牧師で小説家だった沖野岩三郎の随筆集『宛名印記』に「信夫恕軒と島田墨仙」の一編が載る(例によって国会図書館デジタルコレクション)。墨仙は福井出身の日本画家で、歴史画を得意とした。一番有名なのは小御所会議を描いた「王政復古」だろう。沖野とは信州の別荘が隣同士という間柄で、毎年夏には親しく話したとのことである。


家庭の事情で福井で教員をしていた墨仙が東京に出たのは三十に手の届こうという明治29年(1896)のこと。橋本雅邦に師事して絵を学ぶうち、「老釈の画家」になりたいと思い、そのためには漢学の素養が不足していると、「当時日本一の名文家」信夫恕軒の門を叩く。墨仙よりは30年あまりの年長で六十過ぎ。
ところがこの先生、御案内の通りの気難し屋で、門人は皆逃げ出している。その上、細君とは死別して万事不自由なやもめ暮らしである(ちなみに子息淳平=清三郎の父=は、この時期久留米やら漢城やらに赴任している)。墨仙は神田に下宿していたが、毎朝本郷の師匠宅に出かけて朝食の支度をして、いったん帰宅、自分の食事をしてから改めて出かけるという具合。
恕軒がときどき涙を流している。墨仙が「どうなさったんですか」と聞いても答えないが、ややあって「皆俺の教えを受けながら、師恩を知らぬヤツばかりだ」と怒鳴り散らし、それから「まあ島田がいるから…」と機嫌を直して、講義にはいる。
まるで駄々っ子である。しかし、それが師なのだから始末が悪い。数行読んで墨仙が読み違えると、拳骨が飛んでくる。六十の爺さんが三十の大人を殴るのである。墨仙が浅野内匠頭でなくてよかった、刃傷には及ばずに故障を申し立てる。
「それは先生、御無理でしょう」
「何が無理だ」
「先生と私などを同格に見られるから、そんなに御立腹なのでしょう。それは御無理というものです」
「なるほど、それもそうだ。では次を読もう」
博文約礼とは何の謂ぞ。およそ人格の完成とは縁遠い漢学先生である。
帰郷した墨仙が土産に雲丹を持ってきた(越前福井出身である、念のため)。
先生曰く「どうせならナマがよかったな」
クール便などない時代。「生では東京まで持って来れません」
「ナマというのは現ナマのことさ」と親指と人差し指でマルを作ってみせる。
翌日、玄関に貼り紙があって「物品もありがたいがなるべく現金で」
墨仙は黙ってはがしたそうな。
金に困っていたのは相当らしい。墨仙が新聞小説の挿絵の下請けをして、そこから寄付したという話も載っている。まことによくできた弟子である。
恕軒が赤穂義士に詳しく、またこれを語るのを得意としたのは、改めていうまでもない。
「今日の書物はここまでにして、義士の話をしよう」とて、講釈が始まる。あるいは慷慨あるいは感泣、先生が涙を流して語れば、弟子の方も瞼を腫らしてこれを聞く。…と、ここておわれば一佳話ということなのだが、そうは問屋が卸さない。翌日「どうだ、義士伝は面白かろう」「はい、誠に感心いたしました」「そうか、それならお前んところの殿様に言って、おれを頼むようにしてくれ。1回5円でいいから」と営業である。松平侯にそのお気持ちがなかったので、この話は不調に終わったそうである。
義士研究の大家にしてこの行状、遺憾ではあるけれど、翻って思えばかの「赤穂義士談」の筆記も同じ頃合、相当の謝礼に惹かれて講演したに違いなく、逆にいえばこの有様でなければ名著『赤穂義士実談』は世に出なかったかも知れない。
当時の講釈師で恕軒のもとを訪れなかった者はないという。幾許かの金銭をとって材料を提供していたに違いない。それがどれで、今はどれが残っているのか、承知の範囲ではない。ただ、恕軒が金につまってネタの切り売りをしたおかげで、忠臣蔵文化は豊かになったと思われるとは言ってもよいだろう。