~第三章 肉体の自由自在なる出現・消滅~ 

わたしたちはこの村を出発して、約九十哩離れたアスマーという、もっと小さな村落に向かって行った。エミール師は配下の男を二人わたしたちにつけてくれた。この二人は背筋のシャンと伸びた見事なヒンドウ型の看板みたいな男たちで、調査隊全体の世話をしてくれることになった。

この二人が落ち着き払って事もなげに仕事をさばいていく有様は、今までの中でも最も優秀なものであった。便宜上、この二人をこれからそれぞれジャスト、ネプロウと呼ぶことにしよう。もっとも、エミール師は前の村でわたしたちを迎えてくれ、滞在中のわたしたちの面倒を見てくれたわけだが何といっても、師の方が他の者たちよりも多年の経験を積んでいた。

ジャストは調査隊の執行委員長格、ネプロウはその助手というところで、命令の遂行を見届け監督する役であった。出発の時、わたしたちを送り出す挨拶の中で、エミール師はこう言われた。「みなさんはこれからジャストとネプロウの二人を滞同して調査旅行に出かけるわけですが、約九十哩先の次のおもだった宿泊地まで、多分五日程はかかるでしょう。

わたしは暫くここに踏み留まることにします。九十哩の道のりを行くのに、わたしにはそれ程の時間はかからぬからです。そして皆さんの目的地で、到着をお待ちすることにしましょう。そこで、わたしからお願いしたいことは、誰か一人、隊員の方に此処へ残って貰って、これからの出来事をよく観察し証明する役を引き受けて頂きたいことです。

そうすればお互いに時間の節約にもなるし、此処に残って貰う方も、これから十日頃までには調査隊に加われるわけです。わたしたちとしては、その方によく見て頂き、見たことをよく報告して下さるようにお願いするだけです」。こうしてわたしたちは、世話役のジャストとネプロウとを伴って出発した。

およそ、この二人のやり方以上にテキパキとした胸のすくような仕事のさばき方は、そうぞうもできないことを、特にここで申し上げておきたい。どんなこまかいことにも到れり尽くせりの行き届きようで、謂わば音楽のリズムと精確さとにピタッと合った感じである。調査は三ヶ月半も続いたのに、このような仕事の調和(ハーモニー)が、実にその期間の全行程にわたって続いたのである。

ここでわたしは、ジャストとネプロウとから得た印象をつけ加えておきたい。ジャストはやはり背筋のシャンとしたインド人で、親切でまたテキパキして、大袈裟なところもなく、単調な声で命令を降すが、降した命令がチャンと正確に遂行されていく様子は、まさしく驚嘆に値するものであった。それで最初から見事な性格が窺われて、評判の的だったのである。

ネプロウもすばらしい性格の持主で、どこに行っても彼の冷静、沈着、且つ驚異的な能率をあげる姿が見られた。いつ見ても落ち着き払っており、動きも平静でしかも正確、その上、驚嘆すべき思考能力と実行能力とが兼ね備わっており、調査隊全員の噂の的となる程であった。隊長も「この連中は素晴らしい。自分の頭で考えて実行してくれる連中が見つかってホッとしたよ」という位であった。

五日目の四時頃、わたしたちは予定の村に到着した。ここでエミール師が、約束したようにわたしたちを出迎える筈である。読者にわたしたちの驚きが想像できるであろうか。わたしたちは間違いもなく、唯一本しかない道を、途中で交替して日に夜をついで急行する飛脚は別として、この国では一番早い交通機関でやって来た。

ところが、年齢も相当いっている筈の、またどう考えても九十哩の道のりをわたしたち以上の短い時日では来られない筈の人が、チャンと先着しているではないか。皆その訳を知ろうとして、いっせいに質問を浴びせかけたのも無理からぬことである。以下は師の話である。

「あなた方がお発ちになる時、ここで皆さんをお迎えしましょうと言いましたね。その通りわたしは今、此処にいるわけです。人間は本来実相においては無限であり、時間・空間・制約を知らぬものです。ひとたび人間がその実相を知れば、九十哩の道を行くのに五日もトボトボと歩かなければならないということはないのです。

実相においては、どんな距離でも一瞬にして到達できるものです。距離の長さなんか問題ではありません。わたしはホンの一瞬間前には、あなた方が五日前に出発した村にいました。皆さんがごらんになったわたしの肉体はまだそこで休息しています。あの村に残っている皆さんの同僚は、四時数分前までは、わたしが『もう今頃は着いている筈だから、出迎えの挨拶に行きましょう』と言ったことを証言するでしょう。

このことは、只、わたしたちがどんな約束の場所、どんな定められた時刻にでも、肉体を残したままであなた方に挨拶に来られることを、お目にかけるためにしたのです。皆さんにお供してきたあの二人にも、同じことがやればやれたのです。

そういうわけで、わたしたちが、皆さんと根源を同じくする只の普通の人間でしかないこと、又、神秘めかしいことは何もなく、父なる神、全能にして偉大なる一者が、全ての人間に与え給うた力を、ただ皆さんよりも多く発現させただけであることが、一層よくお分かりになったでしょう。わたしの肉体は今晩まではあそこに置きますが、その後でこちらに引き寄せます。

それで皆さんの同僚の方もこちらに向けて出発し、いずれそのうち到着することになるでしょう。さて、一日ここで休養を取ってから、ここから一日分の旅程先の小さい村に行き、そこで一晩泊まってから、又こちらに戻って例の同僚に会って報告を聞くことにしましょう。今晩宿舎で集会をします。では暫くの間御機嫌よう」。

その晩、一同が集まっていると、突然ドアーも開けずにエミール師がわたしたちのまん中に現れて、こう言うのである、「皆さんのいわゆる魔法のように、わたしがこの部屋に現われ出たのを、皆さんは今、目撃しました。さて、今度は皆さんに、肉眼でも見える一つの簡単な実験をしてみましょう。皆さんは肉眼で見てから初めて信ずるのですからね。どうぞ、よく見えるように、円く輪をつくって寄って下さい。

さて、此処に皆さんの中の誰かが今しがた、泉から汲んできたばかりの水が一杯あります。見てごらんなさい。水の丁度まん中に、氷の一片が出来かけてきたでしょう。一片々々、だんだん固まってきた氷の部分が増え、とうとうコップ一杯凍ってしまいましたね。一体どうしたのでしょうか。

わたしは水の真ん中の分子(複数)をわたしの想念の力によって「普遍なるもの」(the univer-sal)の中に置き、それが形を取るようにしたのです。言いかえれば、そのヴァイブレーション(波動)を下げていって、遂にそれが氷となり、その外の分子群もその周囲に集まって形をとり、遂に全部が氷に化してしまうというわけです。

この真理を、皆さんは小さいコップだけではなく、桶や池、湖や海、はては地球上の水全体にまで適用できるのです。そうすると一体どうなるのでしょうか。皆凍ることになりはしないでしょうか一体なんの為に?目的なんてないのです。それは一体如何なる権威によってそうするのか、と皆さんはお尋ねになるでしょう。『完全なる法則の使用によって』とわたしはお答えしましょう。

ではこの場合一体何の為か?なんの為でもありません。それは、別に何かの為になることもなかったし、また為になるようにもできません。もしわたしが、この実験を徹底的にやりつづけて行くとすれば、結局どうなるでしょうか。それは反動が来ます。誰に来るか?わたしにです。わたしは法則を知っている。だからわたしの表現するものは忠実にわたしに返ってくるのです。故にわたしは善のみを表現します。

従って、善のみがわたしに善として返ってきます。もしわたしがどんどん凍らせ続けていたら、最後の目的を遂げるずっと前に、冷寒がわたしにはね返ってきて、わたしまで凍ってしまい、わたし自身の冷凍という形でわたしは自分の希望の収穫物を刈り入れることになるでしょう。だからわたしが善を表現すれば、わたしは永遠にわたしの善果を収穫するわけです。

今、この部屋にわたしが現れ出たのも、こういう風に説明が出来ます。あなたがたがわたしを残して出て行った小部屋で、わたしは自分の肉体を『不偏なるもの』の中に置き、肉体の波動を高めることによって『不偏なるもの』に戻した。わたしたちの言い方をすれば、一切の質料(substance)が存在する『普遍』なるものの中に一日奉還したのです。

それからわたしのI AM(神我・実相)、即ちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとそのヴァイブレーションが下り、遂にこの部屋の此処で具体化し再現して皆さんにも見えるようになる――というわけです。この過程の一体どこに神秘があるのでしょうか。神の『愛(め)ぐし子(こ)』を通じて父なる神がわたしに与え給うた力、別言すれば、法則をつかっただけではないでしょうか。

この『神の子』というのが、あなた方であり、わたしであり、人類全体ではないでしょうか。ではどこに神秘がありましょうか。どこにもないのです。芥本種子に象徴された信仰のことを考えてごらんなさい。その信仰は、われわれ人間すべてのなかにすでに生まれている内在のキリストを通して、『普遍』なるものからわたしたちに来るのです。

それは極めて微細なる一点として、『内在のキリスト(実相)』、即ち超越心、即ち、わたしたちの内に在る接受機関を通して入ってきますが、わたしたちの内に在る山嶺、至高所、即ち頭の頂上まで一旦昇って、そこにとどまります。そこから聖霊が下るようにしなければならないのです。そこで次のような訓戒(いましめ)が出て来ます。

『汝、思いを尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、心を尽くして主なる汝の神を愛せよ』。この意味を考えてごらんなさい!どうです、分る様になりましたか?思いといい、魂といい、力といい、ここまで来ると、もうこれら全部を神、即ち聖霊(ホーリー・スピリット)、即ち絶えず働きたまうところのことごとく霊なる神我(ホール・スピリット)、全我霊(ホール・スピリット)に引き渡すより外にどう仕様があるというのですか。

この聖霊はいろいろな方法でやって来られます。とりわけ中へ入れて貰おうとして戸を叩き求める小さき者たちとしてね。わたしたちはこの聖霊を受けてわが内に入れ、光の小点、即ち、知恵の種子と結びつき、それを中心に廻転し、丁度今先、氷の分子が中央の分子に密着したようにみなさんはピタッとくっついていなければなりません。

そうすると丁度氷のように、次々と分子ごとに、或は群ごとに生長して形を取る様になり、遂には困難という山に対しても『汝動きて海に入れ』と命じ得るようになり、命じた通り実現することになるでしょう。このような現象を四次元とか、或はその他、お好きな呼び方をしてもよろしいが、わたしたちは内在のキリストを通じての神の表現、と言っているのです。

さて、キリストの生まれた経緯(いきさつ)はこうでした。先ず偉大なる母マリアが理念を覚知し、それが心に抱き続けられて、魂という土壌の中に孕(はら)まれ、一時そこにとどまり、やがて完全なる長子、神の一人子なるキリストとして生まれました。それから、女性の最良のものを与えられつつ養育と保護とを受け、見守られつつ慈愛の下に少年期を経て、成人に達したのです。

内在のキリスト(実相)がわたしたちすべてに実現する道行もまた同様です。まず最初に神の土壌-すなわち神のまします中枢部-に理念が植えつけられ、完全なる理念として心の中に維持され、やがて遂に完全なる神の子、即ち、キリスト意識として生まれ出てくるのです。あなたがたは今しがたの出来事を見はしたものの自分自身の目を疑っています。

しかしわたしは、あなた方を責めようとは思いません。皆さんの中の誰からか知らないが、『催眠術だ』という念波を受けましたが、同胞(きょうだい)達よ、今晩あなた方が目撃したような神の与え給うたすべての能力を行使する力が自分にはないと思っている人がいるのですか。わたしが何らかの方法であなた方の考えや視力を支配したと、たとえ一寸の間でも思う人がいるのですか。

あなた方の中の誰かに、いや、あなた方全部に、わたしは催眠術的魔力を投げようとすれば出来るとでも思うんですか。あなたがたは知らないのですか。あなた方の偉大なる書、聖書に、『イエスは戸がしまっていたのに入り給うた』と記録されているではありませんか。イエスは丁度わたしがしたように入って来られたのです。

偉大なる導師にして又教師であり給うイエスが、いかなる方法にせよ、他人を催眠術にかける必要でもあるとお考えなのですか。イエスは今晩のわたしのように、神の与え給うた彼自身に内在する力を用い給うたのです。くれぐれも断っておきますが、わたしはあなた方の誰にでも出来ること以外のことは決してやっていないのですよ。

あなた方だけではない、この世、いやこの宇宙に、今生まれてあり、又生まれたことのある子らには、すべて今晩のようなことをなし遂げる力があるのです。このことを皆さんはハッキリと把握して欲しい。皆さんは神の分けみ霊(たま)であって、決して肉我ではないのである。あなた方は自由意志であって、自動人形ではないのである。

イエスには催眠術を他人にかける必要はなかったし、わたしたちもまた然りです。わたしたちの正直さが完全に納得の行くまでは完全に疑うがよい。しかし、催眠術という考え方だけはここ暫くの間でも捨ててしまうか、少なくとも、あなた方の仕事がもっと深く進むまでは心を受身に保つがよい。わたしたちが皆さんにお願いすることは、心を解放しておくということです」。