関西人で、京都大学のほうが遥かに進学先として濃厚である地方公立進学校の生徒だった僕が東大を選んだ動機は、単純に「偏差値」だけではありませんでした。まともな記事第一回は、友人、家族、親類からはけっこう良く聞かれたテーマである、東大進学の動機について語りたいと思います。


 まず、一番最初の進学先の分かれ目は、文系か理系かでした。周りの人の多くは、僕が理系に進むのが当然だと思っていましたし、僕も自分自身は理系の頭だと思っていました。数学、物理や化学もかなり得意でしたし、論理的思考を好み、国語の小説や古文の感情表現には違和感を感じることも少なくありませんでした(ただし、趣味としての読書では小説・ライトノベルの類は良く読みます)。英語、社会、国語も好きなことは好きでしたが、一番好きな科目はやはり数学で、一番得意な科目もやはり数学でした。


 何より、僕の場合は、親が医師だったので、医学部へ行くという進路が濃厚だったのです。当時は開業医ではなかったし、先祖代々医者の家系というわけでもないし、僕には医学部を目指している兄がいたので、別に僕が医者の道を継ぐ必然性はなかったのですが、母親は熱心に医者への道を勧めてきましたし、僕も医者としての父親の業績は、そこそこ誇りに思っていました。


 なぜ、僕が医者にならなかったのかというと、そこにはやはり医者という職業の重圧を、勤務医の子供として子供の頃から感じ続けてきたからです。世間一般のイメージでは、医者は知的で、裕福で、満ち足りた生活をしているというイメージがあると思いますが、長い間、開業もせず、医局の命令で病院を転々とし、勤務医を続けてきた父を見ると、とてもそんなものではありませんでした。優秀な頭を持ち、朝も夜もなく、土曜も日曜もなく、当直までこなしながら、ぶっ続けで仕事をし続け、かつ家では面倒見のいい父として子供の相手をしてくれる。頭ではそうそう負けを認める気分にはなれませんが、体力と精神力では僕は父のマネはできないと思った。それが、僕が医者にならなかった理由です。


 医者にならないという方針を決めてしまうと、後は理系は技術者か研究者しか道はないかなぁ、と漠然と思いました。今から考えると、機械の設計などの道にもかなり魅力を感じるのですが、当時の僕は、技術者は与えられた仕事をただ正確にこなしていく職人、研究者は成果が出るかもわからない実験に朝晩明け暮れる探求者というイメージが強く、どちらもピンときませんでした。


 逆に、文系のほうは、入れば漠然とやりたいことが見えていました。僕が、文理選択を考えていた頃は、ちょうどライブドアの堀江社長が脚光を浴びていたころでした。新球団設立に向けて動き、ニッポン放送の株式買収のために動き、テレビのニュース、新聞は朝晩、経済系のニュースでにぎわっていました。こういう記事を見ていて興味を持ち、経済・経営の本を読み漁るなどして、そちらの方面に興味を持った僕は、文系で、経済系志望という方針を固めました。何より、経済は社会科学であり、理系的要素、数学的要素が強く、僕の長所が十分に生かされると思ったからです。


 こんな感じで、僕は文理選択を終えました。あまり記事が長くなりすぎても読みづらいので、何故、周りの友達がみんな京大を目指しているのに、僕は東大を目指したかは、次回に回したいと思います。ご期待ください。