嘉永4年(1851)、江戸に出た吉田松陰の日記(辛亥日記)がある。
ここからは、安積艮斎の講席につらなり、山鹿素水・佐久間象山に入門するなど、文武の修学に励んだ様子が知られる。剣術もやっているが「形」の稽古が主で、当世流の仕合はしなかったらしい。流儀は不明だが斎藤弥九郎を訪ねたことは記されている。
合間には江戸の名所を見物している。身なりに無頓着な彼のことゆえ、定めて新五左であったろう。9月27日には泉岳寺に参詣した。同行者があったかどうかは明らかでないが、16文で義士墓図を購入したことはわかる。
その10日前、17日には来原良蔵・井上壮太郎・鳥山新三郎・宮部鼎蔵・江幡五郎と舟遊びをしている。3ヶ月後に脱藩騒動を起こす、そのきっかけとなる泣社の交わりである。12月15日の出発を約束したのはこの時かも知れない。
東北旅行の出発時に、宮部・江幡は泉岳寺に詣でている。藩邸を脱走して水戸に先行した松陰は、これをともにすることはできなかった。しかし、それ以前に義士の墓参はしていたのだ。
下田で密航に失敗し、江戸に護送される途次、泉岳寺の前を通るときに詠まれたのが「かくすれば」の名吟。彼の脳裏に参詣の経験がなければ、この歌は生まれなかったかも知れない。
泉岳寺は、赤穂事件のみならず幕末史にとっても大きな意味を持つ場所なのだ。

泉岳寺の中門は天保ごろに建てられたというから、大石内蔵助はこの門を知らないはずであるが、吉田松陰はこれを潜って参詣しただろう。
その門の隣に八階建てのマンションを計画する輩がある。まことに残念な次第であるが、これを食い止めようとしている人々もいる。その努力の実る日がきっとくると信じたい。

至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり。