「忠義画像」の補足。

 瑞光院にあった赤穂義士図で、現在山科大石神社に伝えられているものがある。赤穂市歴博の展示図録で「赤穂義士画像」と題されているものだが、寺田孝忠の筆で、享保14年以前に成立していたという。富岡鉄斎は、これを再構成して「赤穂義士像」屏風を描いた由である。

 これは『赤城義臣伝』が「新像」と呼んでいるものと見てよいだろう。『翁草』が寺田又兵衛によると言っているものとも、符合するようだ。ただ、絵柄を見ると『義臣伝』同様に討入班を示す標識がついている。表門隊を24人、裏門隊を22人とするのも『義臣伝』と共通する。

 これを共通の種本(正像)によったからとするのも、確かにひとつの見解ではある。しかし、正像が麻上下であったという『翁草』の説を信じた場合、そして完成が『義臣伝』に遅れていることを考えれば、むしろその影響を受けたとするのが妥当なように思われる。

 最終的な結論を出すまでには、まだ考えなければならないことがあると思うが、まずは如斯。