文学研究会6 | himajin-onlyのやどかり日記

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入会ー脱会ー再入会2
 
   ~1989年の日本近代文学会の東京本部の春季大会が、私の母校の大学で開催された時は、私も裏方の手伝いをしたので、レジュメがもらえず、後日、母校の大学の近代文化研究所の助手に、コピーをもらった。この時点で、すでに、私は修士課程の1学年上の先輩と、こじれていて、懇親会後の2次会で、三好先生に先輩は六本木の店に連れて行ってもらう時、私ひとり、来なくていいからって、置き去りにされてしまった。
   ~三好先生に私が夢中になりすぎたのが、今の言葉で言えば、ストーカーって、先輩から認定されて、ブロックしたかったのだろう。
   ~そんなに、反発していたら、三好先生と縁が切れてしまうよって、忠告もされた。
   ~1989年の日本近代文学会の東京本部の秋季大会は、同志社まで、三好先生の伝統の黄昏を聞くため、私ひとり、日帰りで行って、日本文芸学会の会員に会った。あっ、もしかして、母校の大学の近代文化研究所の助手にも、会ったかも。そこで、質疑応答に立った山田有策先生は、三好先生から、新しい物の考え方をする世代だって、世代交代を意味するような言葉をかけられていた。

   ~ 1990年5月20日の日本文芸学会の2日目が、三好行雄先生が急逝した日だったので、関西学院大学から戻ると、母校の大学院の連絡網で、先輩がお手伝いに行くから、私は来なくても、いいって、三軒茶屋の私設の女子学生会館の受付の電話に呼び出されて、注意される。それから、4日後の太宗寺の葬式で、日本文芸学会の会員に会う。

   ~1992年10月の樋口一葉研究会が発足した準備会で、私の母校の院生は裏方なのに、私ひとり手伝わなくていいと言われ、着席して聴講したら、先輩からは、私は手伝わなくもいいって、戒められ、後輩からは、みんな、大変なのに、私ひとり、座って、聴講なんかしてって、のちのちまで言われ続けることになったのだが?
   ~出鼻をくじかれると、その後、発展しないって、占いで言われる通り、三好先生の死後、母校の大学院に、新しい世代の山田有策先生が来ると、私が追いかけていた三好先生の反近代は忘れられて、文学研究会でさえ、誰も言わなくなった。反近代とは、明治維新で、日本が近代化する過程は、すなわち、西欧化=文明開化することだったが、日本人には江戸情緒に回帰する心があるので、それを、近代化に抵抗する日本人らしさと読み解いた。

   ~上の甥が浪人することが決まった時、小学校の時の担任の先生から、年賀状の返事の電話が来て、小学生の頃の私は、もっと、アメリカ人っぽかったでしょって、私は中学でも英語は百点だったのだから、その頃に戻りなさいって、子供のテストの点が悪い時は、両親が一緒に勉強すれば、いいって。福岡女学院大学の天神サテライトで、英会話を受講することに決めて、これで、本当に、三好先生の反近代とは、さよなら、だと思った。

 
 
1991年5月=私が博士課程1年生=日本文芸学会の大会の園田女子大学
1992年5月=私が博士課程2年生=日本文芸学会の大会の帝塚山大学
1993年5月=私が博士課程3年生=日本文芸学会の大会の山梨英和短期大学に、新幹線に、かなり、遅刻&到着。帰りは、二松学舎大学の院生と、ほうとうを食べに行く。

1993年8月9日10日11日=日本文芸学会の夏期研究集会に、ようやく、出席。母校の大学の院の先輩が研究発表者。
1993月8日16日=實方清先生が召天。川端康成ゼミの私の卒論の指導教官の先生から、實方先生は、「林芙美子は」「放浪記は」から始まる作家論は認めない、作品論をしなさいと、注意されるが?

1994年5月=私が院の研究生の1年目=日本文芸学会の大会の甲南女子大学で、私は「放浪記は」から始まる作家論の口頭発表をするのだが、立命館大学の院生の樋口一葉研究者も口頭発表していて、その場で、すぐ、樋口一葉研究会に誘って、樋口一葉研究会の東京の会場で山田有策先生にご紹介する。

1994年8月=日本文芸学会の夏期研究集会で、芥川龍之介の地獄変の院生の研究発表の、むちゃくちゃな司会を担当&自爆。電通のロコちゃんも、洋画の写真を引用した研究発表をする。母校の大学院の助手の先生も研究発表をする。
1995年1月17日=阪神・淡路大震災
1995年3月20日=地下鉄サリン事件

1995年6月=私が院の研究生2年目=日本文芸学会の大会の花園大学
1995年8月=日本文芸学会の夏期研究集会の立命館大学で、私は林芙美子と天草を、これまた、夏目漱石の草枕との比較をベースに、むちゃくちゃな展開の作家論を発表。鹿児島出身の内倉尚嗣が、坂口安吾の白痴で、赤坂憲雄の異人論を使い?

1995年8月=日本文芸学会の夏期研究集会の立命館大学で、大久保健治が、超、面白くない研究発表をしたので、暑中見舞いで、いいのは顔だけで、研究論文が完成するには20年かかるって、どこが面白くないか、ピン・ポイントで指摘したのを書いて、送ったら、行方不明。鹿児島の竹本先生に似ている。
 
   ~樋口一葉研究会の関礼子先生が、フェミニズム研究会を立ち上げた時、山田有策先生から、フェミニズムとか、ジェンダーとか、ウーマン・リブとか、女性の人権とか、興味はないのかって、聞かれた。
   ~女性が会社で対等に扱われるためには、経済的にも、男性に頼ることなく、自立してなくてはならないって、説教をされることが多いので、私は、闘う女の集団は嫌いなんですって、返事。
 
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