幕末人士にとって赤穂義士は、開国・攘夷・勤王・佐幕といった政治的・思想的立場を超えた共通の理想であった。幕府側なら隊服を討ち入り装束に似せた新撰組の面々や、『氷川清話』で大石を称揚した勝海舟が挙げられる。長州では吉田松陰の義士フリークぶりをシリーズでお知らせしたが、薩摩だって引けはとらない。
薩摩ではいわゆる郷中教育の一環として、12月14日の夜に青少年が義士伝の輪読会を催すという慣習があり、全員が義士教育を受けていた。『赤城義臣伝』をテキストとして、義臣伝読みと称したのはいつからか明確ではないが、少なくとも幕末に定着していたことは疑いない。
慶応2年(1862)12月14日、京都薩摩藩邸内の西郷隆盛家でこの義臣伝読みが行われたことが知られている。中岡慎太郎の日記『行行筆記』によれば「薩摩には毎年此夜を以て、大臣小臣老幼の指別なく、もよりもよりに相集て、赤城義臣伝を読む例とて、初夜前より西郷の寓に会し、徹宵廻読」したという。集まったのは、西郷信吾(従道)、黒田了助(清隆)、村田新八、伊集院直右衛門(兼寛)、椎原小弥太、大山弥助(巌)、□□□□□、山中敬三(池大六、土佐藩)、井原(小七郎、長州)、品川(弥二郎、同)、清水(仁三郎、同)、河上(不詳、まさか彦斎ではないだろうが…幕末史に詳しい方助けてください)、そして中岡。西郷自身は小松帯刀に用事があって留守だったという。
中岡の記述を新聞で紹介した桐野作人氏は「たまたま来訪して付き合わされたのだろう」としているが、私はちょっと違う印象を持っている。品川弥二郎日記だと「夜黒田来訪。同行西郷氏ニ行、義臣伝会読。五更帰宿」とある。黒田清隆は品川弥二郎を誘いに行ったようだ。中岡のところにも誰かが来たのではなかろうか。ただ薩摩の年中行事に参加させたということではなく、薩長土三藩の同志が結束を固めるためのイベントとして、特に企画されたもののように思われる。赤穂義士=忠臣蔵という文化事象を通じて、薩摩の若者たちは、維新の志士は、あるいは日本国民は一つになっていったのである。
薩摩ではいわゆる郷中教育の一環として、12月14日の夜に青少年が義士伝の輪読会を催すという慣習があり、全員が義士教育を受けていた。『赤城義臣伝』をテキストとして、義臣伝読みと称したのはいつからか明確ではないが、少なくとも幕末に定着していたことは疑いない。
慶応2年(1862)12月14日、京都薩摩藩邸内の西郷隆盛家でこの義臣伝読みが行われたことが知られている。中岡慎太郎の日記『行行筆記』によれば「薩摩には毎年此夜を以て、大臣小臣老幼の指別なく、もよりもよりに相集て、赤城義臣伝を読む例とて、初夜前より西郷の寓に会し、徹宵廻読」したという。集まったのは、西郷信吾(従道)、黒田了助(清隆)、村田新八、伊集院直右衛門(兼寛)、椎原小弥太、大山弥助(巌)、□□□□□、山中敬三(池大六、土佐藩)、井原(小七郎、長州)、品川(弥二郎、同)、清水(仁三郎、同)、河上(不詳、まさか彦斎ではないだろうが…幕末史に詳しい方助けてください)、そして中岡。西郷自身は小松帯刀に用事があって留守だったという。
中岡の記述を新聞で紹介した桐野作人氏は「たまたま来訪して付き合わされたのだろう」としているが、私はちょっと違う印象を持っている。品川弥二郎日記だと「夜黒田来訪。同行西郷氏ニ行、義臣伝会読。五更帰宿」とある。黒田清隆は品川弥二郎を誘いに行ったようだ。中岡のところにも誰かが来たのではなかろうか。ただ薩摩の年中行事に参加させたということではなく、薩長土三藩の同志が結束を固めるためのイベントとして、特に企画されたもののように思われる。赤穂義士=忠臣蔵という文化事象を通じて、薩摩の若者たちは、維新の志士は、あるいは日本国民は一つになっていったのである。