矢頭右衛門七は、四十七士の中でも人気者のひとりである。大石主税に次ぐ年少であり、死んだ父親に代わって参加するという経緯から、また下級武士で貧困に苦しむという設定から、涙を誘うようなエピソードが多い、

 逸話のひとつに、江戸に下るのに先立って人をだましたというのがある。父・長助の遺言で家伝の腹巻を着用して討入に参加しようと決心したはよいが、当面葬儀費用にも事欠く有様。やむを得ず、件の腹巻を入質して野辺の送りを済ませたが、やがて武林唯七がともに江戸に下ろうと誘う。江戸行きはもとより望むところであるが、困ったことには腹巻が手元にない。そこで一計を案じ、修理が必要だからと嘘をついて持ち出し、そのまま江戸に出てきてしまったという。

 この話、大阪浄祐寺の矢頭長助の墓碑に刻まれている。撰文は高松藩儒・菊池武賢。文豪・菊池寛の先祖である。れっきとした学者に権威づけられて、実説であるかのように流布しているが、墓碑は宝暦12年(1762)、討入から60年後のものである。当然ながらそのまま受け取るわけにはいかない。


 このエピソードの初出は『赤城義臣伝』らしい。虚妄の説とも言い難いが、どうも筋が悪い。

 右衛門七の東下は、『義臣伝』の記述とは違い、武林と同行しておらず、千馬三郎兵衛らと一緒だった。『金銀請払帳』によれば江戸下りの旅費を一緒に支給されており(受領は千馬)、旅慣れた千馬を中心にしたグループ旅行だったのである。 

 おなじく請払帳によると、右衛門七は生活費の援助を受けている。「飢渇に及候に付」と貧窮していた様子がうかがえるが、当然ながら葬儀費用がないようなら援助が受けられたと思われる。他の同志に武器・武装代を支出したケースもあり、仮に腹巻を請け出す金がなければ、支出してもらえただろう。詐欺で訴えられて手が回り討入に支障が出るリスクを冒すことは考えづらい。


 右衛門七の詐欺容疑は、どうやら冤罪だ。『義臣伝』の本拠たる『通俗演義赤城盟伝』には見えない話である。深淵の創作なのか、ガセネタを摑まされたのかは、なお検討を要する事項である。