなる。
人類の大部分が神に関しての古臭い観念より脱却すべき日が既に到来している。今日では人類は只、闇雲な信心のみに基礎をおく教えに対しては不信になっている。死後天国の報いを受けるために善人になると言うこと、報酬のために善い人になり、永遠に竪琴を弾いて詩篇を歌う特権を得るというような考えは、理想では合っても非常に低いものであることを人々はもう学び知っている。
かくの如きは自分の利益のみの現れであり、神のキリストである完全に今尚生きている神人の教えとは、およそ異なるものであることを既に把握している。死という考えは、神の目的におよそ無縁なる(事実完全に矛盾する)ものであって、大宇宙の法則乃至それより発する生々たる鼓動に一致しないし、又イエスの教えにも合致しない。
教会と基地とは兎角一緒にして考えられ勝ちであるが、それだけでもキリスト教が理解さえされてない直接の証拠である。次のようにキリスト人は語り、聞く耳あるものは聞いたではないか、『もし人ありて吾を信ぜは死することなかるべし』と。罪の中にあるか、或は罪のヴァイブレーション(波動)に取り巻かれて生存を保っている者が死するのであり、かくの如き者の『罪の値(あたい)は死なり』である。
しかし神人への神の贈物は久遠の生命である。神は此処、地上天国にある神人に対し、人が神の波動に正しく合わし、完全にその想念の中に於てのみ生きるならば、肉に於てもまた完全なる体を示現したのである。以上の事を神人は知っている。
本書に現れる方々は、神のヴァイブレーションの中に常に身を置いておれば決して老いることなく死することもないことを知っておられるがために、神を超自然と迷信との領域より出して神を全面的に脈動させ生動させているのである。肉体のヴァイブレーション数が低まるか減少するのを放任するかすれば、その後に来るものは死である。
事実この方々は、死という誤りが起きると放射する生命波動は実際に肉の宮より押し出されること、及びこの放射する生命波動は依然として寄り合って元の肉体と同じ形を維持する事を、それまで取っていた形態を一応は保ち維持されるということで存知である。
この放射物(エマナチオン)には知恵があって、中心核即ち放射線を牽きつけ保つ太陽ともいうべきものを中心に、依然として回転している。これらの放射粒子は或る知恵ある放射物によって取り囲まれそれが前記の形態の維持を助け、かつまたその中から再び髄質(サブスタンス)を抽出して別の宮を造る。
そしてそれは彼らの生命周期中に体の周(まわ)りに築かれた知恵に直接従い、完全に調和して働く。もしこの知恵が低い振動数で振動するならば、換言すれば、弱ければ、肉体(生命エマナチオンが出た後は只の土形)から押し出された生命とエネルギーのエマナチオンとの接触を失ってしまう。
こうしてエマナチオンは遂に雲散霧消してその源泉に還元し、かくて完全なる死がやって来る。しかし、もしもこの知恵が強力で振幅が大きく活癈であるなら、直ちに充力して新しい肉体を組み立てる。これ即ち蘇(よみが)えりである。この蘇えりにより人は肉に於て完全となる。
このような啓示は必ずしもすべての人が耳を籍(か)し、或は認容するとは限らない。『聞く耳ある者をして聞かしめよ』である。理解力が十分に惹き出された人ならこのことが理解できるであろう(1)。かくて人類の大部分はここに或る科学を樹立しつつある。この科学を通して人類は、神は常に人の中に住み且つ人と共に住み給うことを再発見しつつある。
しかし、それまでの暫らくは人間は神を知らず、神人を見失っていた。これまでに出版した書と共に、この書も執筆の源泉となった方々に献呈するものである。この身近に親しく、且つ敬愛申し上げる方々の足許にわたしは甚深(じんじん)の尊敬と感謝を捧げると共に、この方々を如何に讃美しても讃美し足りぬ思いに浸るものである。
初めわたしたちは疑いを懐いて行った。しかし、生命と真実の生き方に関する真理に対して、以前より正確で深い洞察を得た思いをし、この方々一人一人を深く愛するようになり、最大の惜別の思いを残して辞し去ったのである。
署名 ベアード・T・スポールディング
訳者注
(1)本書第五巻第八章「死の克服」参照。