これも国会図書館デジタルコレクションから拾った末裔ネタだが、もう少し根拠がありそうな話。

 幕末の尾張藩に不破数右衛門を称する家があったことは、古く熊田葦城「日本史蹟赤穂義士」に記載があり、近くは宗玄寺さんのブログに述べられているが、名古屋郷土文化会の「郷土文化」173号(1995)に中山文夫「赤穂義士不破数右衛門と名古屋」という記事を見つけた。

 中山氏が依拠しているのは、尾張藩士・中山大作清寛(明和2−文政12、1765-1829)「見聞日録」のうち、同藩士(成瀬隼人正与力、犬山城番)不破数右衛門(正鷹)家の文書などを調査した(享和元年=1801)時の記録で、数右衛門正種が討ち入り後に父にあてた書状写しなどが含まれている。(ちなみに、その一部分が宇治楽文「赤穂義士の書翰」の最後の文書になる)


 これによれば、はじめて尾張藩に仕えたのは、義士不破正種の子・辰右衛門正武(初名亀八郎)である。彼については後で改めて考察するが、一挙後浅野壱岐守(長恒)のもとにいたが、尾張にやってきて犬山城番になったという。宝暦7年(1757)に娘を残して死去したが、同役の者たちが気の毒に思い、同僚鳥居平左衛門の子を婿として名跡を継がせた。これが不破数右衛門正忠になる。その子の数右衛門正鷹に、中山大作が取材している。なお、この家は不破正種から「正」の字を継承しているが、成瀬隼人正家も「正」が通字のため、遠慮して「政」の文字を常用しているとのことだが、ややこしいので「正」で統一しておく。

 さて、このような事情なので数右衛門正忠は辰右衛門に会ったことがない。不破家の事情については養母(辰右衛門妻)から聞いただけで、情報に不確実なところがある。


 厄介なのは辰右衛門(初名亀八郎)の身元である。この家の所伝では、兄が亀八郎(辰右衛門)弟を大五郎としている。しかし、義士・数右衛門正種の親類書では、数右衛門の子は大五郎だけで、亀八は弟のはずである。ただし、これをもって当家の所伝を否定するのは早計ではないか。中山氏は「それなりの理由があって家督を嗣いだ」ものと推定しており、私も賛成である。

 あくまでも可能性の問題でいえば、亀八は数右衛門正種の実子かも知れない。一つの理由は亀八の年齢である。正種の親類書では、元禄16年の時点で数右衛門正種34歳、弟の佐倉慶也30歳(37歳になっているものもあるが、弟だというからこちらがよいだろう)佐介27歳に対して亀八13歳。あり得ないほど離れてはいないが、やはりちょっと開きがある。実父が数右衛門正種だとしても不思議はない。仮に、正種が不破家に養子になる以前に儲けた子だとすると、実家が引き取り弟として育てるというのは、ありそうなことではある。


 当然、不破家の継承者として考えられるのは、先代数右衛門の娘の生んだ大五郎である。正種の親類書によると、6歳の大五郎は播州亀山の母や祖父のもとではなく、伯母(篠山藩士太田半兵衛妻=先代数右衛門娘)のもとで育てられている(ちなみに娘は母と一緒にいる)。おそらく正種が不祥事を起こして浪人した時からであろうが、不破家と岡野治太夫=佐倉新助家との関係は少しく複雑なものがあったように思われる。

 大五郎は出家し、後に客死したと数右衛門正忠は書いている。もっとも中山氏によれば、円頓寺過去帳には不破数右衛門(亀八)家と不破大五郎家が載っている由。なお後考が必要であるが、ともかく大五郎が出家したのは確かだろう。それで、不破家の血筋ではないが、庶兄である亀八=辰右衛門による名跡継承が浮上したのではないか。そうなった時に、旗本浅野壱岐守長恒という有力者の存在は、意味があったろう。その後押しを得て不破姓を称し名古屋で仕官したころには、もはや赤穂事件の関係者が連座する心配はなく、むしろ名誉の士として遇せられていたのである。


 というような筋書は、事実認定するには証拠不十分であるが、状況証拠的にはあながち否定しきれないと思うのである。