表題は、言うまでもなく七段目由良之助の台詞である。裏切り者の斧九太夫は、大星の心事を試そうと、主君・塩冶高貞の逮夜であることを承知の上で、わざと蛸の足を勧める。大星はこの台詞を言って、何事もなかったようにこれを食するのである。「手」と「足」を使った軽口で、なかなか巧妙だと思う。
 それはともかく、現代人にはタコがどうして踏絵の役割を果たすのか、理解しがたいであろう。「判官殿が蛸になったという便宜でもあったか」という方が合理的であって、「四十四の骨々も砕くるようにあったわやい」という恨み言に共感する方がむずかしい。なにしろ現代日本では、通夜ぶるまいから、刺身だ・寿司だ・唐揚げだ、と用意しなければならない。故人に対する気持ちから野菜の煮〆だけにしたらケチだと言われかねない状況だから、精進する気は「けもないこと」にならざるを得ない。夜叉め、魔王め、あのここな人外めら・・・。
 菜食が正しいというつもりは毛頭ない。葬儀のあり方は主として社会通念・慣習の問題であって、現代のスタイルが間違っていると決めつけられるものでもないだろう。ただ、そういう感覚の違う世界であることをふまえないと、「忠臣蔵」を楽しめないことになる。現代では、親の敵討をしないからといって不孝でないのと同様に、親の葬儀に精進しないからといって不孝なわけではない。そういう価値観が支配していた時代であることの知識と、その社会に生きていた人々の精神に対する想像力が必要とされているのだ、ということである。 
2001年10月20日