雲ひとつない晴天の冬空に、花火の破裂音が何度も鳴り響いた。この地域に住む住民たちが、年に一度の楽しみとしている《角力祭》の開始を告げる合図だ。この花火の音をきっかけに地元住民たちや観光客たちは、ぞろぞろと開催場所の大鍬神社へと集まっていくのだ。
祭最大の目玉である、一般参加による格闘大会《角力ノ儀/すもうのぎ》が始まるまで、まだしばらく時間があるというのに、既に境内はごった返しており、人々は神社周辺に数多く立ち並ぶ露店へ集まり《食い歩き》を楽しんだり、また年配の方々は今年の《角力》の勝敗について、喧々諤々議論したりして各々楽しいひととき過ごしていた。だがそんな《好事家》たちをもってしても、今年の角力祭の勝敗を予想するのは難しかったようだ。
例年であれば「何処どこの何某」と、参加者の素性がわかっているので勝敗予想も立てやすかったが、今回彼らの《知っている顔》といえば毎年参加している秋元絵茉のみで、プロレスラー時代を含めてここ十年近く、祭の舞台には上がっていなかった今井遥の現在の実力は全くの未知数であるし、RINAや三人の外国人参加者たちについては全く《情報》など持ち合わせてはいなかった。ほぼ知らない《参加者たち》の顔ぶれ、ましてや全員が女性という異例の“初物尽くし”に、昔から祭を観続けている年配たちは戸惑いを隠せず「初居様も遂に色ボケしたのか?」など“悪口”が飛ぶ始末である。しかしそんな《堅物》の常連とは違い、若年層や“一見さん”の観光客にはおおかた興味を持ってもらえたようで、角力祭史上初となる、“おんなだらけ”の《角力ノ儀》の開始を今や遅しと待っていた。
「は~い、神事の会場はこちらになっておりまーす、くれぐれも前の方を押さないようご注意願いまぁす!」
角力祭のスタッフの証である白い法被を着て、紅白の鉢巻きを頭に締めたケンジが、拡声器を片手に大勢の見物客の誘導を行っていた。もっともケンジ本人はこんな雑務が面白いはずもなく、祭に出られない悔しさと伯父である初居の監視下でこき使われている惨めさが、彼の《不満》となってその表情に現れていた。
「こらっ、ケンジ! もっと真面目にやらんかぁ!」
高齢とは思えぬ大きな身体を揺らして、初居御大がケンジの元へ駆けより叱咤する。
「お、伯父貴ぃ?! やべぇ!」
「……事の流れからいえば、お前さん今頃は拘置所へ放り込まれて、もっと惨めな思いをしている身の上なんじゃぞ。もっとそれを自覚してしっかり働かんかい!」
本来であれば《強姦未遂》とはいえ、被害者であるRINAが警察に訴えれば、ケンジは逮捕されていてもおかしくない状況であった。だが初居御大が彼を「自分の観察下に置く」という話で、この事案は《手打ち》となったのだ。もし仮にケンジが不穏な動きをみせようとも、初居の手元には絵茉が撮影した《犯行現場》の動画データはあるし、もし彼の監視下から逃げ出せたとしても、《武林》の好漢たちによる広大なネットワークを駆使して、居場所を見つけ出す事も容易である為、《武》の才能のないケンジにとっては完全に“八方塞がり”な状況であった。
「でも……自分が出られなかった祭に何の意味があるんだよ? これだったら家でじっとしていたほうが、ナンボかマシじゃねぇか?!」
ケンジの自分勝手な屁理屈に、初居は「またか」と肩を落とした。
「それだからお前は、いつまでたっても“一人前の男”として認められんのじゃ! いいか? 目先の不満ぐらいでブツブツ言うな、もっと先を見据えろ。ワシがせっかく《特等席》で奉納角力を見せてやる、と言ってるんじゃから、ケンジは彼女らの闘いをしっかり目に焼き付けて、来年の角力祭に出られるように努力せい!」
熱い伯父の言葉にケンジは魂を揺り動かされるが、《女性だらけの出場者》という、例年では有り得ない“奇妙な事態”が彼の脳裏に引っかかり、完全には納得しきれないでいた。そんなケンジの空気を察したのか初居は話を続ける。
「……なぁケンジ、強さとは何も男性だけの《専売特許》ではないぞ? お前さんとは別の世界の《住人》である武林の女性たちは、数多の英雄・好漢に引けを取らぬほどの強さを持っておる。そんな彼女たちが今回この祭に期せずして一堂に会したんじゃ、彼女たちを舐めてかかると痛い目にあうぞ」
伯父の言葉にケンジは、妻であるビアンカの顔がふっと脳裏をかすめた。
――あぁ、そういえば夫婦喧嘩になるとアイツには、全く歯が立たねぇもんなぁ。
《最凶の身内》の存在を思い出し、ようやく納得したケンジであった。
「絵茉さ~ん、おまたせしました」
闘いの舞台となる神楽殿より、少し離れた場所に設置された、角力祭出場者の控室であるビニールテントの中へ、遥に連れられてRINAが入ってきた。ロングの髪をゴムでひとつに束ね、白い上衣と濃紺の袴という古武道然とした清楚な出で立ちに着替えた絵茉が、ふたりを笑顔で出迎える。
「遅いじゃないの。さては遥姉ぇの“趣味”に付き合わされて、いろいろコスチュームを着せられてたな?」
「リナちゃんの素材自体がいいもんだから、イメージが湧いちゃっていろいろ引っ替え取っ替え着せているうちにこんな時間に……十分堪能させてもらいました、はい」
満足げな表情をした遥をみて、RINAと絵茉は顔を見合わせて笑った。
「まったく遥姉ぇは、いつまでたっても可愛いモノに目がない《少女趣味》が抜けないんだからぁ。おかしいと思うでしょリナちゃん?」
少々呆れ顔の絵茉に対し、RINA自身は言葉を発せず、ただニコニコと笑うだけで否定も肯定もしない。しかし笑顔の裏側に隠された疲労の色を、絵茉は見逃さなかった。
「ふぅ……あ、そうそう。それで遥姉ぇコーディネートのコスチューム、どんな感じ?見せて見せて」
絵茉が興味津々に、茶色のコートに身を包むRINAに目を移す。じっと彼女が自分の身体を見つめるので、《蹴撃天使》は顔を真っ赤に染めて恥ずかしがった。
「リナちゃん、見せてやりなよ。あ、何ならコートのボタン外そうか?」
「結構です!」
遥の冗談を、真剣になって怒るRINA。年長者ふたりの意味ありげな「にやにや」が止まらない。
視線を浴び気恥ずかしさ一杯で、思い通りに動かない手で少女は、ひとつひとつゆっくりとボタンを外し、コートの襟元を徐々に広げていく。
おおっ!
絵茉が感嘆の声をあげる。コートが開帳されるとその中から、《蹴撃天使》と胸の辺りに大きく刺繍された、純白の空手着の上衣とネイビーブルーのセパレートとスパッツという、極めてシンプルかつスポーティーな出で立ちが登場した。
「どう? いいでしょ。現役時代の最初の頃に使っていたコスチュームで、リナちゃんのイメージにピッタリなのが残っていたので、寸法を彼女の丈の大きさに合わせ直したんだけど」
絵茉は黙って、ぐっと親指を立て「満足」の意思表示をした。もっともRINA本人は、コスチュームが伸縮性に富んだ素材の為、ヒップの曲線が丸わかりである事が気になって仕方がなく、なかなかコートを全部脱げずにいた。
「恥ずかしいです、遥さん。せめて空手着のズボンを穿かせて……」
「あまいっ! 何度も言うようだけどこれは《お祭》なの。目立ったモン勝ちなのよ。せっかく参加者で一番若いんだからそれらしい格好をして、少しでも観客の視線を自分の方に向けないと!」
――それって遥姉ぇ、完全にプロレスラーの思考だよ?
絵茉はそう思ったが敢えて口に出さなった。自分の余計なひと言が、絶対に遥の怒りに火を注ぎそうな気がしたからだ。彼女から注意を受けるRINAをみて絵茉は「悪かった」と心の中で詫びた。
「……それで、遥姉ぇの方はどうなのよ? まさかTシャツに短パンじゃないでしょうね?」
「失礼なっ! やると決めた以上、ちゃんとコスチューム着てきたわよ!……だけど見せるのは今じゃない、本番の時まで楽しみに待ってなって」
自分ひとりだけが、上下白いラインが入った赤色のジャージ姿の遥に向かって、絵茉とひとり羞恥プレー状態のRINAは「ひどい!」とブーイングを飛ばす。そんなふたりからのブーイングにも全く意に介さず遥は、ただ黙って笑みを浮かべるだけだった。
外では客寄せの花火の音が、未だに鳴り続いていた――
時計の針が正午を回り、神楽殿では神事の時のみに着装する、特別な装束を纏った宮司が御払いの儀式を行い始めた。それまで人ごみで騒がしかった境内も、この時ばかりは水を打ったように静まり返り、バックグラウンドで流される雅楽の音色が、この場所を現実世界から神聖な空間へと変貌させていく。
ひと通り御払いの儀式が終わると、神社職員によるアナウンスがスピーカーから聞こえてくた。
「今年の出場者の入場でございます。皆さま、どうぞ盛大な拍手でお迎えください」
大勢の見物客からの拍手に迎えられ、角力祭に参加する六人のおんなたちが次々と神楽殿へと上ってくる。やはり参加者のなかで一番声援が多いのは、知名度が高い《地元の英雄》である遥だ。突然のレスラー引退から五年、全く表舞台に姿を現さなかった《女子プロレスの元スター》が、こんな一地方の祭に参加するなんて夢にも思わない、遠方から来た見物客にとっても、古くから彼女の事を知っている地元民にとってもこれは《ビッグ・サプライズ》であった。
「えっ、あの“悠木はるか”が? こいつはビッグマッチ並みの価値はあるぜ!」
「よくぞこの、角力祭の舞台に戻ってきた。お帰り遥ぁ!」
久しぶりの《公の場》に少々緊張した面持ちで、声援に応え手を振る遥。一方毎年参加している絵茉にも、顔見知りの地元のひとたちから「絵茉ぁ、今年もがんばれよ!」と声援が飛ぶ。根っからの“お祭り女”である絵茉は、あちこちから掛かる応援の声に笑顔にVサインで返答した。
次々と多くの人々から声を掛けられる遥たちをみて、RINAはちょっぴり羨ましいな、と思った。こんなに大勢の人たちが盛んに各参加者の名を口にする中、存在自体を知らない事もあるが、他の誰よりも年齢も体格も遥かに劣る彼女には、「こんな娘が……」という冷やかな視線はあっても、激賞や応援の声などは一度も上がらなかった――つまりRINAの存在は「人数合わせの参加者」という認識であって、誰のひとりも彼女の勝ち負けには最初から期待していないのだ。
誰かがRINAの肩をぽんと叩いた。遥だった。
顔を観衆がいる正面に向けたまま、彼女はRINAに静かに語りかける。
「……気にする事ないよ。すぐにこの見物客全員が、《蹴撃天使》リナちゃんに釘付けになるから」
大先輩からの《励まし》に、緊張と疎外感で強張っていたRINAの表情が幾分か和らいだ。
歓声と拍手の中で行われた、《角力ノ儀》参加者たちのお披露目も無事に終わり、遥たち日本人組とビアンカをリーダーとする外国人勢とが、神社職員たちの誘導でそれぞれ神楽殿の東西へと移動し、これから取組を行う者以外は舞台の側に座り待機した。
現在、神楽殿の舞台上にいるのは――《泰拳姑娘》秋元絵茉と《旋風夜叉》チェ・ソンヒだ。
お互いは視線を一度も逸らす事無く、じっと睨みつけたまま行司の「開始」の合図を待つ。
襟に黒いラインの入った、跆拳道の道着を身に着けたソンヒが、拳を握りゆっくり腰を落とす。絵茉も負けじと、両腕を曲げ片足を浮かせる、泰拳独特の構えを取り来たるべき戦闘に備えた。
押し潰されそうなほどの、ふたりから発せられる圧力に耐え切れず、行司がついに口を開く。
「――始めぃ!」
号令と同時に、本部席の側に設置されている、朱塗りの大太鼓がどんっ!と大きく打ち鳴らされ、待ちに待った《角力ノ儀》第一試合が遂に開始された。
それまで騒がしかった歓声のトーンが若干落ち、見物客たちは両者の出方を固唾を呑んで見守る。
「イヤァァァァァ!」
先に動いたのはソンヒだった。
上下に跳ねてリズムを身体に刻むと、相手を威嚇する甲高い掛け声と共に、切れの良い高速回転の後ろ回し蹴りを、絵茉の頭部に狙いを定めて放った。鞭のようにしなやかな蹴り足が、空気を切り裂いて迫ってくる。もし接触すればダウンは確実に免れないだろう。
絵茉は足をすぅーっと引き、身体を後ろにのけ反らせると、僅かな距離でこれを回避した。
おおっ! と一斉にどよめく見物客たち。
だがソンヒの猛攻はそれだけに留まらなかった。
目標を失った蹴り足が戻ってくると、間髪いれずに今度は脚を斜め四十五度の角度に上げ、機関銃のような連続蹴りで彼女に迫る。頭や喉元、それに胸などの部位を的確に捉え、一度も着地する事なく正確に打ち込まれる足刀。しかしそのキックの“教科書通り”な正確さ故に、百戦錬磨の絵茉にすべて腕でブロックされ、勝敗を左右するような一打を絶対に許さなかった。
にやり
ソンヒが不敵な笑みを見せた。
気が付けば、嵐のような蹴打の猛攻により、絵茉の立ち位置は舞台の隅に追いやられ、踵を一歩でもずらせば約一メートル真下の、がちがちに踏み固められた土の上へ落下し、《勝負》がついてしまう状況となっていた。絵茉はちらりと後ろを見るが焦りの色は全く無く、ただ目の前の対戦相手の、次の動作に注意して微動だにしない。
すぐ側で風を斬る音がした。
最後のひと押しとばかりに、ソンヒは胸部に目掛けて横蹴りを放ったのだ。
あまりにも「思い通りの展開」に、退屈を通り越して怒りすら覚えた絵茉は、ソンヒが放った《だめ押し》の蹴り脚をキャッチし、腋に挟んで固定すると残った手で喉をぐっと掴み、軸足を払い舞台の床板へとひっくり返した。
びたん!と音をたて、板の上に仰向けになるソンヒ。
「あんたの《武芸》ってこの程度?」
絵茉は冷たく、そして悲しげな眼差しを彼女へ向けた。怒りや蔑みが入り混じる、絵茉の瞳の奥に蠢く複雑な想いを読み取ったソンヒは、何故自分に対し、そのような感情を抱いているのかが理解できない。
わたしとあいつとは勝敗を競う《敵同士》であり、どんな内容で勝ったところで問題はないはずだ――ソンヒはそう考えていた。
だが絵茉は違っていた。互いが持つ武の技術を最大限に駆使し、ギリギリの状態で勝負する事を望んでいるのだった。その結果仮に自分が敗けたとしても納得がいったであろうが、《コミュニケーション》が取れないまま安易に勝敗を決められたならば、悔やんでも悔やみきれない。もっとも絵茉本人は負ける気など最初からないけれども。
「あいつ……何をこだわってるんだよ? 勝てば万々歳で、文句なんか無ぇじゃねえか」
本部席にて、初居御大の隣りに座らせられているケンジが、舞台上の絵茉を見て吐き捨てるように言った。《出来損ない》の自分からすれば、彼女が「格好つけている」様に見えたからだ。
「――そこが絵茉の長所であり、短所でもあるのじゃ。自分が闘いに《ロマン》を求めていても、相手が同じ考えとは決して限らんからな」
初居がケンジの言葉に対し補足をする。彼の目も舞台上を向いており、互いが顔を合わせないまま会話が進んでいた。
「伯父貴、珍しく考えが合うじゃねぇか」
「まぁな。だが絵茉とソンヒとの格闘技術の差を考慮すれば、特にに最短で勝負を決める程ではないじゃろうて」
伯父の言葉に驚愕するケンジ。
「えっ、あんなキレッキレのキックでか!?」
「ソンヒの放つ蹴り技の精度や速度、それに威力は確かに凄いものがある。しかし絵茉からしてみればそんなのは全て《想定内》であって、驚くべき要素ではないという事だ。だからそれ以上のもの……“技術のキャッチボール”的な、お互いの魂をぶつけ合うような攻防を望んでいるし、彼女ならそれが出来ると信じているから、あのような態度に出ているんじゃよ」
《武芸者》らしい伯父の解説を手掛かりにケンジは、女武芸家たちの次の展開に注目すべく、じっと舞台を凝視する。
絵茉の言葉に衝撃を受けつつも、ソンヒは平静を装いゆっくりと、床板から身を剥がし立ち上がった。
「私の《武芸》がこの程度かって……? 冗談じゃないわ」
「そうね、昨晩のあなたの闘いっぷりは尋常じゃなかったものね。じゃあ今は何? ふざけているの?」
「なっ……!」
怒りで顔色を朱に染めたソンヒだったが、血の気は一瞬で引き、今度は逆に冴えない表情と変わっていった。見れば彼女の唇や指先が微妙に震えている。
「《ウケ狙い》の派手な蹴りは必要ないの。あなたの、普段通りの“魂の入った”蹴りをあたしに叩き込んで来なさい!」
力強く自信に満ちた絵茉の言葉が、それまで固かったソンヒの表情を柔和にし、全身をがんじがらめに縛っていた《見えない鎖》を断ち切った。心と肉体に掛けられていた枷から、解き放たれた彼女から放たれる《闘気》にはもう迷いの色はない。
「ふん……後悔するわよ? 血に飢えた雌虎ほど、厄介なものは無いんだから――覚悟しな!」
デモンストレーション気味に繰り出される、パンチやキックの風を斬る音が先程とは違い、程よく脱力しているのがよくわかる。それを確認した絵茉は前髪をかき上げ、口角を僅かに上げ微笑んだ。
――さぁ、始めよっか?
絵茉は誰にも聴こえない様に小さな声で囁くと、《旋風夜叉》ソンヒは黙って頷いた。
床を蹴りあげ、すばやく相手との間合いを取ると、絵茉に向かいミドルキックをジャブのように右へ左へ撃ち放ち、相手の《攻撃範囲》を徐々に狭めていく。
「イャァァァッ!」
再び肚の底から掛け声を発したかと思うと、ソンヒの身体は既に高速回転を始めていた。
――来るかッ?
しっかりと腕を上げ、防御の体勢に入る絵茉。思わず握る拳に力が入る。
上段から勢いよく、鉈の如く振り下ろされる右脚。だが彼女との距離が遠すぎる――フェイントだ。その辺は十分に予想していたのか、絵茉の身体は微動だにしなかった。
が、次の瞬間、《泰拳姑娘》の顔から《余裕》の表情が消えた
ソンヒが振り下ろした右脚で床を蹴り、天井高く舞い上がったかと思うと、今度は逆の脚による高角度の回転蹴りを、側頭部に狙いを定めて発射したのだ。回転による遠心力で更に威力が増し、仮に被弾すれば只事では済まないはずだ。
絵茉は冷静に着弾地点を推測し、しっかり防御できるよう半歩分、身体の位置を退かせる。
しかし――その時、脳天を起点に痛みが全身を突き抜けた。
次の回転蹴りもフェイントだったのだ。ソンヒはもう一度身を捻り、利き足である右脚で、絵茉の脳天に踵を叩き込んだのだ。