僕が結構断言しがちな人間ではるけど、そういいつつも本当は断言なんてムリだよなとも思ってる。

まあ言えば、そうであってほしいという願望のもと、でもそれは違うよなと思いつつ断言するのが僕だ。

なんやねん。めんどくさ。

 

で、結構本質論みたいなのには気持ちが反応することも多い。

「優しさとは」みたいな議論見かけると、結構「おっ」なんの話してんの?って思う。

 

んで、懲りもせず断言する。

辛いことしらない人、ボンボン、確かに余裕あるから「優しい」かも、辛い人は辛辣で歪んでいるかもね。

 

但し、条件がある。

まず「優しい」をどう考えよう。絶対的な優しさそれは仏陀、キリスト、アッラーにならねばねえ。

というか彼らも絶対的な真理か、疑うのが哲学ってもんでさあ、ダンナByデカルト

 

まあ、「優しい人」ってえのを功利的に捉えて「自分の存在を正当化してくれる、或いは都合のよい存在」と考えるなら、辛いことを知らないorボンボンが優しいのは自分の遠くにいて彼らが余裕がある状態に限るだろうってこと。

 

彼らが僕に害意を抱くとか悪気がなかったとして、そして、彼が善意だったとして、同じ境遇で近くにいると彼らは足手まといで且つ役に立たない。

絶対的に経験値が不足していて、彼らから得られるものはない。

目の前で彼らが10億円落してそのお礼に1億円ぐらいくれる状況にないと自分にとってなんのいいこともないぞ。

(彼らが仏陀、キリスト、アッラー、アフラマズダ、ケツァルコアトル、テスカトリポカ...以下略 の場合は例外があるかもしれない)

 

逆に辛い目にあった歪んだ連中。

これは近くにいるとしんどいな。しんどい。あまり触れたくない。

しかし、万一同じ立場になった時点、つまり、彼の死と僕の死がイコールになったとき、彼は頼りになる。

たいていの場合、ボンボン、経験値がクソのヤツでないかぎりピンチになった時には1人より2人が有利。

見張りするのも交替、考えるのも違う観点を持てる。

 

ただし、危機が去ったり、危機の対象から「おまえだけを助けてやる」みたいなオファーがありそうな時は注意だ。

なので、そういう連中と行動をともにするときは「オレの存在はおまえにとって不可欠」であることを理解させるように油断してはならない。

 

まあ、なにがいいたいかっていうとラクして楽しんでいる連中は嫌い、なので、もちあげるな、あいつらはクソだ、そして歪んだオレは利用価値あるぞって言いたいだけだったりする。

 

正論を振りかざし、ピンチになるとお助けメカの力を借り強引に勝利をもぎ取り正義を執行するヤッターマンよりも、自力だけで勝負して負け去るドロンジョやボヤッキー、トンズラの方が愛おしい

 

久しぶりの記事が駄文なのも暑さのせいにして頂けるとこれ幸い。

熱中症注意、塩をなめ、麦茶のむべし