初日から4日目。
今だに頭の中は、仕事の事でいっぱいであります。

「あのタイミングで、あれを動かして移動ついでに、あっちのチェックをして、その後‥‥‥‥。」

なぁ~んて考えてばかり。
一瞬を逃すと芝居が進行しなくなる事もあるようなきっかけの仕事もしているので、
気をつかいます。

そんな日々が続き、明日は久しぶりの休み。


がぶ飲みしようかと思いきや、コップ半分ですぐ寝てしまった。
けれど、心の緊張はとれていないのか、わずか3時間で起きてしまった。

ね、眠れない‥‥‥。

どうしようかとぼんやりしてたら、また仕事の事が頭をぐるぐるしております。

じゃあ、少し違う事でも考えてみようかと、
こんなこと考えてみています。


今月は、時代の違う演劇が一度に興行されています。
どちらも人々の娯楽です。
しかし、「あれは歌舞伎か?」と聞かれると首をかしげてしまいます。


歌舞伎は、時世の話題や古くから伝わる話、はたまた奇想天外なファンタジーなものまで様々な作品を、
大衆に娯楽として提供してきたいわば「大衆演劇」です。

そうなると今月の異色の2作品、
クドカンの「大江戸りびんぐでっど」と、
野田版「鼠小僧」はどうなのか?

いわゆる「小劇場」出身が作った作品はどうなのか。


「大衆演劇」ではあると思いますが、「歌舞伎」と言えるかは両作品によって見解は分かれるところでしょう。


クドカンの「大江戸りびんぐでっど」は「歌舞伎」じゃないけど、
野田版「鼠小僧」は「歌舞伎」だなと思える。


この違いは何だろう。


クドカンの「大江戸りびんぐでっど」は初演、
野田版「鼠小僧」は再演。
ちょっと飛躍した考えを思いついた。


作品の質や毛色はもちろんあるだろうけど、
歌舞伎って、作品が生まれてすぐには「歌舞伎」にはならないんじゃないかしら?


幾度とない稽古で生み出される伝統芸能があるように、歌舞伎にも経験が必要なのではないだろうか。


新作が「歌舞伎」にまで昇華されるまでの時間。


だとすれば、それを与え着実に取り込んでいく、領域としての「歌舞伎」の懐の深さには恐れ入る。


まるで生き物。


「歌舞伎」を興行する非常に整備されたシステムもそうだが、
そういった生き物のようなエネルギーが、今日まで歌舞伎が舞台芸能として生き延びてきた要因ではないだろうか。


そして、僕らはこれからの「僕らの大衆演劇」の為に学ぶべき必要があると思う。


なんちゃって。

ますます眠れない〓