島津綱貴というと吉良上野介の娘婿だった人物である。吉良の娘鶴姫(後に七姫)が実兄・上杉綱憲の養女になって島津家に嫁いでいた。もっとも離婚しており、婚姻期間は延宝三年から八年の五年半程度だった(綱貴はまだ世子)。それから二十年後、赤穂事件が起こる。
討ち入りのことを聞いた綱貴は「当家にとって幸いであった」と漏らした。「なぜ」という問いに「上杉と縁がつながたままであったなら、四十余人の者どもと戦わなければならなかったではないか」と答えたという。(丹羽謙治「鹿児島から見た都の錦」)
この話、記録されたのは百年後だし、綱貴の行列が引き揚げる一統と遭遇したというエピソードがくっついていて、無条件では信じがたい。が、元になるような発言はあったかも知れない。
はじめてこれを読んだときには、島津家が少々薄情なように思われた。離縁したとはいえ、一時は義父だった人物である。ちと、冷たいんじゃなかろうか、と。

今般米沢の上杉博物館で「忠臣蔵の真実」という展示が行われている。残念ながら行くことができそうになく、通販で図録を入手したのだが、離縁の時の事情がもう少し詳しく説明されていた。
それによると、鶴姫は実家の吉良邸に里帰りしたまま戻らなかったらしい。島津側は復縁しようとはかったのに不調だったとある。ふたりの間に何があったかはわからないし、大した問題ではない。武家の婚姻は同盟の締結であり、その関係が上杉・吉良側から一方的に断ち切られたのである。島津の面目丸つぶれ、敵対行動と見られても仕方あるまい。
という認識に立てば、綱貴の発言はむしろ穏やかかも知れない。薩摩藩内には吉良・上杉に対する反感があった可能性少なからず。薩摩藩士・村上喜剣の慷慨も、単に義を重んずるばかりでなく…オットこれはフィクションだった。
なお、鶴姫は万治三年生まれだから大石のひとつ下で、綱憲の姉になる。養女になったというのは誤りらしい。離別後は上杉家に引き取られ、事件後の宝永五年まで生きている。